■ 「神の眼」の視点
スタンダールの『赤と黒』は、前から読もうと思っていた。スタンダール、バルザック、フローベールと19世紀のフランス文学の三大小説家の流れを汲み、一方でドストエフスキー、トルストイの19世紀ロシア小説の流れと合流して、日本の近代小説の一つの流れが生まれた。
それで、フローベール、バルザックと読んで、スタンダールを読んだわけだ。最近、大岡昇平の『武蔵野夫人』を読んでみて、それがスタンダールの心理小説の手法を汲んでいたということもあった。心理小説というのは、これまで僕が読んできた小説とはどうも違うらしい。
スタンダールは人物の肉体の殻を剥ぎ取って、というより透かして、神のような眼で「上から」人物の心理を見ている。神だから、作者には人物の心の内が透け透けに見えている。しかも主人公だけでなく、その場で相対する人物も透けている。人間存在の境界(肉体)を取っ払って、行動も心理も見下ろしている。しかも複数の人間を同時に。
当時はこれが画期的だったのかもしれない。しかし、20世紀小説ではご法度である。すなわち、恋人A(男)と恋人B(女)が、互いに相手の心情を諮りながら恋を語らい合う時、そこに純粋な恋心があれば問題ない。男は、「お前が好きだ」と言いながら『この女をどのように俺のものにしてやろうか、それによって俺は出世街道を昇って行くのだ』と思いつつ、女は、「あたしもずっとあなたから離れないわ」と言いながら、『この人はあの女にも近づいている。私より身分が低いくせに、この男が私に夢中になるなんて私の自尊心が許さない』と思っている。例えば、ジュリアンとマチルドのように。こんな場面は、しょっちゅう出てくる。
■人物の自由な意思
人物の自由な意識ということからすると、Aの内部に入って、同時にBの内部に入ることを、サルトルは「フランソワ・モーリヤック氏と自由」で批判している。人物の心の自由、行動の自由が制限されてしまうからだ。つまり、想像力を制限することになる。人間の意思の自由は想像力であるとするサルトルの哲学からすれば十分わかる。
主人公ジュリアンに寄り添って読んでいて、「次はどうなるんだろう」と思っていると、恋の場面であっさり相手の恋人の心の内が見えてしまう。例えば、事件の取り調べがあったとしよう(この作品にはない場面)。刑事と容疑者の表面上の言葉と裏腹に双方の心の中がすべて描かれてしまったら、その取調べのやりとりの醍醐味がなくなってしまう。
刑事: 「お前がやったんだろう」(もしかしたら、こいつは犯人じゃないかもしれんな)
容疑者:「やってませんよ」(やばい、ばれてるかな、どうやってしらをきるか)
こんな取調べが合ったら、ミステリーではなくなってしまう。『赤と黒』も、こんな感じで男女の愛が描かれている。ジュリアンの気持ちでいたければ、ジュリアンが恋を抱いている時、恋人マチルドの気持ちを読者が分かってしまうのはつまらない。表面上つれなくしていても、マチルドはやっぱりジュリアンを恋しているのだろうか、と一緒になって主人公の意識をもって感じる。これが登場人物の「自由」なのだ。意識の自由を持っているということである。こういう描き方が20世紀では主流になってきたが、このような「神の眼」の視点を排除する方法は、逆に人物の描写を委縮させてしまうという批判もあった。
心理描写の代償として、スタンダールは外景描写を極力省略している。それはクライマックスとなるジュリアン・ソレルの処刑場面でもいえる。フローベールなら、処刑日の太陽の照り具合、処刑場に集まった群衆、処刑執行人、受刑者の様子、処刑直前の顔つきなどに数十行、いや数ページを費やすことだろう。なにしろ、小説のクライマックスなのだから。しかし、『赤と黒』では、淡々とわずか数行で終えてしまっている。しかも、注意して読んでいないといつ処刑があったのかさえ見落としてしまう。
とはいえ、スタンダールの手法は当時にあってはかなり斬新だったようだ。人物と人物の外景を細かく描写していくフローベール風な手法に対し、人物と人物の内景をこと細かく描いていくという方法は、これはこれでありかなと思う。人と人はなにも外と外でぶつかり合っているわけではない。内と内でもぶつかり合っているのだから、そのやり取りを描写するのも一つの方法なのだ。
ストーリー的には、前半のジュリアンとレナール夫人の純粋な(?)恋のやり取りの方が興味深かった。むしろ、こちらの方の場面は「神の眼」を排していたから、僕には普通に面白く読めただけなのかもしれない。