FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

オルセー美術館展 ― ゴッホ「星降る夜」に聞こえる心の息とゾッとする絵

2010-07-18 02:03:37 | 文学・絵画・芸術
 ゴッホ「星降る夜」

絵に限らず、芸術は本物を観るのがいい。
絵画について言えば、印刷された絵では味わえないところが多い。

絵画展に行くと、私は顔をつけるようにして作品を見ます。離れても見るが、なるべく近くにくっついています。筆の刷き方や、絵の具の塗り具合が知りたくて―。美術家でもない私が、まるで画学生か専門家みたいに絵に顔をくっつけているのは、はたの人には、なんとも滑稽かもしれません。

でも・・・。

たとえば、ゴッホの絵。ちょっと離れて見ると、風景でも自画像でも意外と端正ですっきりしています。しかし間近では、油絵の具の固まりをバターのようにナイフに付けて、1回ごとに塗りたくる、というより固まりのまま絵の具をこすり付けている、そんな跡が分かります。粗雑な壁塗りに見えて、それが離れて見ると、繊細な、あのゴッホの絵です。

油絵の具が固まって先がとがったまま、ところどころキャンパスに残っていようが、この画家にはどうでもいいのかもしれません。ひとパテずつ何十回、何百回、絵の具の跡を追って画家の内部についていくことで、作者との息遣いが重なってくるように思えてきます。(実際は混雑した館内でそこまでの鑑賞時間はありませんが。)

この「オルセー美術館展」では、人気ナンバーワンがゴッホの『星降る夜』です。夜の空に花火のように光る星の瞬き、水面に映る街頭の灯り。手前には肩寄せ合う恋人・・・。この二人は恋人なのでしょうか。私にはどうも、なにか貧しく、侘しい事情を抱えながらも中年の夫婦が身を寄せ合い、互いを思いやって、それでもなんとか生きていこうという感じが伝わってくるのです。二人の人生のドラマの中に引きずり込まれそうな気がして切なく、胸が苦しくなります。(小説家なら、この絵の男女の姿から、1編の物語が描けます。)

この絵をちょっと離れて見ると、夜空の青と、星光りの黄色(金色に近い)、そして暗い街の緑が調合されて、独特の静かさが私の心に呼びかけてきます。そばに寄って、その絵の具づかいを追っていると、ゴッホ独特の息が聞こえてきます。

「綺麗か、ほんとにきれいなのか」、「美しいか、ほんとに美しいのか」、「静かか、ほんとうに静かなのか」――。そうやって外部に向かって、心の内でつぶやきながら、1回1回、油絵の具を固まりのまま塗りつぶしていったのか・・・。私には聞こえてくる気がします。この静かさの中からゴッホ自身の不安にとりつかれた魂の息が。安らぎのひと時のために星と夜と水面、そして恋人(夫婦?)を描いていたゴッホの隠された息遣いを。


  
モネ「日傘の女性」      ルソー「蛇使いの女」 
 
この美術館展では、モネの「日傘の女性」、ルソーの「蛇使いの女」など、ちょっとゾッとする絵も興味深いものでした。
少しだけ書くと、「日傘の女性」は清楚で美しい女性の姿が心地よくも惑わしのある風とともに描かれていて、“幻想の初恋”を思わせます。しかし近づくと、女性の顔は描かれておらず、目や鼻が洞穴のように暗く塗りつぶされていて、亡霊かと、思わずゾクッとします。

「蛇使いの女」は、密林の夜というだけでも神秘的なのに、何匹もの太い蛇が現れ、笛の音にくねらせ、そのうち1匹は少女の身体と膝まである長い髪に絡み付いてきているのを見てゾーッとします。顔が真っ暗で、よく見ると両目だけが見開いて暗がりからこちらを見つめている、それがなんとも不気味だけれど引きつけられてしまい、身動きできなくなるのです。


「城」の夢 ― カフカにとりつかれて

2010-07-03 14:47:36 | 文学・絵画・芸術
夢は、よく見ます。

映画のように感動し、この世とも思えない絵画や音楽を夢の中で見たり聴いたり、眠りの中で1文字1文字、読み、書き、「名作」もつくりました。

夢の中では冒険や悲劇の物語が展開し、恋愛もし、涙もした。それを「夢ノート」に書き続けたものです。その頃から、よく見る夢があります。「城」。城そのものであり、山、塔、建物であり、それらのシンボルが「城」です。

そう、カフカの『城』 ―― 。中身はよく覚えていません。主人公の技師が城主に呼ばれ城の近くまで来ますが、そこから紆余曲折があり、なかなか城に入れない。城は眼の前に見えているのに、不可解な理由でいつも阻まれ、城の周りをうろうろするだけで、結局たどり着けない。そんな話です。

これを、「不条理」と呼びます。カフカ自身が言ったわけではなく、その後の実存主義批評家たちが名づけたものです。サルトル、カミュたちと同じようにカフカも実存主義の作家(不条理の文学)と言われています。

実存主義の小説はよく読んでいたので、『城』『審判』『変身』なども読みました。はっきり言って、よくわからない、というのが印象でした。作品の中身については、いずれ書きたいと思います。この「城」の夢を、何度も見るのです。夢の中のシチュエーションはそれぞれ違いますが、内容は似たものばかりです。

私は自称(事実)、かなりの方向音痴です。歩きでも車でも電車でも、初めての場所は一発では行けません。2回目以降でもしょっちゅう迷います。何度も地図を確認しないと不安で、それでも道に迷います。先日も駅から5分の所なのに簡単に行けませんでした。途中にあるホテルの守衛さんにたずねると、
「そこなら、ほら、あそこに見える高いビルがそうです。この道をこう行って、歩道を渡って、公園を突っ切って、そのすぐ横です」と言う。
―― なんだ、すぐそこじゃないか(もともと駅から5分なのですから)。
・・・それから目的地まで、30分もかかりました。

そのビルは、確かに眼の前、公園の上に高くそびえています。直線にしたら、100メートルも離れていなかったでしょう。ただ、直線には行けない。迂回したり、曲がったり、戻ったりしないとたどり着けない。それでも眼の前に、いつも建っているのです。手を伸ばせば、すぐ触れそうな所に・・・。
―― ああ、また「城」だ。
この時も、そう思いました(ただの方向音痴じゃないかと言われそうです・・・)。

夢の中でも、同じです。眼の前に「城」があるのに、私は「城」の周りの迷路を歩き回っている。解決策を求めに行くのか、そこがゴールだからなのか、誰かを救うために行くのか・・・。いくつも障害がふりかかってきて、たどり着けない。それでも「城」は、神のように、悪魔のように、ただ粛然と建っている。

いまだに道を探り、さまよっている。自分の行き着く先は、眼の前に「城」として現れているのに、そこへたどり着けない。これは「不条理」なのか、ただの怠け者なのか、そもそも能力がないのか・・・。

こんな夢を見るたびに、カフカの『城』を読み返そうかと思います。当時、よくわからなかった作品でしたが、今ならかなり、しっくりくるのかもしれません。ちなみに、村上春樹氏はカフカにだいぶ影響を受けたと聞いていますし、『海辺のカフカ』など読んでみようかと思います。この作品はまた、ドストエフスキーの父殺しのテーマが隠されているらしい、と亀山郁夫氏も興奮気味に書いていましたので。