■ 「白熱教室」の思考実験
先月までNHK教育で「ケンブリッジ白熱教室」が放送されていた。講義はケンブリッジ大学のアンディ・マーティン博士(哲学)だ。実存主義哲学についてサッカーのベッカムや歌手のマイケル・ジャクソン、はてはFBIなどを引き合いにして実存主義哲学の思考実験を講義している。
今なぜ実存主義か。僕はもうとっくにこの哲学思想は廃れてしまっていたと思っていたから、嬉しくてテレビにかじりついていた。学生を卒業以来、僕は実存主義関係の書物はほとんど読んでいない。実存主義といえばサルトルの『存在と無』、ハイデッガーの『存在と時間』が挙げられる。僕が読んだ頃は、もう下火だったかもしれないが、一時はこの思想は世界中に「流行」したという。
そういう流行りで読んだわけではなかった。大学生協の書店の棚にずらりとサルトル全集が並んでいたし、神田の古本屋街にも全集本が並んでいた。たまたま、そのうちの1冊、日本語タイトルで『文学とは何か』を買って読んだ。その1冊が命取り(?)になって、『実存主義とは何か』を読んだ。後日、古本屋街で全集本をまとめて買い込んで、両手で抱えきれないほどの本を電車に乗って持ち帰ったのを覚えている。今ならアマゾンで注文すれば家まで届けてくれるが、当時はそんなことは考えられなかった。
僕は哲学科の専攻でもなかったのに、こうして実存主義関係の本を読み漁ったわけである。「白熱教室」の講義では、嬉しいことにサルトル、カミュ、キルケゴール、フッサール、デカルト、フロイト、ヘーゲル、ベルグソン、プルーストなど、当時親しんで読んだ哲学者や文学者の名前が続々と出てくるので、ついついテレビを見てしまった。
それにしても、思想にも流行りと廃れがあるようで、実存主義などという言葉はほとんど聞かれなくなっていた。というより、自分が哲学などの方向からずれてきてしまったから耳に入らなくなったのかもしれない。逆に言うと、この哲学思想が一時の流行の波に洗われ、試練に耐えて、ようやくれっきとした哲学史にその名を印すこととなった証なのかもしれない。
■ コンプレックス武装の書
はっきり言おう。今さらだけど、『存在と無』はけっこう面白い。これは哲学書だけど、文学書でもある。そして僕は、大学卒業当時、自分がこれから生きていくための指南書として読んでいた。この書が自分を導いてくれる、生きる上での武器になると思うと、わくわくして読んだのを覚えている。
「人間は、自由の刑に処せられている」
「地獄とは、他者のことである」
「まなざす者」と「まなざされる者」
「意識はつねになにものかを指向している」
など、哲学書にしては、文学書のような表現が随所に出てくる。
マーティン博士によれば、サルトルは自分の容姿にコンプレックスを抱いていたという。そのコンプレックス脱却としての武装の書だったのかもしれない。サルトルといえば、写真で見るとおり小柄で小太り、片方の目が藪にらみで、カミュなんかに比べればどう見てもぶさいくで見劣りがする(でも、それなりに僕はサルトルの容姿が思想家らしくて魅力だったけど)。僕はといえば、その頃は社会に出ていく自信がなくコンプレックスだらけだったから、この書に本当に救われる思いがした。
哲学ということであれば、『存在と時間』のほうが、厳密的で体系もきちんとしていて、いかにも哲学書という印象がある。哲学書を面白いなどというと、けっこう堅物っぽく思われるが、面白いのだから仕方ない。哲学は、自分自身の存在にその概念が還ってくるので、難解な言い回しに出会っても、自分のこととして考えると、なるほど、とそのうちわかってくるのである。これが経済学になると、自分の外で起こっている事象のようで「なぜそうなるのか」と突き詰めても、結局自分のこととしてわからないのだ。
その経済学にしても、最近は人間の不合理性に目を向けて、投資家の心理が研究されている。その根本にあるのは、「人間は不合理な存在」であること。実存主義もまた人間存在を不合理と捉えるが、人間は不合理であると同時に「人間そのものが不条理な中に存在する」と捉える。
■ 「不合理」と「不条理」の概念
「不合理」と「不条理」、似ているようでちょっと違う。簡単に言えば、「なぜ自分はこんなふうにしてしまうんだろう」と疑問に思うのが不合理。「なぜ自分はこんな状況の中にいるんだろう」と戸惑うのが不条理。これでは余計にわかりにくくなってしまうかもしれないが、たとえば、理性ではAの方がいいとわかっているのにどういうわけかBを選んでしまうというのが「不合理」である。一方、「不条理」というのは、「なぜ自分だけがこんな理不尽な状態になっているんだ、とある状況の中に放り込まれていることに突然気づくことを言う。これをサルトルの言葉で文学的に言うと「嘔吐」であり、ハイデッガーの言葉で哲学的に言うと「世界-内-存在」となる。小説でいえば、カフカの「城」とか「審判」だろう。
人間は、自分が今いる状況を常に不条理であると感じる。「世界」の「中」(内)にこうしている自分の「存在」に突然気づいて怯え、「嘔吐」する。このような「もの」としての自分(即自存在)に吐き気をもよおし、そこから脱出しようともがく。その行動への意識が「自由」(対自存在)である。―― ひじょうに大ざっぱに言えば、こういうことである。
哲学を無理に経済学に結びつける必要はないけれど、人間の投資心理の研究が進んでいることからすると、「経済哲学」という分野が今後期待されるかもしれない。ただし、投資してみて気づいたら大負けしていて、「なぜ俺だけこんな状況にあるんだ、何とかしてくれ」と叫ぶというのとは、だいぶ違うのであしからず。それは、不条理とは言わない。
最後に、実存主義哲学をよみがえらせてくれた(?)マーティン博士には感謝したいが、番組ではどうもその醍醐味がいまひとつ伝わってこなかったのがちょっと残念。
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