FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

今なぜ、サルトル実存主義か ~ 自己を護る理論武装の書

2014-11-13 01:45:10 | 哲学・宗教・思想

 ■ 「白熱教室」の思考実験 

 先月までNHK教育で「ケンブリッジ白熱教室」が放送されていた。講義はケンブリッジ大学のアンディ・マーティン博士(哲学)だ。実存主義哲学についてサッカーのベッカムや歌手のマイケル・ジャクソン、はてはFBIなどを引き合いにして実存主義哲学の思考実験を講義している。 

 今なぜ実存主義か。僕はもうとっくにこの哲学思想は廃れてしまっていたと思っていたから、嬉しくてテレビにかじりついていた。学生を卒業以来、僕は実存主義関係の書物はほとんど読んでいない。実存主義といえばサルトルの『存在と無』、ハイデッガーの『存在と時間』が挙げられる。僕が読んだ頃は、もう下火だったかもしれないが、一時はこの思想は世界中に「流行」したという。

 そういう流行りで読んだわけではなかった。大学生協の書店の棚にずらりとサルトル全集が並んでいたし、神田の古本屋街にも全集本が並んでいた。たまたま、そのうちの1冊、日本語タイトルで『文学とは何か』を買って読んだ。その1冊が命取り(?)になって、『実存主義とは何か』を読んだ。後日、古本屋街で全集本をまとめて買い込んで、両手で抱えきれないほどの本を電車に乗って持ち帰ったのを覚えている。今ならアマゾンで注文すれば家まで届けてくれるが、当時はそんなことは考えられなかった。 

 僕は哲学科の専攻でもなかったのに、こうして実存主義関係の本を読み漁ったわけである。「白熱教室」の講義では、嬉しいことにサルトル、カミュ、キルケゴール、フッサール、デカルト、フロイト、ヘーゲル、ベルグソン、プルーストなど、当時親しんで読んだ哲学者や文学者の名前が続々と出てくるので、ついついテレビを見てしまった。

 それにしても、思想にも流行りと廃れがあるようで、実存主義などという言葉はほとんど聞かれなくなっていた。というより、自分が哲学などの方向からずれてきてしまったから耳に入らなくなったのかもしれない。逆に言うと、この哲学思想が一時の流行の波に洗われ、試練に耐えて、ようやくれっきとした哲学史にその名を印すこととなった証なのかもしれない。 

■ コンプレックス武装の書 

 はっきり言おう。今さらだけど、『存在と無』はけっこう面白い。これは哲学書だけど、文学書でもある。そして僕は、大学卒業当時、自分がこれから生きていくための指南書として読んでいた。この書が自分を導いてくれる、生きる上での武器になると思うと、わくわくして読んだのを覚えている。

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 「地獄とは、他者のことである」

 「まなざす者」と「まなざされる者」

 「意識はつねになにものかを指向している」

 など、哲学書にしては、文学書のような表現が随所に出てくる。

 マーティン博士によれば、サルトルは自分の容姿にコンプレックスを抱いていたという。そのコンプレックス脱却としての武装の書だったのかもしれない。サルトルといえば、写真で見るとおり小柄で小太り、片方の目が藪にらみで、カミュなんかに比べればどう見てもぶさいくで見劣りがする(でも、それなりに僕はサルトルの容姿が思想家らしくて魅力だったけど)。僕はといえば、その頃は社会に出ていく自信がなくコンプレックスだらけだったから、この書に本当に救われる思いがした。 

 哲学ということであれば、『存在と時間』のほうが、厳密的で体系もきちんとしていて、いかにも哲学書という印象がある。哲学書を面白いなどというと、けっこう堅物っぽく思われるが、面白いのだから仕方ない。哲学は、自分自身の存在にその概念が還ってくるので、難解な言い回しに出会っても、自分のこととして考えると、なるほど、とそのうちわかってくるのである。これが経済学になると、自分の外で起こっている事象のようで「なぜそうなるのか」と突き詰めても、結局自分のこととしてわからないのだ。 

 その経済学にしても、最近は人間の不合理性に目を向けて、投資家の心理が研究されている。その根本にあるのは、「人間は不合理な存在」であること。実存主義もまた人間存在を不合理と捉えるが、人間は不合理であると同時に「人間そのものが不条理な中に存在する」と捉える。

 ■ 「不合理」と「不条理」の概念 

 「不合理」と「不条理」、似ているようでちょっと違う。簡単に言えば、「なぜ自分はこんなふうにしてしまうんだろう」と疑問に思うのが不合理。「なぜ自分はこんな状況の中にいるんだろう」と戸惑うのが不条理。これでは余計にわかりにくくなってしまうかもしれないが、たとえば、理性ではAの方がいいとわかっているのにどういうわけかBを選んでしまうというのが「不合理」である。一方、「不条理」というのは、「なぜ自分だけがこんな理不尽な状態になっているんだ、とある状況の中に放り込まれていることに突然気づくことを言う。これをサルトルの言葉で文学的に言うと「嘔吐」であり、ハイデッガーの言葉で哲学的に言うと「世界-内-存在」となる。小説でいえば、カフカの「城」とか「審判」だろう。 

 人間は、自分が今いる状況を常に不条理であると感じる。「世界」の「中」(内)にこうしている自分の「存在」に突然気づいて怯え、「嘔吐」する。このような「もの」としての自分(即自存在)に吐き気をもよおし、そこから脱出しようともがく。その行動への意識が「自由」(対自存在)である。―― ひじょうに大ざっぱに言えば、こういうことである。 

 哲学を無理に経済学に結びつける必要はないけれど、人間の投資心理の研究が進んでいることからすると、「経済哲学」という分野が今後期待されるかもしれない。ただし、投資してみて気づいたら大負けしていて、「なぜ俺だけこんな状況にあるんだ、何とかしてくれ」と叫ぶというのとは、だいぶ違うのであしからず。それは、不条理とは言わない。

 最後に、実存主義哲学をよみがえらせてくれた(?)マーティン博士には感謝したいが、番組ではどうもその醍醐味がいまひとつ伝わってこなかったのがちょっと残念。

 【関連コラム】 

サルトルと与謝野晶子 ~ 哲学的存在論とやわ肌の熱き血潮

ハイデッガー ~ 「世界」の内で「存在」を叫ぶ 

 


立花隆氏と臨死体験 ~ 「知の巨人」が探る脳科学 

2014-10-24 00:18:44 | 哲学・宗教・思想

■知の巨人とは、「知る巨人」である 

 東京小石川に「猫目ビル」といわれる建物がある。外壁に巨大な猫の目が描かれている。「知の巨人」、立花隆氏の書斎専用ビルである。テレビで特集していた細長い4~5階建ての建物だ。ビルというより、縦長の大きな箱で、その中は、それこそ資料だらけ、本だらけである。図書館並みの本が棚に並んでいるというより、無造作に積上げられているといったほうがいい。身内であっても棚の上、机の上にあるものは一切触らせないというし、それでも本人にはどこに何の本があるかすべてわかっている、何万冊ある中でだ。

 あれだけの著作を次から次と出す人だから、本の数もすごいだろうと思っていたが、それ以上だった。おそらく何年かのうちには次のビルを探さなければならないだろう。これは、作家やジャーナリストの宿命みたいなものだ。「巨人」と言われるだけあって、読むほうも「読む巨人」である。 

 テレビのインタビューの中で記憶に残ったのが、「1冊の本を書くのに500冊は読む」という言葉だ。やはりそれくらい読まなければ本など書けるものではない。いや、書いてはいけないのだ。わずか2~3冊のタネ本を読んだり、ネットで記事をかき集めて来たところで、本物など書けやしない。ましてや、人の書いた文章をコピペしたところで、作品になるはずがない。 

■「脱魂」は快感だ

 立花氏はまた、「脱魂(だっこん)」という言葉を使っていた。本の中の真実に魂が奪われてしまう、すなわち「魂が抜けてしまう」ということらしい。この楽しみは、「射精」(テレビでこんな言葉使っていいの?)よりも快感であるという。これだけの書物を読んで、あれだけの書物を書いている立花氏でも、真理というものがいまだわからないという。わからないから知る、だから楽しみということなのだろう。真理というのは追いつめても追いつめても、そして追いつめれば追いつめるほどわからないその先にあるものらしい。

 宇宙、哲学、性、生態文明、サル学、物理学、IT、ガン、脳死、臨死体験、政治、裁判、天皇、ジャーナリズム、・・・、ざっと知る限りでも立花氏の守備範囲(というより攻撃範囲)はこれだけ広い。興味深いのは、氏が老年となり、ガンの治療にかかるようになってから、死というものを強く意識し始めたということである。死を迎えつつ、自身を思考の実験台として真理を究明していく姿、そして今後そこからどのような本が書かれるかということがひじょうに興味深い。

 ■臨死体験と脳と意識

 NHKスペシャルで、立花隆氏の「臨死体験」についてのレポート番組があった。20年前、立花氏が書いた「臨死体験」の本を読んだことがある。臨死体験というのは、脳がつくりだしたもので、臨死からの覚醒直前に起きる夢のような意識であるという説もある。しかし、それでは自らが臨死状態にある時に現実に起きていることを認識できていたということを説明できない。

 例えば、本人が病室のベッドで死の淵をさまよっている時の室内の様子を、あたかもビデオで撮っていたかのように本人自身が蘇生後に詳細に語っている。死に瀕しても声だけが意識の底で聴こえていたのだろうとは、わけが違う。身内が泣いている様子や医師と看護師たちがあわただしく話したり蘇生術を施している光景を映像として記憶しているなど、その場に居合わせて知覚していたという以外にありえない。病室という「密室」で体外離脱して、本人の意識(魂)が上から室内を見下ろしていたということになるし、多くの臨死体験者も同様のことを体験している。 

■臨死によって宗教観は変わるか

 もし、死の間際に人が絶対的な存在(真理、神、仏)に出会い、至福の状態になれるよう脳が仕組まれているのならば、人はどんなに苦しい人生でも死を恐れることなく、死を迎えることができる。立花氏は、そのように語る。それは、たぶんそうだろうと思う。宗教というのは、そういうところから生まれたのだと考えられる。どのような人にも、臨終の時には阿弥陀仏が菩薩たちを伴い、あの世へのお迎えに来てくれる。これほど人々の救いになることはなかっただろう。(念のために、立花氏は宗教についてはいっさい触れていない。あくまで脳の仕組みについて言っているのであり、僕もそれを前提としている。) 

 しかし、一方で最初からそれを見込んでいる悪人は、どうなんだろう。どうせ死ぬ時には善人も悪人も最期はお迎えが来てくれて、至福な意識を持ってあの世に行けるとしたら、死の間際の悔悛というものはいらなくなってしまう。宗教では、そういう者は地獄に堕ちるのだが、脳が最初から誰でも死に際して光悦を得られるように仕組まれていたら、地獄というものはなくなってしまう。

 それとも、あの世に行く時の光悦は、どんな悪人も死に際して、その生前の生き方に応じて強い悔悛を求められて、それによって光悦度(ランク)も変わってくるのか。浄土宗や浄土真宗では、極楽へのお迎え待遇ランクが生前の生き方に応じて変わってくるという。あるいはまた、親鸞の「悪人正機説」のように、悪人こそ救われる度合いが強いのだろうか。これとても、もとより悪人である者はなく、生きるために大罪を犯さざるをえなかった人間の業を救うための方便である。 

 こうなると、臨死の体験というのは、脳科学と宗教という意識の問題にも関わってくる。立花隆氏は、2度目のがんの発症によって、自身の死を強く意識して、臨死における脳の働きを強く知りたいという欲求をもったという。おそらく、病と年齢による残された時間を考えると、この壮大なテーマが立花隆氏にとって最後の(?)著作となるのだろうか。

 


梅原猛 『人類哲学序説』  ~ 人類の学としての梅原学  

2013-10-28 00:15:10 | 哲学・宗教・思想

 「梅さん」の知的活動には驚嘆させられます。「梅さん」というのは、私が勝手に、一方的にそう呼んでいる愛称(敬称)であって、日本の偉大なる思想家にたいへん失礼かもしれません。あの梅原猛さんです。現在、88歳であって、なお思索・著作活動が衰えません。

 最初に梅原猛氏の書を読んだのは、もうずいぶん前で、『地獄の思想』でした。仏教思想を取り入れて解説した内容は、ひじょうに分かりやすく、本の中にのめり込んでいきました。日本人である自分は、やはり日本に根付いた思想をきちんと学ばなければならないと思っていた頃でした。その頃から仏教や仏像、神道などに興味を持ち出していたところへ出会った本なのです。

 日本で生まれて日本で育った私は、少年の頃から地獄の世界にひかれていました。極楽の世界は、その対極にあるものとして興味を持ちました。もちろん、地獄の世界にあこがれるはずもないのですが、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』などで描かれる地獄世界、またその頃の少年漫画誌に載っていた地獄図に心が捉われてしまいました。血の池、針地獄、火の車、賽の河原の鬼・・・。そういう地獄はよく漫画雑誌にイラストで大きく載っていて「異世界」に引きずり込まれましたが、源信の『往生要集』を読んだ時はもっとショックでした。

 絶世の美女、小野小町が老いて醜くなって死んでいく姿、そして屍となった後、髪は抜け、皮膚はただれ、肉が腐り、腐臭を放ち、蛆虫がわき、やがて骨となっていく。美しき者もやがて醜い姿となる、これも一つの地獄で、仏教の教えです。

 『地獄の思想』から『仏教の思想』など、そこから梅原哲学、梅原仏教学、梅原古代学、梅原日本学と呼ばれる著作を次々と読んでいったのです。『神々の流竄』『隠された十字架』『聖徳太子』『水底の歌』など、初期から中期の代表作はほぼ読んでいました。

 梅原学を読みだすと止まらなくなり、その世界に没頭してしまいますので、仕事が忙しくなると「梅さん」はしばらく封印しなければなりませんでした。それがずっと続いて今日まで来てしまいました。

 それが、つい4月頃、梅原氏が『人類哲学序説』(岩波書店)を出したというので、さっそく読んでみました。この本の3分の2は、氏の初期の西洋哲学関連の内容です。残り3分の1は、新たな思想「森の思想」(草木国土悉皆成仏など)が加わっています。「新たな」というのは正確ではありません。梅原氏はいろいろな著作でずっとその思想を唱えていたからです。正確には、この本の3分の2が西洋思想、3分の1が東洋思想についてのものです。人類は、西洋の哲学だけではだめだし、東洋の思想だけでもだめである、両方の融合が必要であり、そのための総括かつ総合が必要であるという趣旨です。

 この書は、あくまで「序説」とありますので、本説となると、氏も述べているとおり、この5倍、10倍の長さになると言っています。著者が若い時に学んだ西洋思想を改めて総括し直して、本格的な本論を書くとなると、どうしてもそのくらいの時間が必要なのです。著者の年齢からすると、これが最後の大仕事になると自身でも書かれています。

 私は、梅原学では、哲学、仏教学が最も好きでそれに親しんできました。しかし、それらは著者の中期ごろまでの中心的な仕事で、以降はそうした著作も踏まえながらどちらかというと神道的な傾向の本が多くなっていたように思えます。それが最後に、体系的な哲学思想の著作に戻ってきてくれそうで、今から楽しみでなりません。梅原氏の残された時間を思うと、壮大な梅原学としての、いや人類の学としての思索体系、梅原学の総決算になると思われます。

 同時に、読者として傍観者ではなく、私自身もやはり、何か自分の人生に残せる決算を残したい、創り出したいと思うわけです。

 

 

 

 

 

 

 


「現象学」 相手の存在をつかむ ~ 息抜きに哲学書を! 

2010-10-03 15:33:52 | 哲学・宗教・思想

最近は、なかなか文学書や哲学書、仏教書を読む時間がありません。時々、こうした「非生産的」「非実務的」「非現実的」な思索にどっぷりつかる時間がほしくなります。

「非 ―― 」と書いたのは、もちろんアイロニーであって、生産的、実務的、現実的な日々の仕事に追われている自分に対して言っているわけです。今は、読んだり書いたりするものは、ほとんど仕事関係のものです。時間なんて、探せばいくらでもあるはずなのはわかっていますが、目の前にある仕事を追ってばかりいると、空いた時間はそのストレスを癒すための時間に費やすため、ひたすらぼーう、としているわけです。

そう考えると、若い頃ひたすら文学や哲学にふけったりした膨大な時間は、とても貴重だったのでしょう。仏教書もよく読みましたが、私は仏教書を哲学と同じ思想書として読んでいました。最澄、空海、源信、法然、親鸞、道元、日蓮など日本の名僧の書は、西洋哲学に劣らず、いや西洋哲学に優る哲学だと思います。西洋最大の哲学者の一人、ヘーゲルが書いていることなど、とうの昔に日本の名僧たちが、いやインド、中国仏教ではすでに言っていることなのだと思えました。

話がそれましたが、先日まで日経新聞の連載に哲学者、木田元さんの「私の履歴書」が連載されていました。木田さんのことは、フッサールなどの現象学の翻訳者であり日本への紹介者ということで、その名を知っていました。サルトル、ハイデガーなどの哲学書を読んでいるとき、たびたび「フッサール」「現象学」という言葉が出てきます。サルトル、ハイデガーなどは、フッサールの現象学に相当影響を受けているということを知ったわけです。

しかし、さて「現象学」とは、なんぞや? 当時、初めてその名を聞いたくらいですから、私にもわかるはずがありません。さっそく、フッサールの講義録『現象学の理念』という比較的薄い本を読んでみました。たかだか100ページくらいの本ですが、何日もかかりました。それでも、理解できたかどうかわかりません。ただ、「意識は志向する」という言葉がすべてを表しているように思えました。

「意識は志向する」(‘思考する’の誤字ではありません)とは、意識は必ず「ここ」から「かしこ」へと目指すということです。そのはたらきの象徴が「まなざし」の概念です。「私」は「彼女」を「まなざす」。この時、意識は「私」から「彼女」へと目指している(志向している)。「まなざす」ことによって相手(彼女)の存在を束縛する・・・と、簡単に書くとこんなことですが、なかなか理解できなかったことを覚えています(彼女の存在をどうやってとらえたらいいか悩んでいたりしました)。

また、「現象学的還元」という言葉も理解するのに苦労しました。これは、たとえば理解できないことはとりあえず「  」(カッコ)に入れて思考を先に進めよ、ということです。こうした難しい概念をかみ砕いて理解すると、なるほど思索活動に活かすのに便利なものだとわかってきました。

このころ、理解するために木田さんの『現象学』(岩波新書)というわかりやすい解説書を読んで、大分助けられました。現象学のこれらの概念は、難しく考えずに、普段から思索活動の上で行っていることです。わからないなりに、この考え方が自分の存在につながる、自分のこれからの生き方につながると直観して、真剣に取り組んだのを覚えています。

文学書とか哲学書とかは、実務書に比べれば実業的ではないけれど、時々、息抜きにじっくり読んでみたくなります。目の前の仕事を忘れて。(最近は、ニーチェの本も売れているそうです。)





ハイデッガー ~ 「世界」の内で「存在」を叫ぶ 

2009-06-19 01:46:47 | 哲学・宗教・思想

ハイデッガーは、サルトルの次に面白く読んだ哲学者です。いわゆる実存哲学のはしりというやつです。サルトルの『存在と無』もハイデッガーの『存在と時間』も、うれしいことに今ではどちらも文庫(ちくま学術文庫)で読めます。

系譜的には、『存在と無』よりも『存在と時間』のほうが、先に世に出ています。存在という、自分の身に降りかかってくるテーマですから、自分に当てはめて読むとよくわかります。そこに、「時間」という不思議で永遠のテーマがからみ合っているわけですから、けっこう夢中になって読みました。学生時代、毎日30ページほどずつ、背筋を伸ばしながら集中して読んだのを覚えています。

そういう時間は、瞑想でもしているように脳の中が清冽となり、良い本を読むということは、いわば「読む瞑想」のことだと悟りました。とはいえ、さすがに哲学書ですから小説を読むようにはいきません。ただ、小説でも名作に出会った時には同じような味わいを感じます。

哲学としての完成度は、サルトルよりハイデッガーのほうが上だったと思います。しかし、衝撃度でいえばサルトルのほうでしょう。「まなざし」の志向性、想像力を生み出す「無」の概念、自己を縛りつける自由という名の不自由、行動へと突き動かす衝動など、作家でもあるサルトルの思想は魅力的で「劇薬」でもありました。

そうはいっても、ハイデッガーも捨てがたい(晩年、ナチに加担するような行動をしたのが解せないけれど)。
「世界-内-存在」(せかい-ない-そんざい)。ハイデッガー哲学の重要概念です。人間は、この世界、この社会と関わりをもたずには存在しえない。また、その存在は、時間(過去-現在-未来)と共に在る。かなり大雑把に言えば、そんな内容です。
―「世界の中心で、自分の存在を叫ぶ」(ちょっと古いか)。

ただでさえ、自分を中心に世界が回っていると思いがちな若い時期、こんな思想を詰め込んだからたまりません。よけいに西洋思想的な個人主義にとらわれ、自己中心的な思索の迷路にはまり込んでしまいました。こうして「世界-内-自分」を叫ぶ哲学的武装で自分を固めるようになったのです。

・・・としつつ、それはそれ、一歩外へ出ると、狂おしくも美しい異性の魔に苦しんだものです。美しきものの前では、哲学的思索は無力でした。無力であるがゆえに、さらに哲学的武装が必要になる。その繰り返しとなったのです。「世界-外-自分」。世界の外にいる自分、疎外感をつねに感じるようになりました。早い話、女性の前では、ほかのすべてのことが「そんなの、どうでもいい」。その女性という存在のためなら、犯罪さえ許される。(『哲学的存在論とやわ肌の熱き血潮』) 

美と性は、若い時期、異常なエネルギーを持っているものです。知力と肉体、これが美と性を制するのでした。ドストエフスキーに出てくる人物たち(ラスコーリニコフ、イワン・カラマーゾフなど)に惹かれていったのも、偶然ではなかったのかもしれません。「神がいなければ、すべてが許される」(イワン・カラマーゾフ)。同様に、美と性の前では、すべてが許される ― 実存哲学は、私にとって、その命題に対する苦しい「もがき」なのでした。

純粋に、思索を楽しんでいればよかったものを・・・。



サルトルと与謝野晶子 ~ 哲学的存在論とやわ肌の熱き血潮  

2009-05-01 01:13:06 | 哲学・宗教・思想

―― この柔らかい、熱い血潮がみなぎってくる、私の身体に触れようともしないで、ただただ、我が行く道を説こうとする君よ、さびしいことよ

ドストエフスキー研究家で『カラマーゾフの兄弟』の新訳を出して話題になったロシア文学者亀山郁夫さんが、日曜の日経新聞にドストエフスキーに関するコラムを連載しています(「ドストエフスキーとの旅」)。その中で、フランスの哲学者サルトルに少し触れていました。サルトルの「アンガージュマン」(社会参加への行動という意味)には、学生時代ついていけそうもなかった、と。
私も学生時代、人文書院のサルトル全集を全巻そろえて、片っ端から読みふけっていました。英米文学科なのに、読んでいるものはサルトルとかドストエフスキーの翻訳全集ですから、私の英語力なんて知れたものです。

サルトルの実存哲学の書『存在と無』は、難解ではありましたが、非常に刺激的でかなり影響を受けました。続いて、ハイデッガー『存在と時間』も読みふけりました。哲学書がこれほど面白いものかと当時は感じたものです。サルトルの「アンガ―ジュマン」は、確かに疲れてしまうところがありました。疑問を感じながらもそこから避けて通ることさえ、「自己欺瞞」として自分に跳ね返ってくる考え方なのです。

むしろ、私がとても魅せられたのは、「まなざし」の概念です。弱い自分は常に「他者」の「まなざし」にさらされている。他人に見られることによって、自分の存在は縛られる。その自分を守るためには、逆に「他者」への「まなざし」によって、「他者」を支配することである。他者を見つめることで、他者の存在を束縛できる。大雑把に書くとこのようなものです。

私はサルトルの存在論に夢中になって、自己流の存在論をつくったものです。
「僕は、僕の存在論を確立した。君を変えてみせる」
こんなことをまるで真剣に、まだ付き合ってもいない彼女に言ったりしました。
しかし、しょせん、紙の中の思想なんて、生身の相手に通用しなかったのです。特に、女性には。

―― やわ肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君

眼の前の熱い血潮を抱いてあげることもできずに、思想を語ったところで、どうして世の中を変えることなどできようか。まして、女の心を変えることなんて。
のちに、与謝野晶子のこの歌にうちのめされました。

青春期の脆さでした。