FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

驕れるセ・リーグ - 震災後のナイター

2011-03-28 00:27:15 | 芸能・映画・文化・スポーツ

プロ野球セ・リーグがパ・リーグと歩調を合わせて、ようやく4月12日に開幕することが決定しました。

これは、まったく正しい判断だと思います。セ・リーグの選手会もまっとうな主張だったと思います。セ・リーグは、渡辺読売巨人軍会長(役職は正しく思い出せません)が、当初、「言いたい奴には言わせとけ! パ・リーグはパリーグ、セ・リーグはセ・リーグだ」と、あのベランメイ調で言ってました(石原都知事にしろ、渡辺会長にしろ、電波に流れる言葉が汚く、いつも不快です。権力と自信を持ちすぎると、ああいう口のきき方になるのでしょうか)。

それを受けて、セ・リーグの加藤コミッショナーが、「批判を甘んじて受けるうえで、セ・リーグは3月25日に、先行して開幕する」と断固とした言い方で宣言していました。こういう時こそ、被災地の復興を元気づけるためだと。どうも違うような気がします。確かに、戦後の復興期に国民を元気づけるために野球開催が再開されたと聞きます。しかし、今回はまだそういう段階ではないでしょう。被災状況の深刻さが日ごとに増していくときに、いまだ被害の実態が把握しきれていない、死者もまだ増えている状況で、本当に今、ナイターを見たい人がいるのか。

被災地のみならず、被害の少なかった東京でも企業は電力の節約を行っており、都民も計画停電で被災地ほどではないにしろ、不便を我慢しています。莫大な電力を使ってまでナイターを行う必然性があるのでしょうか。

高校野球は開幕しました。彼らはこの1年間(夏の大会からは半年間)、甲子園を目指して頑張って練習してきました。もちろん、甲子園大会も中止しろという意見もあったようです。しかし、これは違うでしょう。どこが違うのだと言われれば、違うと言うしかありません。プロ野球は、興業なのです。甲子園は、被災した地元球児も被災地を代表して全力を出すために出場するのです。しかも、彼らの多くは一生で一度、その土に足を踏みしめるために来るのです。出る側も見る側も、興業とは違います。

歌手加藤ジョージが地元の被災地、仙台に見舞いに訪れました。当初は、家族親類の無事を確かめ、地元避難民の人たちを励まそうとギターを持ち込んで歌を聴かせようと思ったとのことです。ところが、避難所を訪れて、そういう考えが甘いことを知りました。そのような段階に、まだ被災者の心がいってないのです。歌で元気づけるというのは、寝る所、食べるもの、飲むもの、電気・ガス・水道がある程度復旧し始めてからでしょう。テレビ映像は、まさしくそれを物語っています。

電気が十分いきわたっていないところにあって、こうこうと莫大な電力を使って、何の励ましになるでしょう。誰もがプロ野球ファンではないでしょう。年寄りや、おさな子は、野球にそれほど関心はないでしょう。

最終的に開催を遅らせましたが、それも担当大臣に苦言されてから決めたというのですから、セ・リーグの横暴に怒りに近いものを感じ、呆れたりもしています。

 

 

 


大地震の夜 ~ 2011.03.11

2011-03-20 02:50:46 | 政治・社会・歴史

その日の夜は、研修で来ていた東京・木場にあるビルの研修室に全員で泊まることになりました。昼間、生まれてこのかた経験したことのない強くて長い揺れにあい、地震の恐怖を知りました。身の危険を感じ、机の下にもぐろうとしたほどです(0311 14:46)。

しばらくして、ビル内の人間は全員、建物の外に出るよう指示されました。それからも強い揺れがあり、自分たちがいた細長い建物が、しなしなと揺れているのが外からはっきりわかったほどです。2時間ほど外で待機していたのですが、隣のイトーヨーカドーでも客が混乱していて、こちらとは逆に、店の中のほうが安全だから店外へ出ないようにとアナウンスしていました。

近くのロータリーパークの1F広場では大型画面のテレビが映っており、それで地震の規模の大きさを知りました。画面では、仙台沖からまさに陸へと向かって長い白い帯のように津波の先端の波頭が横に連なって、じわじわと、しかし実際は猛烈な速度で恐れる巨大な生き物、いや、人工的な波動ともいえるものが正確な時間を刻んで迫っているのが映し出されていました。

― まるで何かの映画みたいだ。

地球に迫りくる危機を描いたいくつかの映画を思い出していたのです。それが現実に大きな災害をもたらすこととなる直前の映像であるのは間違いないのに、周りの人たちの中で、何か自分が不謹慎な言葉を発したように思えました。確かに、画面が変わると、市街はすでに炎を出して燃えている。この時はまだ、津波が上陸する前だったので、映像は内陸の火災状況だけでした。このあとに襲われた津波被害のほうがはるかに甚大だったのですが、その惨状を知ったのはもっと後でした。

建物内に戻って、インターネットで被害が拡大していくのを追いました。ここ東京で机の下にもぐろうとしたという、そんなレベルではない地震だったのです。みんな携帯電話で連絡を取ろうとしていましたが、メールも電話も通じない、電車も止まり、全線回復の見込みがありません。全員ここに泊まることになりました。家族と携帯で連絡がつながったのは、夜10時過ぎです。

この時点では、被害者の数はネットで公表されているだけではまだ数十人。当然、これは実態が把握できていない数字であって、被害者数がもっと拡大していくのは予測できました。私たちは研修室の椅子を並べてその上に寝ることにしましたが、照明も暖房もトイレも使える。外に出れば、食べ物も飲料もコンビニで手に入る。こんなのは、とても避難のうちに入らない。

同時刻に、東北の被災地には、明かりも暖房も布団もなくなり、そしてもっと悲惨なのは、家も、そして肉親さえも失っていた人たちが何万人もいたということです。東京都心でも、帰宅できない人たちが、直接の被害でないにしろ、寒い夜の中で一夜を過ごそうとしていました。こんな時に、こんなことを思うのはどういうものかとしながらも、自分は運が良かったのかと思うしかありませんでした。

温かいご飯を食べ、炬燵に入りながらテレビを見て、家族と笑いながら夕食時を過ごす。ささやかな、平和で幸せな時間、これは誰しもが受けられるものです。そうしている安堵の時の、まさに一瞬後に、冷たい夜の下に投げ出されたら、それも、家族も、家も、友も、思い出も、財産も、仕事も、愛情もすべて流された孤独と暗闇の場所に突然突き押されていたら・・・。

被災地の人は、それが今、現実なのです。私には、それが考えられないのです。テレビや新聞の報道で見ても聴いても、時が今日までたっても、まだ信じられないのです、これほどひどいことが現実に起きていることが。同じ日本の国土で。大変なことが起きている。いつ、自分たちがそうなっていてもおかしくはない・・・。

1週間たって、東北、北陸、関東、中部を震源として、「中」から「強」弱の地震が続いている。ちょうど、ぽっかり東京を除いて・・・。