京都の寺は、たいがい大阪にいる彼女が案内してくれた。けれど、広隆寺で電車を降りると言ったのは僕だった。
広隆寺は、駅の線路から見えるように、道路に沿って寺の門が建っている。こじんまりした仁王門のわりには、境内はゆったりした庭の寺だった。広隆寺といえば、あの仏像がある。弥勒菩薩半跏思惟像。僕はどうしても、この菩薩を自分の眼で見ておきたかった。写真や文ではよく知っている。至高の仏像である。何が至高かといえば、その宗教性にしても、芸術性にしても。いずれ如来となる仏格である。
霊宝殿を入るとすぐ、眼の前に千手観音立像が立っている。像高2.6メートルのこの観音像や、3メートルを超える不空羂索観音立像は、もし堂の奥にあの菩薩がいなければ、僕の心をもうしばらく捉えていただろう。でも、僕の気はすっかり、奥にいる菩薩のほうに向いてしかたなかった。
仏像群の中央に弥勒菩薩がいる。高さわずか120センチあまり。繊細な身体つきは、人の形として見るには頼りなげでもある(もともと「人」を超越している存在だから)。しかし、救済のために思惟するそのポーズは、単なる人の造形を超えて仏教的な高みにまで人々の心を導いてくれる。そこには、深い慈愛があり、無類の優しさを感じる。
音が聴こえる。楽器ではなく、時間が奏でる音楽が聴こえる。救済のために思惟する菩薩を運んでいく、静かに静かに流れる時間の音楽が。弥勒菩薩は人々を救うために、あたかも永遠にそこに座しているような気がする。菩薩の思惟は、何十億年の過去から現在、そして未来へと続く――。
「56億7千万年もの未来、この弥勒様は、こうして人々を救おうと考えて修行されているんだよ」
僕がそう説明すると、彼女はくすっと笑った。解説文どおりのことを知ったように言ったのがおかしかったらしい。彼女は笑う時に、いかにも自分自身を恥ずかしがるように笑うのだった。
56億・・・。それは、僕らにとって永劫と同じだ。それほどに人間は罪深く、苦しむ存在なのか。それだけの分、仏たちも人間について悩んできたのだろう。あまりに優しいその微笑を見ていると、衆生を救うために悩む姿というよりは、愚かなりにも生きている人間を慈しむ母のようにずっと見守ってくれている、そういう想いが伝わってくる。