FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 ― 村上春樹の世界

2011-04-24 00:30:43 | 文学・絵画・芸術

 村上春樹の言葉は、すいすい進む。彼の文体は、どういうものなのだろう。文章だけみていると、アメリカの作家や小説、歌手や音楽の名がよく出てきます。アメリカの小説は、作者自身でもよく翻訳しているし、アメリカのジャズやポップスなども、一時ジャズ喫茶を経営していたというから納得がいきます。

 

それを抜きにしても、村上春樹の文章はすいすい読める。よく、翻訳調の文章と言われますが、同じ翻訳調でも大江健三郎の小説となるとそうはいかない。二人ともノーベル文学賞級の作家(大江健三郎は受賞者であるし、村上春樹は毎年受賞候補にあがっている)で、共通点はあるのでしょうか。

 

ちょっと乾いた(ドライ)な文章というか、湿った(ウェット)なところがない。会話の文章がうまい。描写も長くもなく、短くもなく、ぴしゃりとおさまる。そういうところが、世界中で読まれているゆえんだろうか。同じノーベル賞候補だった三島由紀夫と比べるとずいぶん違います。日本の古典を読みつくして、その真髄を現代の文章に蘇らせた三島由紀夫の作品もかなり読みましたが、おそらく対極的な文体なのでしょう。

 

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』については、もう多くの読者に語られているかと思います。確かに面白い。構成も斬新だと思う。2つの物語がパラレルに進行して最後に交錯するのは、『海辺のカフカ』でもやった手法です。ただ、核心部分を除くと、けっこう語りが長いような気がします。作者の文章が軽快で、それを長く感じさせないところがうまいところとはいえますが。

 

いきなり、ある状況の中に放り投げられて状況に振り回される。その状況内で、自分をそこに追いやった世界を「不条理」と思いながらも、何とか解決策を見出していく。この辺はカフカの作品を髣髴させます。カフカの作品でも、不条理な世界に放り出された理由や原因の説明などありません。もともと、人間の置かれた状況そのものが「不条理」なのだから。

 

「なんで、俺だけが・・・」「そいつは、不公平だ」。そんなこと言ったって、始まらない。そういうことは、人間の世界ではいくらでもあります。その中で、一つの「世界の終り」があり、新たな「世界の始まり」がある。一人の人間の意識の中で、一つの自分の世界が終わる(存在意識が終わるというふうに作者は説明しているようだ)というのは、考えてみれば殺伐もし、ぞっとする。実際「世界の終り」の章では、殺伐たる光景が進みます。それが存在意識(自分の過去の記憶ととってもいい)がなくなるということです。

 

幸いというか、作者はこうした現代、あるいは未来に起こりうるかもしれない人間の意識の世界をすいすいと書いていきます。だから、読み進めていけるのでしょう。それで、あとでちょっと考えて、ぞっとし、ほんとうにこんなことがあるのだろうか、「いやだなあ~」「こわい~」と、ボディー・ブローのようにきかせてくるのです。

 

これはうまいやり方です。私は日本の現代作家の小説はあまり読んでいませんが、少し癖になるかもしれない。ノーベル文学賞受賞は、世界での地域的な順番があると言われているらしいので、今度はいつ日本人作家に順番が回ってくるかしれませんが、それが1年でも早いにこしたことはありません。

 


クレオパトラとエリザベス・テーラー ~ 絶世の美女 

2011-04-17 19:06:29 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

 

世界一の美女とは誰か? 

 

― 小説の中では、「彼女は世界一の美女である」と書けば、それが世界一の美女なのである。

と、三島由紀夫は『文章読本』で書いている。

 

小学校1,2年の頃、「世界一の美女」といえば、エリザベス・テーラーと聞かされたことがある。その時は、イギリス王国のエリザベス女王と区別がつかなかった。

 

女優エリザベス・テーラーが先月(323日)亡くなった。79歳。晩年の彼女には世間もそうだが、私自身もそれほど関心がなかった。考えてみると、彼女の映画も観たことがない。「世界一の美女」ということで、ネットで若い頃の写真をいくつか見ると、やはりそれは、すごい美貌である。数いる海外の美人女優の中でも、とび抜けている。

 

どんなに美女と言われている人でも、たいてい、その容貌にあいにくのささやかな‘瑕疵(きず)’というものがある。といっても、凡庸な顔の女優に比べれば、欠点というほどの欠点ではなく、その美女らしい愛嬌や可愛らしさ、あるいは親しみやすさというものでしかない。

 

たとえば、少し目が釣り上がってきつめとか、逆に目じりがちょっとだけタレ気味とか、唇が厚め、鼻がやや上向き・・・、など。しかし、そういうのが強い個性であり、魅力となっている。

 

― 彼女は世界でいちばんの美女である。

と、小説で書かれても、イメージがわかないし、どうも親近感が出てこない。いっそ、

― 彼女は、一目でハッとさせるほどの美しさをもっていた。しかし、澄んだ大きな瞳のわりに両目じりがやや上向きのため少しきつい性格を思わせるのか、初めて会う男たちを一瞬逡巡させるところが欠点といえば欠点といえた。

 などと書いてくれたほうが、完璧な美人ではないにしろ相当な美女で、ああ、誰もがその魅力に取りつかれてしまうのだなと思う。

 

ところで、その‘瑕疵’というか‘欠点’がない、「完璧な美女」がエリザベス・テーラーなのだと言われていた。この機会に彼女の代表作とまではいかないが、話題作であった『クレオパトラ』を観てみた。1963年の大作で、現在の価値で3億ドル(当時4400万ドル)以上かけた大スぺクタルである。DVD2枚で4時間半。普通の映画の3本分。劇作でもシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』と『アントニーとクレオパトラ』の2作分ある。

 

長さはともかく、壮大な歴史的場面とクレオパトラ(エリザベス・テーラー)の美しさ、実在の英雄(ジュリアス・シーザー、マーク・アントニー)の描写などを楽しめば、それはそれで飽きずに済む映画である。

 

意外に思ったのは、エリザベス・テーラーは、その欠点のない、「完璧な美女」であるにしても、最近多いハリウッド女優の美脚プロポーション型女優ではないということである。身長1メートル57というと、日本の女優と変わらない。むしろ、今では日本の平均的な女優よりも小さいくらいだ。彼女の全盛時代にさかのぼっても、それほどスタイルが抜群とはいえなかったようだ(映画では、ほとんどそれを感じさせない)。

 

「絶世の美女」(クレオパトラへの賞賛とかぶってしまうが)と言われるからには、その美貌もさることながら、肉体的な美しさにも言われなければならないと、自分では勝手に思っている。その点は、エリザベス・テーラーにしては、あえて「欠点」といってしまえばそうなのか。そうなると、やはり、「完璧な美女」はいないものなのか。

 

― 彼女は完璧な美女である。

と、小説作品で書いてしまえば、それが「絶世の美女」となるのである。

 

 


孫への相続ミステリー? 

2011-04-09 03:18:03 | シニア&ライフプラン・資産設計

2月の新聞で、「おや?」と思う記事がありました。 

遺言で母親が長男Aに全財産を相続させようとしたところ、長男Aが親より先に死亡してしまい、その後まもなく母親自身も亡くなりました(父親はその前に死亡しています)。こういう場合、民法では、長男Aの子B(母親からみて孫)が長男に代わって相続できることになっています。最高裁で出された判決では、これがどこまで認められるかというものでした。

 

今回のケースでは、母親が「自分の全財産を長男Aに相続させる」と遺言に残しました。母親には、長男Aのほかに長女Cがいます。子が2人いるにもかかわらず、長男にだけ「全財産」を継がせようとしたのです。その遺言自体、法的には問題ありません。ただ相続人どうしで争いは起きそうです(実際起きました)・・・。

 

問題になったのは母親より先に子が死んでしまったためです。それにより「全財産」が孫にいくかどうかということで最高裁まで争われたのです。相続人である子Aが相続が開始する前に死亡した場合は、亡くなった子Aを跳び越して孫に相続権が移ります。これが「代襲相続」といわれるものです。遺言には「全財産を長男へ」と遺してあります。長男Aが生きていれば問題は起こりえませんでした。全財産がそのまま長男Aに相続されるからです(もっとも遺留分といって、長女Cには法定相続分の2分の1、このケースでは1/2の半分で1/4を請求する権利があります)。

 

長男Aが死亡した以上、民法の趣旨からすれば長男Aに代わって孫Bが「全財産」を相続でき、一審・東京地裁でもそれが支持されました。訴えたのは、もちろん、長女Cです。そもそも、自分も法定相続人なのだから、長男Aが生きているうちから母親の全財産の半分は相続できると思っていたはずです。それが、全財産は長男Aにいくとされ、その長男Aが死亡してからは孫Bに遺産が全部行ってしまう・・・。

 

先だっての最高裁の判決では、孫Cへの特段の明記(つまり、「Aが先に死んだらBに遺産を全部継がせる」という内容)がない限り、母親の遺言は長男Aの死亡によって孫Bまで効力が及ばないとしたのです。

 

どういうことかと言うと、孫Bへの代襲相続は当然認められるが、遺言どおりに「全財産」が相続されるのではない、ということです。遺言は長男Aだけに宛てた遺志として認められるものの、「長男が先に死亡した場合は、孫に全財産を相続させる」と明記されていたわけではないからです。

 

 

最終的には、遺産は遺された長女Cと孫Bの間で遺産分割協議により決められます。長女は「子」として、孫は「代襲相続人」として、それぞれ遺産の分割割合を決めていくことになります。

 

問題は代襲相続にあるのではなく、「全財産」という意味です。長男Aが存命中も、死亡後も、長女Cは相続人としての存在が無視されています。被相続人(母親)と相続人(長男A,長女C)、相続人どうし(長男Aと長女C)の愛情関係と遺産に対する思い。それは、当事者以外には窺い知ることができません。