FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

向源寺 十一面観音菩薩 ~ 魅せられたる魂とからだ 

2009-10-30 00:24:00 | 仏像・仏教、寺・神社

 忘れずに書いておきたいと思う。
 向源寺(滋賀)の十一面観音菩薩立像のこと。

 仏像に凝っていた頃、どの仏像がいちばん魅力的かあさっていたことがある。全国くまなくこの眼で生の仏様を見るには限界がある。書籍や図鑑、ムックなどをめくる日が多かった。
 奈良の大仏様は端正だが、焼失前の初代作に比べ四角っぽくて、ロボットに見えてくる。鎌倉の大仏様も、はじめて見た時は、勉強のよく出来る学級委員長を思い出した。最近は味のあるお顔をしているのが分かってきた。

 これはと思ったのが、薬師寺の聖観音像、同寺の日光・月光菩薩。この寺で、一人で何分も観音像と対座した。興福寺の阿修羅像も魅力的だし、広隆寺の弥勒菩薩も繊細で優しい。長谷の観音様も見上げて飽きない。東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索(ふくうけんさく)観音立像にも、圧倒された。修復前に見た、天平の空のように澄み切った青の中に聳え立つ、唐招提寺金堂におさまる盧遮那仏(るしゃなぶつ)、千手観音など――。

 “いずこも忘れがたく・・・”と言いつつ、“ROME”―、とお忍びのアン王女(『ローマの休日』オードリー・ヘップバーン)が断然と、目を輝かせて声を放ったように、僕も言おう。
 「いずれも選びがたく・・・」としつつ、「向源寺の十一面観音像」―。

 3年前、滋賀のお寺まで見に行くには、ちょっと遠いなあと諦めていた頃、上野の東京国立博物館に来た。
 ほかの仏像もさまざまにあったけれど、「そこ」だけ、天から黄金の光が降ってきていた。身体の周りには、金粉のように、ちらちらと光の虫が舞っている。身体の輪郭は、ひと膜の発光の層が覆っていて、神々しくまぶしい。人々が、「そこ」だけを中心に取り巻いている。全身の金箔はほとんど剥げ落ち、濃い褐色の木肌があらわになっているのに、空気をも輝きに包んでいる。
 それが、十一面観音立像。

 僕は、正面から、背後から、斜め前から斜め後ろから、右から左から、どこから見ても飽きることなく、見続けた。ほぼ等身大で、落ち着いた、たおやかな腰あたりからややくねり、中性を超えた色気がある。それは、しかし、触れがたい色欲(しきよく)を超えたもの。この世的でない、やすらぐ顔立ちだ。

 紙の上で見て、仏様のランク付けをしていたことが吹き飛んでしまうほどの、静かな強いゆすぶりを感じた。仏像は、仏の教えを具現するものだ。だが、人間は美しくないものに惹かれない。いくら正しい教えでも、人の心は、見た目の美しさから入る。美しいから恍惚となり、そこへと導かれる。

 汚いものは、人は目をそらしていく。快楽を求めているのではない。心の静かさを求めているから。この十一面観音像は、美術的にも最高傑作とされている。この像を見ていると、ほんとうに騙されても仏の道へ入っていいと思えてしまう。もともと仏教の「方便」というのは、正しい方向へ人をだまして道を諭すことをいうのだから。
 
 紙の上では、絶対伝わらないものがある。それは、感覚。五感を超えた超感覚。この観音像を見て、それがよくわかる。
 
 



伊藤若冲 ― 極楽を描いたエロティシズムの絵師

2009-10-22 02:13:41 | 文学・絵画・芸術

 
『雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)』(左)
『老松白鳳図(ろうしょうはくおうず)』(右)


若冲は、極楽を描いてきた。しかも、この上なくエロティックに。

東京国立博物館で開催されている「皇室の名宝展」。若冲の代表作である「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅を順路たどって『雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)』まで来た時、ふとそう思いました。この絵は、木々にねっとりと、溶けかけた雪が枝から落ちていくなかに、鮮やかな葉の緑に映えた中国錦鶏が中央に位置している。ちょっと見ただけでは、1羽が縦に、真っ赤な腹を横向きに見せながら、長い尾をきちっと先まで伸ばして止まっているようだ(じつは、すぐ横にもう1羽が重なるように首を出している)。この光景は、燦燦と降り注ぐ森羅万象を一身に受け止めている何かを感じます。その何か、が感じられる時、はっと極楽を思ったのです。

そう思うと、前のほうに掲示されている『牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)』にしても、『群鶏図(ぐんけいず)』や『紅葉小禽図(こうようしょうきんず)』、はたまた小動物や魚群など、この世の風景を極楽と見立てて描いたのではないか。
鶏が、あのように高貴で神々しく、凛々しく見える。色は絢爛ではあるが、決してけばけばしくない。1幅が、ほぼ畳くらいの絵で、大きさの圧迫感もないが、30幅並ぶと、あらゆる自然の静的な景色を思わせます。

若冲の絵は、鳥や動物、魚を描いているので、動きがあるはずなのに、実際見ると、はた、とそこにそのまますべてが止まっているように思えます。時間が止まっている。しかし、止まっているから、永遠に動いているような気配を感じます。これらの絵は、本来、若冲の仏教画の代表作『釈迦三尊像』を挟んで左右に一同、荘厳に飾られるものであるとのことで、いっそうただならぬ、この世のものではない、そんな思いを抱きます。

何より心引きつけられるのは、1羽の白い鳳凰。『老松白鳳図(ろうしょうはくおうず)』。じつは、この絵だけが見たくて来たようなものでした。何年も前から見たくて、見られなかった。逢えずにいた恋人に会うようなものです。若冲は、一生妻を娶らず、独身を通して絵を描き続けました。それは、女に興味がなかったからではありません。女以上に、絵画に魂を奪われてしまったのです。この白い鳳凰を見れば、いかに若冲のエロティシズムが現れているかがわかります。

あまりに、あまりにエロティックな鳳凰。それは、もう女であり、並みの人間の女より色香を感じさせます。羽先の赤と緑のハート、長い首筋から胸元に続くたわわな盛り上がり、腰からは艶やかにみだれ舞う羽毛の衣装、白い正装の貴婦人か高娼か、口づけを誘い込むような、囁きかける赤い口先、長く伸びた眼は、白眼の両端に行くにしたがい青く、緑に、層を重ねて濃くなっていきます。あたかも深い海の底に男を引きずりこむように――。

それは、女である。鳥の形をした女体である。羽毛の白さに透けた身体は、黄金に輝いている。2本の細い脚もまた、きりりとしまった黄金色だ。

若冲は、こういう色を、当時最高のお金で最高の画材を仕入れて描いたそうです。

女が鳥に化けたのか、鳥が人間の女に化けたのか、もはや分からなくなっていきます――。


鎌倉 明月院には ― 満月とウサギがよく似合う

2009-10-17 11:12:32 | 仏像・仏教、寺・神社
(明月院 枯山水庭園)

明月院は紫陽花。
紫陽花が過ぎても、明月院は人が多かった。

あじさい寺に行く経路はいくつかあって、多摩方面から来る、新宿経路で回る、東京駅まで出て横須賀線に乗って来る、という路線。毎回違っても、大船駅には着く。大船から鎌倉に向かって駅を離れて行くにつれ、右手に、電車の動きに添ってゆっくり、ゆっくり、大きな観音様がこちらに振り向いてくれる。窓から見るのが、いつも楽しみとなる。「あ、観音様が・・・」と誰かが言う。白い、優しいお顔が自分を見返ってくれる。慈しむ母であり、まだ見ぬ恋人であり、いま寄り添うその人の顔であったりする。

鶴岡八幡、大仏様や長谷の観音様は定番だが、たまにほかへ寄っったりする。建長寺を出て歩いて行くと、明月院がある。明月院へ行く道も初めてではない。歩きがてら行く。茶店や、せせらぐ川、置き土産屋に小洒落なギャラリー。京都や奈良と違い、鎌倉の寺々は、ちょっとこじんまりした古都で、すべて歩いて行けない所はない。

この寺も、ゆっくり見るにはいい。紫陽花の咲き頃は、もっと観光客が多いのだろう。外国人も目立ち、特にアジアの人の言葉もよく聞かれる(顔だけでは分からないが、言葉で韓国や台湾などの人と分かる)。

前にも来たはずなのに、あんまり覚えていない。枯山水庭園は、竜安寺(京都)のものにはなかなか及ばないが、小ぶりでも、本堂の前に人を迎えるように、それが務めかのように、堂々と庭が見られている。石(山と自然)と砂(海)が落ち着いた世界を形づくっている。

その前にある本堂。靴を脱いで上がって、そそくさと畳を擦って敷居を超え、池と芝の見える庭園に向かって欄干に腰かけてみた。少し前ならハナショウブが池の向こうに見えるのだろう。今は花がない時期。コスモスが見える程度だ。少し休んで、畳の間に戻り、今いた場所を振り返る。と、そこには別の世界があった――。

(明月院 本堂)

ああ、これが禅の世界だな、と思った。先ほどまで、なにと感じられなかった景色が、別の世界に変わってしまう。明かりを外から採り入れる代わりに、こちらの間(ま)は光を閉じ込め、ただ中央に大きな円月をくりぬいている。そこから外の世界を取り込む。これだけで、世界はまったく変わってしまう。この円月の隈取りをただ通りすぎて外の景色に見とれていては、そこに感じるものはない。

平凡な世界。そこに入り浸っていては、その場所になじむだけである。ひとつ下がって、境界を変えて見るだけで、「こちら」と「あちら」の世界観は変わる。自然は、円月の境界に閉じられたようで、じつはその宇宙は広がっていく――。

円月の明かり取りは、満月であり、ウサギがよく似合う。

(明月院のシンボルはウサギ。9月下旬 北鎌倉にて)

キング・コング ― 無意識層に眠る神話の映像

2009-10-07 02:50:32 | 芸能・映画・文化・スポーツ
私の少ない映画鑑賞歴の中で、『キング・コング』“King Kong"(1933年)は別格ものです。私の中でベスト3にランクする名作です。

先日、最新版『キング・コング』(2005年)がテレビで放送されました。公開時にも観ましたが、これも素晴らしい作品です。コングの表情や動きが‘人間のよう’で実にいいし、美女(ナオミ・ワッツ)もいい。コングと美女の心の交わりにリアリティがあります。巨大なペットとの愛情というより、‘人間の男’と女の情愛を感じ、心が動かされます。

『ロード・オブ・ザ・リング』を作ったピーター・ジャクソン監督が、初作の『キング・コング』を観てから「ずっと作りたかった映画」と言っただけあって、自由に、のびのび、贅沢に作っています(『ロード・オブ・ザ・リング』は『キング・コング』を作るための資金稼ぎ? とまで言われた)。日本では、今ひとつ話題にならなかったようですが、ちゃんとアカデミー賞3部門を受賞してるんですよ。

「キング・コング」は、日本の怪獣映画でもゴジラとともに登場していますが、アメリカ映画では何回かリメイクされています。最初の『キング・コング』(1933年)に続いて『コングの息子(コングの逆襲)』(1933年)、『キングコング』(1976年)、『キングコング2』(1986年)、そして今回の『キング・コング』(2005年)です。

最初の2作を観たのは、小学校ですから、当時はテレビで何回目かの再放送だったのでしょう。それ以降は、ほぼリアルタイムで観ています。人間の女とコングが愛情を交わすのが感じられるだけに、毎度、最後にコングが人間の欲望によって殺されてしまうのが、悲しくて、悲しくて、やるせなくなってしまいます。孤島で、神として崇められていたコングが、人間にとらわれて、ただの巨猿にされ、見世物となる――。やがて行き場を失い、エンパイヤ・ステイト・ビル(世界貿易センタービルの時もありました)に登っていく。コングには、故郷の島にある崖の上と思える場所なのです。

向かってくる飛行機を、大コウモリをやっつけるように仕留め、威勢をはる姿――。あの、森の勇者のごとく、密林の神のごとく、高層ビルのてっぺんに立ち、胸を両手でたたきつける姿に、こちらの胸が締め付けられるのは、コングに愛情を寄せる美女だけではないでしょう。

最初の『キング・コング』の時は、近所の子どもたちと釘付けになって観たのを覚えています。その後、ビデオでも観ました。CGのない時代、80年近くも前にこれだけの特撮映画を作ったアメリカは、すごい! 白黒の映像が、逆に現実感があって、それが夢の中の出来事か、現実のことなのか、わからなくなってしまい、脳裏に貼りついているのです。

なぜ、これほどまで、この映画にひきつけられるのでしょう。そこには、神話的世界が繰り広げられているからです。巨大な獣、神と人、絶海の孤島、原住民、いけにえ、美女、宝探し(金儲け)、野望、密林と都会、異世界の迷路、見世物(ショー)、大金持ち、英雄、破壊と恐怖、野獣と美女の再会、愛、高い塔(ビルの頂上)、人間界の掟、善と悪、悪(コング?)の抹殺――。精神分析学者ユングのいう集団的無意識層に眠る、人間と自然と社会のあらゆるものが、そこにあるからです。

集団的無意識というのは、人類全体が共通に持っている無意識のことです。それが、白黒映像の神話となって、私の意識下にずっとあるのです。『キング・コング』は、名作中の名作であり、かつ私の潜在意識を映像化してくれるものです。

ベスト3の残りのベスト2はって? また、いずれ紹介することにします。