映画『おくりびと』が数日前、ノーカットでテレビ放送されました。ご存知の通り、昨年アカデミー賞外国語映画賞をとり、各国で50いくつもの賞を受賞しました。
この機会にテレビで観ましたが、なかなか飽きさせない構成です。ところどころ、こういう場面は外国人に理解できるだろうかと思ったりしましたが、理解されたからこそ数々の受賞につながったのでしょう。
死というものに直面した人間の感情と、死者をおくる‘厳粛なる儀式’はどこの国も、どの人種も同じなのではないか――。本木雅弘演じる納棺師がおくる儀式は、ひとつの様式美であり、舞踊美にも見えます。遺族の前で遺体の衣服を脱がせ、白装束に換えるところは、まるで手品師のようにあざやかですばやく、はっと息をのませます。死者の床にあるからこそ、引き立ちます。
遺体に化粧をほどこすさまも、それは単に、遺族に最期の顔を晴れやかに見せる、はなむけのためだけではなく、神仏の異世界におくる(捧げる)ための儀式なのです。これは、国や宗教や種族が違えど、どこにでもあったものではないでしょうか。それが現代では、ずいぶん簡略にされ、事務化されてしまったようです。
私自身、肉親や親族の葬儀に何度も出ましたが、自分の親でさえ、映画のように死化粧や装束換えに立ち会えたことがありません。元旦の早朝に、父親が亡くなったとの知らせで帰った時、たまたま正月で葬儀社が到着していなかったため、父の伸びきった髭を、『おくりびと』のように、カミソリを持って私の手で剃ったのです。
すでに顔の肉は、解凍しかけた冷凍肉のようにやわらかさはなく、顔の骨格にしがみつき張り付いている感じでした。弾力がなく、カミソリの刃がなかなか立たず、苦心しました。ほんとうは、こういう儀式を、遺族みんなで、昔はやったのだと思います。父の死装束は、知らぬ間に、葬儀社が来て着替えさせてありました。
はるか昔の、土俗的な宗教の時代から、人が死んだ時は舞い、踊り、唄い、飲み、死者を弔ってきました。それは、死者への儀式、神なるものへの聖なる儀式でした。現代では、それらしき儀式は通夜と、あるいは火葬場で、どうやら見られるのかもしれません。棺に入った遺体を焼却炉の中に送る時、火葬場職員の立会い者が表情を出さずに、黙々と儀式を進めます。
母親の火葬の時は、まさに‘おくりびと’のように送る火葬の立会い者がいました。コミカルにとれば、チャップリンのように、計算しつくされた動作・振る舞い、厳粛さが一歩違えば笑いにとられるような、そういうパフォーマンスでした。
お骨をかき集めるにも、その立会い者の指先から体の芯、頭髪のてっぺんからつま先まで、ぴん、と神経が行きすぎ、それが、場違いのようにちょっとおおげさに様式化されている。上体をつねに斜め45度直線に傾け、左手に骨取り、右手に骨灰を掃き集める小さな手ぼうき。さっ、さっ、とネジ仕掛けに、1秒1秒動作が止まりながら、足と腰の微妙な動きに合わせて手首を動かす。一貫して、このようなさまで、儀式が進行していく。最後に腰から90度の最敬礼。これはこれで、ひとつの様式美なのかと、親の最期の灰をよそに、感心などしていました。
小さい時分は、葬儀社(葬式屋と言ってました)のように死体を扱う人は、忌むべきもののように思えていました。それは死者に対する無知と怖れからくるもので、ひとたび身内の死に対面すれば、すぐに払拭されます。この映画が世界的な賞を受けたということで、納棺師を志す人が増えたと聞きます。映画の中にあるように、これまで日本でも、死者に関わる仕事はやはり忌むべきもの(タブー)、穢れたものとして、普通の人が志す職業としては見られていなかったのです。
作品は、ストーリー的にも、映像的にもよく、それぞれの俳優が自分の場を持っています。良質な日本映画が評価されることはいいことです。それにもまして、死という儀式(セレモニー)に様式美が復活し、若い人がそれを執り行うことに魅力を感じるようになればなおのこと、いいなと感じました。
この機会にテレビで観ましたが、なかなか飽きさせない構成です。ところどころ、こういう場面は外国人に理解できるだろうかと思ったりしましたが、理解されたからこそ数々の受賞につながったのでしょう。
死というものに直面した人間の感情と、死者をおくる‘厳粛なる儀式’はどこの国も、どの人種も同じなのではないか――。本木雅弘演じる納棺師がおくる儀式は、ひとつの様式美であり、舞踊美にも見えます。遺族の前で遺体の衣服を脱がせ、白装束に換えるところは、まるで手品師のようにあざやかですばやく、はっと息をのませます。死者の床にあるからこそ、引き立ちます。
遺体に化粧をほどこすさまも、それは単に、遺族に最期の顔を晴れやかに見せる、はなむけのためだけではなく、神仏の異世界におくる(捧げる)ための儀式なのです。これは、国や宗教や種族が違えど、どこにでもあったものではないでしょうか。それが現代では、ずいぶん簡略にされ、事務化されてしまったようです。
私自身、肉親や親族の葬儀に何度も出ましたが、自分の親でさえ、映画のように死化粧や装束換えに立ち会えたことがありません。元旦の早朝に、父親が亡くなったとの知らせで帰った時、たまたま正月で葬儀社が到着していなかったため、父の伸びきった髭を、『おくりびと』のように、カミソリを持って私の手で剃ったのです。
すでに顔の肉は、解凍しかけた冷凍肉のようにやわらかさはなく、顔の骨格にしがみつき張り付いている感じでした。弾力がなく、カミソリの刃がなかなか立たず、苦心しました。ほんとうは、こういう儀式を、遺族みんなで、昔はやったのだと思います。父の死装束は、知らぬ間に、葬儀社が来て着替えさせてありました。
はるか昔の、土俗的な宗教の時代から、人が死んだ時は舞い、踊り、唄い、飲み、死者を弔ってきました。それは、死者への儀式、神なるものへの聖なる儀式でした。現代では、それらしき儀式は通夜と、あるいは火葬場で、どうやら見られるのかもしれません。棺に入った遺体を焼却炉の中に送る時、火葬場職員の立会い者が表情を出さずに、黙々と儀式を進めます。
母親の火葬の時は、まさに‘おくりびと’のように送る火葬の立会い者がいました。コミカルにとれば、チャップリンのように、計算しつくされた動作・振る舞い、厳粛さが一歩違えば笑いにとられるような、そういうパフォーマンスでした。
お骨をかき集めるにも、その立会い者の指先から体の芯、頭髪のてっぺんからつま先まで、ぴん、と神経が行きすぎ、それが、場違いのようにちょっとおおげさに様式化されている。上体をつねに斜め45度直線に傾け、左手に骨取り、右手に骨灰を掃き集める小さな手ぼうき。さっ、さっ、とネジ仕掛けに、1秒1秒動作が止まりながら、足と腰の微妙な動きに合わせて手首を動かす。一貫して、このようなさまで、儀式が進行していく。最後に腰から90度の最敬礼。これはこれで、ひとつの様式美なのかと、親の最期の灰をよそに、感心などしていました。
小さい時分は、葬儀社(葬式屋と言ってました)のように死体を扱う人は、忌むべきもののように思えていました。それは死者に対する無知と怖れからくるもので、ひとたび身内の死に対面すれば、すぐに払拭されます。この映画が世界的な賞を受けたということで、納棺師を志す人が増えたと聞きます。映画の中にあるように、これまで日本でも、死者に関わる仕事はやはり忌むべきもの(タブー)、穢れたものとして、普通の人が志す職業としては見られていなかったのです。
作品は、ストーリー的にも、映像的にもよく、それぞれの俳優が自分の場を持っています。良質な日本映画が評価されることはいいことです。それにもまして、死という儀式(セレモニー)に様式美が復活し、若い人がそれを執り行うことに魅力を感じるようになればなおのこと、いいなと感じました。