FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

ハイデッガー ~ 「世界」の内で「存在」を叫ぶ 

2009-06-19 01:46:47 | 哲学・宗教・思想

ハイデッガーは、サルトルの次に面白く読んだ哲学者です。いわゆる実存哲学のはしりというやつです。サルトルの『存在と無』もハイデッガーの『存在と時間』も、うれしいことに今ではどちらも文庫(ちくま学術文庫)で読めます。

系譜的には、『存在と無』よりも『存在と時間』のほうが、先に世に出ています。存在という、自分の身に降りかかってくるテーマですから、自分に当てはめて読むとよくわかります。そこに、「時間」という不思議で永遠のテーマがからみ合っているわけですから、けっこう夢中になって読みました。学生時代、毎日30ページほどずつ、背筋を伸ばしながら集中して読んだのを覚えています。

そういう時間は、瞑想でもしているように脳の中が清冽となり、良い本を読むということは、いわば「読む瞑想」のことだと悟りました。とはいえ、さすがに哲学書ですから小説を読むようにはいきません。ただ、小説でも名作に出会った時には同じような味わいを感じます。

哲学としての完成度は、サルトルよりハイデッガーのほうが上だったと思います。しかし、衝撃度でいえばサルトルのほうでしょう。「まなざし」の志向性、想像力を生み出す「無」の概念、自己を縛りつける自由という名の不自由、行動へと突き動かす衝動など、作家でもあるサルトルの思想は魅力的で「劇薬」でもありました。

そうはいっても、ハイデッガーも捨てがたい(晩年、ナチに加担するような行動をしたのが解せないけれど)。
「世界-内-存在」(せかい-ない-そんざい)。ハイデッガー哲学の重要概念です。人間は、この世界、この社会と関わりをもたずには存在しえない。また、その存在は、時間(過去-現在-未来)と共に在る。かなり大雑把に言えば、そんな内容です。
―「世界の中心で、自分の存在を叫ぶ」(ちょっと古いか)。

ただでさえ、自分を中心に世界が回っていると思いがちな若い時期、こんな思想を詰め込んだからたまりません。よけいに西洋思想的な個人主義にとらわれ、自己中心的な思索の迷路にはまり込んでしまいました。こうして「世界-内-自分」を叫ぶ哲学的武装で自分を固めるようになったのです。

・・・としつつ、それはそれ、一歩外へ出ると、狂おしくも美しい異性の魔に苦しんだものです。美しきものの前では、哲学的思索は無力でした。無力であるがゆえに、さらに哲学的武装が必要になる。その繰り返しとなったのです。「世界-外-自分」。世界の外にいる自分、疎外感をつねに感じるようになりました。早い話、女性の前では、ほかのすべてのことが「そんなの、どうでもいい」。その女性という存在のためなら、犯罪さえ許される。(『哲学的存在論とやわ肌の熱き血潮』) 

美と性は、若い時期、異常なエネルギーを持っているものです。知力と肉体、これが美と性を制するのでした。ドストエフスキーに出てくる人物たち(ラスコーリニコフ、イワン・カラマーゾフなど)に惹かれていったのも、偶然ではなかったのかもしれません。「神がいなければ、すべてが許される」(イワン・カラマーゾフ)。同様に、美と性の前では、すべてが許される ― 実存哲学は、私にとって、その命題に対する苦しい「もがき」なのでした。

純粋に、思索を楽しんでいればよかったものを・・・。



捨てる生活 ― 古本はいくらで売れるか

2009-06-09 02:05:44 | シニア&ライフプラン・資産設計
仕事柄、趣味柄、本はよく読みます。学生時代から文学、哲学、仏教、会計学、金融、ビジネス、自己啓発と、幅広く読んできました。したがって、本がたまる。

学生の頃は、読み終えて縁がなさそうな本は、よく古本屋へ持って行き現金に換えてもらっていました。新刊本で、定価の2割で引き取ってもらえれば、上々でした。文芸もの、思想ものなど、なかなか手に入らない初版本、全集本はもうちょっと割がよかったようです。文庫本は、積んで高さ何センチでいくら、っていうのがありました。

持って行ってもお金になりそうにないものは、縛ってゴミの日に出してしまいます、新刊でも惜しげもなく。今まで、何十冊もゴミとして捨ててきました。一度読んだ本はなかなか捨てられません。それでも、捨てるか売るかしないと、部屋に入りきれないのです。

最近、引っ越したばかりです。この機会にダンボールで10箱分以上もゴミとして出しました。私の“本を処分する基準”は次の通りです。
1.読んでみてつまらなかったもの
2.読み出したけど、興味が湧かなくて途中で投げ出したもの
3.読もうと思って買ったけど、一度も読んでいないもの、これからも読みそうにないもの
4.読んでみたが、今後読み返すことがなさそうなもの
5.いつかまた読み返すかもしれないが、いつでも書店や図書館で手に入るもの
6.仕事で必要になりそうだと思って買ってはみたものの、縁がなさそうなもの

つまるところ、これから先の人生で、自分に縁があるかどうかが、処分の分かれ道になります。

これらのうち、比較的新刊本で綺麗なもの、売れ筋のようなものは、ブックオフなど、古本チェーン店などに持って行きます。段ボールひとつ分で1000円にもなればいいでしょう。ちょっとした小遣いになりますが、お金よりも、誰か次の人が読んでくれるという安堵感があります。いくら新刊本でも、引き取ってくれそうにないものは、ゴミの日に回されます。

さて、古本店での売れ筋とは何でしょう。これは、新刊書店でも売れていたもの、といいましょうか。いくら新刊本でも、売れないものは「これは、値段がつきませんから、持ち帰ってください」と、逆に突き返されてしまいます。その辺は、こちらも先刻承知で、「こちらもいりませんから、そちらで処分してください」と言います。もともと、捨てるつもりで持ってきているのですから。

古本店と言っても、まず、東京神田古本屋街のような昔ながらの古書店があります。私が学生の頃、よく持ち込んだのがこのタイプの古書店です。こういう店は、本の価値を新刊だけで見ません。本好きが好きそうなものはちょっと古くても、ちゃんとその辺は目が利いて、数冊でも、1000円、2000円で買い取ってくれたものです。

ところが、最近の古本チェーン店では、本の引き取り評価が違うようです。まず、新刊(ここ2~3年で刊行されたもの)以外は、なかなか値がつかないようです。新刊ビジネス本で、ちょっと知れた本なら定価の1割程度にはなりそうです。

全集本、シリーズ本の揃いなら、昔ながらの古書店では、多少古くても、逆にちょっと古いほうが、手に入らないので高めに引き取ってくれます。ところが、古本チェーン店では、揃いのシリーズ本だろうが、刊行日の古いものははじかれてしまいます。
「この中の、これとこれは値がつきません。お持ち帰りになりますか」
と、若い女店員さんが言います。
「え? これって、シリーズ本で、全巻揃いなんですけど・・・」
「でも、これとこれは、ちょっと、古めなんですけど」
「シリーズ本は、全巻揃っているということで、価値があると思いますが・・・」
「そう言われても、そういう評価なんです」
「・・・じゃ、そちらで処分してください」

もともと、お金目当てではないし、処分してもらえるならと思ってのことですが、刊行日の基準だけではじかれてしまうのもなあ・・・と、ちょっと腑に落ちないところです。