FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

浅田真央とキム・ヨナ ~ 氷上の闘いと舞

2010-02-28 00:51:58 | 芸能・映画・文化・スポーツ

マオはヨナに勝てない ― ほんとうのところ、たいていの日本人はそう思っていたのではないか。(「浅田真央 氷上の「ハイリスク・ハイリターン」)

浅田真央がトリプルアクセルを2回決めて、ミスなしで滑り終えたとしても、キム・ヨナが転倒でもしない限り勝ち目がない。少なくとも、素人目にそう思っていました。実際、ショートプログラムが終了して、5点近い差が出てしまった時、この時点で真央の勝ちはなくなってしまったように思えました。

マスコミや解説者は、逆転可能な点数差だと言ってましたし、真央の地元国日本としては、逆転を信じて金メダルを願うのは当然です。もちろん、私も‘奇跡’を祈っていました。しかし、結果は‘予想通り’、ヨナには勝てませんでした。

ずいぶん薄情的な書き方かも知れませんが、ヨナの演技を見れば、素人でもヨナのほうが優っていると感ぜざるを得ません。細かい採点は専門家ではないので分かりませんが、ヨナの完成度の高い、のびのびとした演技を見れば、誰もが納得するでしょう。だからと言って、真央が劣っているとは言いません。真央よりヨナが上だったということです。

「誰が金メダルを取るかは神様が決めること。私はそれを受け入れるだけ」―。ショートプログラムの後の共同会見でヨナはこともなげに言いました。それは哲学者の声です(19歳なのに)。これに対して真央の言葉。「金メダルが欲しい」―。この時点で、すでに勝負は決まっていました。キム・ヨナは、自分の運命を受け入れていました、勝利の運命を。時々見せる、フッと笑う顔は、すでに自らの勝利の声を聴いている感じでした。いっぽう、浅田真央の声は、人間の呻きの声です。

勝利は決しました。同じ日本人として、真央の勝利を願いました。残念な結果ですが、それでもよくやったというのが、おおかたの日本人の声でしょう。生の実況は見れませんでしたが、演技のハイライトを見る限り、キム・ヨナの演技はずば抜けていました。真央は、4年後も勝てるだろうかと、ちょっと不安に思いました。暗い曲(『鐘』)よりも明るく華やかな曲でやらせたかった、3回転半を全部で3回も跳んだのだからもっと高得点が出ても良かった・・・など、周りの悔いと言えば悔いなのか。

さらに、夜の番組でキム・ヨナと浅田真央のフリーの演技をノーカットで映していました。報道番組のハイライトしか見ていなかった私は、ここでじっくり、二人の演技を見ました。ヨナの演技は改めてすばらしいものでした。ジャンプの高さ、しなやかな動き。やはり、真央は勝てなくてもしようがなかった・・・。

そして、真央の演技―。ここで私は、今までの認識をがらりと変えざるを得ませんでした。勝負で真央は負けた。しかし、真央が演じるこの演技は・・・。なぜか、感動の大きさがまったく違うのです。ヨナの演技は、芸術的にもすごい。しかし、感動がなかった。真央の演技は、心に響いてくるドラマがある。これは、フリーだけでなく、ショートプログラムでも言えます。

競技として見れば、ヨナは真央に優った。しかし芸術のドラマとして見ると、同じ日本人としてのひいき目かもしれませんが、真央の氷上での舞は、感動を与える。心を揺すぶる。オリンピックはスポーツ競技であって、芸術表現のみの場ではありません。だから、真央は負けた。しかし、人の心を揺すぶる未完成な部分があり、そこで呻いている声が聞こえてきて、感動を呼び起こす。

「金メダルがほしい」―、それは、浅田真央の素直な声であり、言い換えれば「このように私は生きたい」という、人間の切実な声が伝わってきたのです。


雅邦と玉山「残された名宝」 ― 竜虎と麗しき官女

2010-02-11 10:11:22 | 文学・絵画・芸術

橋本雅邦「竜虎図」
旭玉山「官女置物」

昨年秋に見に行った「皇室の名宝」展には、あとから思うと心にずっと残っている作品があります。

伊藤若冲の絵(『伊藤若冲― 極楽を描いたエロティシズムの絵師』『若冲の鳳凰 ― 旭日(あさひの中の極彩色』)をこの眼で見るのが目的でしたが、上村松園とか横山大観、狩野永徳、葛飾北斎に川合玉堂など錚々たる名が連ねていました。ほかにも、思わず足を止めてしまった作品があります。

ひとつは、橋本雅邦(はしもと がほう)「竜虎図」。先日のブログ(「竜虎と饅頭と美女と ― 深大寺の山門前で」)を書きながら思い出したのでした――。

なにやら荒れた空のかなた、怪しい形の雲の隙から、あるかなきかの影かたち、途切れてはつながる、消えては現れまた見えぬ、そして確かな重量感をそなえ、今にも天全体に唸りを轟かせんとし地へと襲いかかる時を狙う、「龍」。その妖気を感じ取り、敵を受け、地に立つ、勇猛なる「虎」。

この、天の龍と地の虎が睨み合う構図は、ほかの絵師が描いたものでもいくつかあります。しかし、これほどの迫力ある絵を見たのは初めてで、しばらく立ち止まってしまいました。

絵はたいして大きいものではありません。右上の端の端に途切れる雲から見え隠れしているのが龍です。よくよく注意して見ないと、薄く描かれているので見落としてしまいます。中央の激しく立ち昇る白い波頭が、いかにも龍の頭に見えて、そちらに気をとられそうです。これもそのように錯覚させて、逆に本当にいる龍を引き立たせるための計算しつくされた構図なのでしょう。虎は虎で、人の眼では見えない超存在的な龍を見極めようとして、鋭い両眼を開き、牙を剥き、太い脚で前のめりに立ちはだかって、臨戦体勢にいるのです。

前に書いたように、本来、龍も虎も、四神なので互いが闘う存在ではないのですが、こんなド迫力ある絵を見てしまうと、身震いしてしまいます。

もうひとつは、旭玉山(あさひ ぎょくざん)の「官女置物」。これはもう、その美しさに何と言っていいかわからず、人だかりの中、やはり長いこと立ち止まってしまいました。こちらも大きな作品ではないのですが、象牙の彫り物で、着物の紋様、襞や折り目、扇の羽模様、垂れた紐の結び目、髪のひと筋ひと筋、よくここまで丹念に彫ったものかと感嘆しました。象牙の白さが、さらに不思議な吸引力をもって女性の清楚さを訴えてくるのでした。

官女といっても、まだ10代なのか、それとも20代になったばかりか。はちきれそうな若さ、つい鏡の自分に見とれてしまう、そんな可憐であどけなさも残る、たおやかな姿が繊細に彫られています。彫刻は、正面のみから見ても面白くありません。右に扇、左に手鏡、手にする鏡面にはうっすら映る女性の顔がかすかに彫られています。360度、ゆっくりゆっくり、移り回りながら、その形が少しずつ変化していくのを見るのが楽しみです。

腰に届く艶のある流麗な髪に、思わず手を触れてしまいそう。生の歓びのようなもの、そしてこの女性にこれからどのような物語が待っているのだろうかと想像を掻き立てられそうな想い―。なかなか、立ち去りづらい作品でした。