村上春樹の言葉は、すいすい進む。彼の文体は、どういうものなのだろう。文章だけみていると、アメリカの作家や小説、歌手や音楽の名がよく出てきます。アメリカの小説は、作者自身でもよく翻訳しているし、アメリカのジャズやポップスなども、一時ジャズ喫茶を経営していたというから納得がいきます。
それを抜きにしても、村上春樹の文章はすいすい読める。よく、翻訳調の文章と言われますが、同じ翻訳調でも大江健三郎の小説となるとそうはいかない。二人ともノーベル文学賞級の作家(大江健三郎は受賞者であるし、村上春樹は毎年受賞候補にあがっている)で、共通点はあるのでしょうか。
ちょっと乾いた(ドライ)な文章というか、湿った(ウェット)なところがない。会話の文章がうまい。描写も長くもなく、短くもなく、ぴしゃりとおさまる。そういうところが、世界中で読まれているゆえんだろうか。同じノーベル賞候補だった三島由紀夫と比べるとずいぶん違います。日本の古典を読みつくして、その真髄を現代の文章に蘇らせた三島由紀夫の作品もかなり読みましたが、おそらく対極的な文体なのでしょう。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』については、もう多くの読者に語られているかと思います。確かに面白い。構成も斬新だと思う。2つの物語がパラレルに進行して最後に交錯するのは、『海辺のカフカ』でもやった手法です。ただ、核心部分を除くと、けっこう語りが長いような気がします。作者の文章が軽快で、それを長く感じさせないところがうまいところとはいえますが。
いきなり、ある状況の中に放り投げられて状況に振り回される。その状況内で、自分をそこに追いやった世界を「不条理」と思いながらも、何とか解決策を見出していく。この辺はカフカの作品を髣髴させます。カフカの作品でも、不条理な世界に放り出された理由や原因の説明などありません。もともと、人間の置かれた状況そのものが「不条理」なのだから。
「なんで、俺だけが・・・」「そいつは、不公平だ」。そんなこと言ったって、始まらない。そういうことは、人間の世界ではいくらでもあります。その中で、一つの「世界の終り」があり、新たな「世界の始まり」がある。一人の人間の意識の中で、一つの自分の世界が終わる(存在意識が終わるというふうに作者は説明しているようだ)というのは、考えてみれば殺伐もし、ぞっとする。実際「世界の終り」の章では、殺伐たる光景が進みます。それが存在意識(自分の過去の記憶ととってもいい)がなくなるということです。
幸いというか、作者はこうした現代、あるいは未来に起こりうるかもしれない人間の意識の世界をすいすいと書いていきます。だから、読み進めていけるのでしょう。それで、あとでちょっと考えて、ぞっとし、ほんとうにこんなことがあるのだろうか、「いやだなあ~」「こわい~」と、ボディー・ブローのようにきかせてくるのです。
これはうまいやり方です。私は日本の現代作家の小説はあまり読んでいませんが、少し癖になるかもしれない。ノーベル文学賞受賞は、世界での地域的な順番があると言われているらしいので、今度はいつ日本人作家に順番が回ってくるかしれませんが、それが1年でも早いにこしたことはありません。