FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

セクハラ・ヤジ都議 ~ 自己都合な「記憶喪失」で居座るな

2014-06-27 14:10:14 | 政治・社会・歴史

 東京都議会での女性議員にセクハラ・ヤジを飛ばした問題で、鈴木自民党都議がまず名乗り出ました。しかし、残りの「生めないのか」などのヤジを飛ばした複数と思われる議員は、黙り込んでいます。だいたい、鈴木氏も最初はしらばっくれて、「自分は言ってない。なんですか、あんたたちは」とマスコミのインタビューに横柄に答えていたくらいです。こういう人たちは、黙って、嘘ついていれば保身につながるから言いたいことを言ったあとは隠れていればいいと思っているのでしょう。これが、都民に選ばれた議員と思うと、怒りが増してきます。

 どうやら、このまま自民党は調査もせずに幕引きにするようです。みんなの党は当初のように、残りのヤジの声紋分析をして、言った本人を特定すべきです。「ほかのヤジはだれも聞いていない」などと、自民党の吉原幹事長は言っていますが、鈴木氏も何日もたってしゃあしゃあと出てきたのです。これは、ヤジを言われた塩村議員1人の問題ではなく、女性全員に関わる問題です。また、男性にとっても女性に対する侮辱行為ということでたいへんな問題です。このようなことを言う議員が、だんまりを決め込んでごまかそうという根性は絶対許せません。

 セクハラ・ヤジそのものも許せませんが、周りで隠し合い、黙り込んでいれば何をしてもいいという根性がおかしいのです。そういう体質が、自民党内にははびこっているのでしょう。いったい、言った張本人は今、どういう気持ちでいるのか。1人が名乗り出たのだから、これでもういいだろ、とでも思っているのか。鈴木氏が名乗り出た後も、「なぜこんなことが、いつまでも問題になるんだ」と自民党内で言った人がいるそうです。呆れるばかりです。それにしても、いまだ出てこない「本人」は一時的な「記憶喪失」状態に陥って、その時のことをまったく覚えていないのかもしれません。であれば、大事な議会の場で、自分の言ったことも分からなくなってしまうだけでも議員失格です。

 そういえば、中学に上がったばかりの頃、僕も「記憶喪失」になった(もちろん比喩です)ことが思い出されます。休み時間、教室で級友とふざけ合っていた時です。授業開始の時間になって担任の先生が来たのであわてて席に着きました。先生は教室に入るなり、「誰だ、こんなことをしたのは!」と怒り出しました。見ると、教師用の机と椅子が乱雑にとんでもない位置に動かされていたのです。「やった人間は、名乗り出なさい!」と言われても、誰も名乗り出ません。僕は、ひどい奴だな、やった奴はさっさと出てこい、と半ば腹が立ちました。

 その後も先生の説教は続いたのですが、そのうち、休み時間の光景が徐々によみがえってきました。「あ、机を引き回してふざけ合っていたのは、俺たちだ」。休み時間中はおふざけの絶頂状態だったので、その時のことをまったく覚えていません。こうして冷静になってくると、はっきり自分たちがやったのがわかってきました。しかし、いまさら出られません。とうとう先生は説教をやめ、授業を始めました。僕は、授業が終わるまで気が気ではありませんでした。

 授業終了後、僕たちは2人で自分たちがやったのだと先生に謝りに行きました。先生は、級友のほうは説教中にすぐに気づいたが、僕のほうはわからなかったと言いました。確かにそうでしょう、僕自身、あの時の記憶がまったくとんでいたので、まさか自分を「本人」だとは思ってもいなかったのです。

 あの時のことを考えると、僕は休み時間中のことは、まさに「記憶喪失」状態にあったわけです。まあ、鈴木都議ほかセクハラ・ヤジ議員も似たようなものかもしれません。議場でやたら興奮(?)してヤジを飛ばしたけど、後になってみたらその時のことをまったく覚えていない。一時的、というより自己都合で身勝手な「記憶喪失」だったのでしょう。時間がたつにつれ、「あ、あれは俺がやったんだ」と気付いたけれど、いまさら名乗り出ていくわけにはいかない、名乗り出たら議員生命が危うくなる・・・。

 中学に上がったばかりの、まだ子どもともいえるあの頃の僕らと、まさかこの人たちの精神レベルが同じ程度、いやそれ以下だったとは! 議場で記憶がなくなるほどの精神状態(?)にいたなんて・・・。当時、僕らはすぐ後で謝りに行きましたが、ヤジ議員たちはそれさえしなかったのです。ほんとにこんなので議員が務まるのでしょうか。それ以前に、こういう人たちは人間としても最低レベルです。お願いですから早く出てきて、さっさと議員を辞めてもらいたいものです。

 

 

 


『ゴッドファーザー』の頃 ~ 浪人と青春のはざまで

2014-06-22 12:01:57 | 芸能・映画・文化・スポーツ

■ 浪人時代と『ゴッドファーザー』

 時間はゆったりと流れる。この映画のストーリーがよく頭に入っていないと、その時間が退屈になる。しかし、その時間は詳細で濃密である。

 名作というのは、退屈な時間をどれだけゆっくり味わって楽しめるかだ。小説で言えば、あの長い長いプルーストの『失われた時を求めて』は退屈と言えばかなり退屈であろう。しかし、それだけじっくり楽しめる作品である。「くだらない作品をたくさん読むくらいなら、プルーストを読んで退屈している方がよほどましだ」(サムセット・モーム) 

 『ゴッドファーザー』の映画を観たのは高校を卒業して、地元(三島)で浪人をしていた頃だ。アルバイトしながら、大学受験しようかと迷っていた。高校卒業時に受験も就職もしなかった。「迷っていた」ということ自体、変に思われるかもしれない。友人たちはとっくに大学に入学したり、受験浪人したりしていたから。若い時代の無知というか、大学なんて行っても意味がないと思っていた。いや、そういうふうに思い込もうとしていた。高校3年の時は、それでも漠然と地元の国立大学を目指していたのだ。結局、家には僕が大学へ行くほどのお金もなかったし、国立大学ならそんなにかからないと思ったので、国立大を受けると言ったとたんに先生から「無謀だ」と鼻から笑われた。そんなものかと思い、それじゃあ私立大を受けようにもお金がないので、受験もせずにプラプラしていたのである。

 その頃、バイト代でマリオ・ブーツォの『ゴッドファーザー』を買った。なぜかというと、新聞やテレビでかなり宣伝していて話題になっていたから。あのマーロン・ブランド演じる「ゴッドファーザー」の肖像と、操り人形師の手を思わせる ‘The God Father ’ のタイトル文字の表紙に魅せられたのだ。実際に、映画は当時最高の興行収入を上げていたし、アカデミー賞では作品賞・主演男優賞・脚色賞を受賞した。本を買ったのは、この映画がまだ日本に来ていなくて、先に小説が売り出されていたからだ。

 あの分厚い本を最後まで読んだ記憶はあるが、僕にはよくわからないところもあった。何が印象に残っているかといえば、競走馬の首が切り落とされて馬主のベッドの中に血みどろになって転がっていたところだ。オーナーは、知らずに血みどろのサラブレッドの首と一晩寝ていたわけで、目覚めたときに発狂の声を上げる。小説で読んだ時は、度胆を抜かれた場面だが、その場面をのちに映画で観た時、あまりにリアルに再現されたので、またまた度肝を抜かれてしまった。あとは、マイケル(アル・パチーノ)が汚職警官に顔を殴られて鼻の骨を砕かれてしまい、普段でも鼻汁が止まらないので常にハンカチを持って鼻を押さえていたという描写が忠実に再現されているので、これも感心させられたのを覚えている。また、ソニー(ジェームズ・カーン)の暴力的な性格は、その死に方も含めて真に迫っていた。

■ 新聞奨学生と『ゴッドファーザー』

 その後、僕は無事に東京の私立大学に入ることができた。家には私立大学に入れるほどの金はなかったし、数ヵ月のバイト代では入学金・授業料などとても工面できなかった。どうしたかというと、高校時代の友人と話していた時、同級生の誰それが新聞奨学生として大学に入ったということを聞いた。奨学生というと、当時も勉学優秀な学生がもらうものと思っていたし、教育ローンなどもあったろうが、世間知らずにも自分にはそんなことなど思いもよらなかった。

 調べてみると、朝夕の新聞配達と月の集金を専売所に泊まり込みでやることで大学の入学金も授業料も免除になるという。原則、在学4年間続けることで、すべてチャラになる。朝晩の食事付きで部屋代はタダだし、おまけに給料までくれるという。これを使わない手はなかった。僕は早速、雑誌で調べていくつかの全国紙から日経新聞を選んだ。これは読者層が比較的収入の安定したまじめなサラリーマンが多く集金が楽(踏み倒しがないし、日曜・夜間はたいてい部屋にいる)だということと、1人が受け持つ配達部数が他紙に比べて少なく、折込チラシも多くないということだったからだ。考えてみれば、小学校、中学校の時も新聞配達していたし、こんなところでまた新聞配達で助けられるとは思わなかった。

 僕は何とか、受験直前3ヵ月くらいの勉強で私大文学部に合格することができた。それで、東京の杉並区(高円寺と阿佐ヶ谷が配達区域)の専売所に配属(?)されたわけである。そこの専売所2階の3畳間が僕の大学時代のねぐらとなったのだ。その時に持って行った本の中に『ゴッドファーザー』があったから、たぶん浪人中に読みかけだった残りをここで読んだのだと思う。ある日、ほかの大学に入った中学の同級生がこの部屋に遊びに来て、「貸してくれ」と言って本棚の『ゴッドファーザー』を持って行ってしまった。その本は、いまだに戻ってきていない。そういえば、僕もその友人の下宿に行って本を借りてきたまま返してないから同罪なのだが。確か、その本の題名が遠藤周作の『ただ今浪人』だった。「ゴッドファーザー」と引き換えに、僕の「浪人」時代を取り戻したわけだ。 

■ 『ゴッドファーザー』と俳優 

 このやたら長い映画は(小説も長いけど、映画はPartⅠからPartⅢまで全編10時間くらいある)、どのように感想を述べたらいいかわからない。すでに最初に上映されてから40年もたち、さまざまな批評がされた後で、僕が今さら何を言うかである。今度、全編のDVDを観なおした。というのも、当時はPartⅠしか観ていなかったのでPartⅡ、PartⅢがずっと気になっていたのだ。映画は、小説を読んでいた僕でもストーリーがわかりずらいところがあった。が、一つ一つの場面がドキュメンタリーのように現実感をもっていて迫力があり、重みがあることは事実だ。

 俳優としては、マーロン・ブランドは別格である。頬に綿を詰め込んで、しわがれた声を出し、老け役を演じて話題になった(アカデミー賞主演男優賞)。ロバート・デュバル(トム)もいい味を出していた(PartⅠ,Ⅱ)。しかし、アル・パチーノは最初から演技っぽいところを感じたし、存在感がどうなのかなと思った。PartⅡ,PartⅢと進むにしたがって、マイケルの存在の重要性は増し(遺志を継いでゴッドファーザーとなる)、それに伴いアル・パチーノの演技もそれらしくなり重くなっていったが、僕にはどうも最後まで役者としての存在感が今一つ感じられなかった。

 それより、ロバート・デ・ニーロ(若き日のドン・コルレオーネ)がいい。彼の演技は素晴らしかった。セリフは多くはなかったが、無言の演技がこの俳優は抜群である。特に元締めのボスを射殺するシーンは、秀逸極まった。実際にデ・ニーロは、この作品でアカデミー賞(助演男優賞)を受賞している。若き日につかんだこの1作のチャンスが彼の俳優人生を決定づけた。大物というのは、俳優に限らず、こういう人物を言うのだろう。人生は、そうそうチャンスはめぐってこない。いかに運を呼び込み、ものにするかだ。PartⅠからPartⅢまで主役級で出続けたアル・パチーノは、『ゴッドファーザー』のシリーズではとうとうアカデミー賞を受賞することはなかった(のちにほかの作品で主演男優賞を受賞)。

 作品はゆったりと進む中、濃密な時間が流れていく。おそらく今の映画ではもう、こうした創り方はできないだろう。「ゴッドファーザー 愛のテーマ」の曲が流れる中、ファミリーの王国は、繰り返さる抗争とともに瓦解する運命に向かう・・・・。

 


最近のハローワーク ~ 失業者は「お客様」?

2014-06-18 00:45:11 | 経済・金融・ビジネス

 10年ぶりくらいにハローワークへ行きました。5月末に発表された有効求人倍率が1.08とわずかに改善されたと発表されても、これは非正規労働者が中心となった数字で、正社員の求人倍率は0.61 倍で逆に下がっています。企業が出した求人のうち、採用に結びついたのはわずか2割ということです。 

 相変わらず、ハローワークでは仕事を探している人たちが溢れています。ちょっと驚いたのは、ハローワークの職員の人たちが、親切・丁寧(表向きは)になったことです。順番待ちのアナウンスからして「○○番のカードでお待ちのお客様、○○の窓口までお越しください」――。 お客様? 一瞬、銀行かどこかに来たのかと思いました。失業者を「お客様」と呼ぶのです。

 失業しているとはいえ、税金を払って、その税金で運営されている機関である以上、「お客様」に変わりはありません。確か10年くらい前にお世話になった時は「○○番のカードをお持ちの方」だったと思います。求人票を持って紹介カウンターに行くと、担当者がわざわざ立ち上がって、「どうぞお掛け下さい」と丁寧にあいさつしてくれます。終了後も立ち上がって、「お疲れ様です。よろしくお願いいたします」と礼をしてくれます。ハローワークの紹介出張所でも同じで、受付カウンターでは男女の職員が直立していて、入って来た求職者を見るなり「いらっしゃいませ」と声をかけてくれます。これなんか、ちょっと違和感を感じたりしています。

 前回(10年ほど前)の時は、番号を呼ばれてどの窓口へ行っていいのかまごついていると、「何をしているの! あなた、あなたよ、早くここに来なさい、みんな待っているんだから」まったくもう、と中年の女性職員に失業者みんなの前で怒鳴られたことがあります。「失業者という弱者」と「仕事を紹介してやる側」という構図がこんなところにもあるのかと、その時思いました(その職員は特別だったのかもしれません)。

 失業者といっても、大企業の役職者が定年とか事情があって退職しここへ来る場合もあるでしょう。そういう人は、今まで管理する立場にあった人間として相当、自分のプライドが傷つけられるでしょう(プライドというものがあればの話ですが)。ああいう言い方はないだろうと私も思いましたが、そんな場所で多くの失業者の前で職員と言い合うのもみっともない、第一、それでいい職が見つかるわけではないので、その場はおとなしくしていました。

 考えうるに、10年前はこれほどスマホが普及していなかったということがあります。これは憶測でしかありませんが、今どきは、職員から嫌な対応を受けた失業者がツィッター、ブログなどで告げ口を載せたり、あるいは直接ハローワークに抗議メールを送りつけるということも考えられます。10年前のあの時の対応をされたら、今の私でも抗議メールくらい送りたくなります(現に、こうして書いているくらいですから)。

 職員の対応が良くなるのはもちろんうれしいことですが、それにしても「お客様」は違和感があります。お客様だからといって、「またお越しください」というのはさすがにありませんでしたが、できれば、いつまでも「お客様」(失業者)ではいたくないものです。


年金は5年先も安心ではない ~ 数字と文字だけの危機感

2014-06-12 16:21:07 | 経済・金融・ビジネス

 5年に1度の年金財政検証がやってきました。政府は「100年先まで安全」という年金検証を前回も前々回もやったはずでした。ところが、年金財政は、その後も破綻に向かっています。

 今後は「マクロ経済スライド」の実施は不可欠だというが、それではなぜ制度ができた2004年から実施してこなかったのか。2009年の財政検証でも言われていたことです。特にデフレ時にはこの制度は機能しないという決めごとがあり、これまで一度も発動されていません。インフレ時にも使えない、デフレ時にも使えない、これでは話になりません。これを発動させると、現在年金を受給している世代(高齢者)の反発を買って選挙には勝てないというのが目先の利害だけを考えた政権の姑息な理由だったからです。その結果が、年金財政を苦しくし、将来はこれまで以上に年金受給額を低くさせるもととなりました。

 政府は所得代替率「50%」を維持することを約束してきましたが、この「50%」を守ることにこだわって、さまざまな数字の細工がされてきたのではないでしょうか。特に若い世代にとって所得代替率がこれ以上低下するのは避けてほしい状況ですが、「50%」を守るメンツのために無責任な数字を出してもらっては困ります。

 実際の政府の受給予想よりもはるかに受給額、所得代替率は悪くなる傾向が言われています。政府はまた、将来の物価水準、運用率に伴う所得代替率、受給額の予測を8段階にして出しています。予測などもともと無理だとしても、8パターンもあると、「さあ、どれにしますか」と机の上に出されて、国民の方が回答を迫られているようで、違和感を感じます。国がやることは決まっています。最悪とまではいかなくても、悪いパターンの可能性が何パーセントあるのか、それに備えてどういう政策をとるか、ということです。

 今回出てきた対策としては、前回の財政検証でも言われてきたことと何ら変わっていません。

1. 受給年齢を65歳から徐々に70歳に引き上げ

2. 保険料負担年齢を65歳まで延長

3. マクロ経済スライドの実施(すなわち年金受給額の引下げ)

 これらの指摘は今に始まったことではありません。前回でも分かっていたはずです。だんだん状況が悪くなっているにもかかわらず、「まだ大丈夫、まだ大丈夫」と言ってきたのです。

 将来の受給パターンの良い条件として、「女性と高齢者の就労がもっと活発になれば」と言っています。何が「・・・なれば」なのでしょう。こうなればこうなる、などというのは民間人でも言えます。民間よりも詳細で膨大なデータを持つ国の機関があまりに大ざっぱすぎるというか、やる気が感じられません。実態は5年前と何ら変わっていないのです。女性が幼い子供を抱えて本当に安心して働ける制度ができているのか、高齢者が誰でも働ける環境ができているのか。

 高齢者の就労については、「改正高齢法」により65歳まで雇用延長が可能となりました。しかし、定年が延長されるといっても、大部分の中小企業ではいつまでも高齢者を会社においておく余裕がありません。この「高齢法」は義務ではないので、結局60歳になれば何やかや理由付けされて会社の外に追い出され、退職金なし、仕事なし、年金なし(65歳まで)の「3無し」の現実に追いやられるわけです。

 「・・・・という条件であれば、年金は安心です」などと人ごとのように言う前に1つ1つの施策をきちんとやってもらいたいものです。物価上昇率、運用利回りにしても、甘い将来の見積もりが、将来の若者を苦しめるのです。「100年先まで安心」といった矢先にお尻に火がついているのに気が付かない、それが役人のやることなのです。100年どころか、5年先もどうなっているかわかりません。


司法試験改革 ~ 「紙切れの知識」を試す制度

2014-06-07 00:34:25 | 政治・社会・歴史

 また、司法試験制度を変えるという。受験回数制限を3回から5回に増やし、受験の機会を拡げて法曹離れを防ぐというのです。この迷走ぶりはいったいなんだろうと思います。こんなことしていて将来、法で裁いたり、法を守ったりする専門家を養成できるのでしょうか。

 受験回数を増やすというが、そもそも回数を制限することに問題があったのです。受験失敗を繰り返し、社会に出られなくなってしまう、いわゆる「司法試験浪人」をなくすことが目的だといいます。この国は、いつから(ずっと前から?)個人の生き方にまで節介を焼くようになったのでしょうか。

 そういうことを改革するのが司法大学院の創設ではなかったか? 当初は、大学院修了生の70~80%が合格できる制度を目指していたはずでした。しかし、実態は合格率20%台まで落ちて、志願者を落胆させました。単に落胆させただけではありません。中には、いったん社会に出てから法曹を志して来た人もいます。それが合格率低下によって、支払った高い授業料と、その間に社会で働いて得られるはずだった収入や経験、出会い、チャンスを犠牲にした「逸失利益」の代償は、はなはだ大きいといえます。

 「落ちるのは本人の努力が足りないんだから、そんなことまで責任は取れない」と言ってしまって済む話ではありません。もとはと言えば、試験が難しすぎて受験を諦め一般社会に流れていく優秀な人材を引き留めるはずの司法大学院創設だったわけです。試験に合格しないのは、本人の責任だと言っている場合なのか。明らかに矛盾しています。

 だいたい、試験が難しいということと、頭脳が優秀であることとは一致しないということぐらい、当局の人間はとっくにわかっていたからこの制度をスタートさせたはずなのに、そのうち「合格者のレベルが落ちる」などと言い出して、合格率を徐々に引き下げ始めました。それは教える側と制度に大きな問題があるのでは、と考えたくもなります。

 大学入学試験はじめ資格試験一般は、理解力、暗記力など、能力のほんの一部しか試されません。そうした能力も必要ですが、その部分に偏重して難しくさせてきたのが問題なのです。それを改めて、優秀な人材を法曹界に入れるのが当初の目的だったのです。

 それに、受験回数の制限というのは意味がありません。司法浪人となってしまい社会に「復帰」できなくなる人を救済する措置というが、まったく笑えません。受験を志すのも続けるのも、またやめるのも、そんなのは本人の意思以外ありえません。そんなことまで国がかまうというのは、合格後に司法に携わる人間が、国や誰かの言いなりになるということを意味するものです。

 現在では、司法大学院を修了してもすぐに受験せず、さらに受験勉強を重ねてから本試験を受ける「受け控え」組が目立っているそうです。また受験者も経済的事情などから大学院に行けない人が受ける「予備試験」組が「大学院修了」組の数を逆転したとのことです。だから、予備試験についての見直しも図るという。これはまったく本末転倒で、大学院制度そのものの改革とはき違えています。

■「紙の中の知識」から脱け出せ

 大学入試、入社試験、資格試験など、一般に難易度の高いと言われる試験に合格するほど、優秀と見られるのが日本の風潮です。しかし、それは単に「一次元」「二次元」の世界でしかありません。自分と紙(参考書、テキスト、テスト用紙)の関係(一次元)、自分と講師との関係(二次元)の知識でしかありません。要するに紙の中だけの「紙きれの知識」でしかないのです。

 そのような基礎次元の知識を試されて、それが難関だからといって合格しても「三次元」「四次元」での社会では通用しません。実社会では、問題解決力、想像力と創造力、論理力、表現力、発想力、分析力、調査力、開発力、構築力、指導力、ネットワーク力といった能力が必要とされます。個人にとっては、人間と人間、人間と組織や社会との関係があり、個人や人種にはそれぞれ感情・意思・信仰・歴史など複雑な環境や事情が絡んでいます。つまり、そういう意味での複次元的(三次元・四次元)な世界では、単に「紙切れ」の知識だけで問題は到底「解答」できるものではありません。そういうことに対処できる法律家を育てるための司法大学院制度だったはずです。

 司法試験に合格したというだけでは、合格者の将来や収入、進路が約束されるというものではありません。そんな基礎レベルの能力を試す段階で「質を落としたくない」などと考えていたずらに難関にしたり、人材がいなくなるからと難易度を緩めたり、本来の試験から予備試験に受験生が流れるから予備試験制度を変えようとか、本質から外れたことばかりしています。こういう人たちもやっぱり、「紙切れの知識」だけでやってきた人たちなのでしょう。そろそろ、そういった意識から解き放たれなければ、法曹界にかぎらず、日本はダメになっていくのではと、ひじょうに危惧されます。

 

 

 

 


「高齢者」お断り? ~ 求人票に見る皮肉と悲哀

2014-06-05 07:27:03 | 経済・金融・ビジネス

■ 求人票の皮肉 

 そもそも60歳を「高齢者」と呼ぶかどうかという議論(というほどでもないが)こそおかしい。60歳になって、自分が引退だと思っている人がいるのか、だいいち、引退できるほど余裕の資産があるのか――。

 サラリーマン生活から解放され、「さあ、これから好きなことをやって生きていこう」と思うにも肝腎のお金がない、だから働かなければならない。これが多くの60歳の現状だと思います。年金? 年金などはまだ先で、今の60代前半は部分年金(報酬比例部分)のみ受給、65歳から厚生年金と基礎年金の本格受給が始まります。年金受給が始まったところで、それで死ぬまで暮らしていけるわけではありません。「働くことが生きがい」などと言っている人は、十分な資産と年金受給が見込める人です。現実は、「生きがい」を犠牲にしてつらい仕事でも、とにかく現役並みに働かなくては生きていけないのです。

 国は、健康で意欲のある「高齢者」にもっと働きの場と機会を提供する、もっと頑張ってもらうと言っています。が、実態は「雇用延長」など中小の会社では関係ありません。60歳過ぎた人間をまともな給料、まともな仕事で雇おうと考えている会社など、そうそうあるものではありません。ハローワークの求人だけでなく、ネットの求人ナビを見ても、建前は「年齢不問」としておきながら、「定年60歳」としてあったり(つまり60歳以上及び60歳手前はお断り)、「30代中心の若い人中心に頑張っている会社です」(つまり40代以上お断り)、「幹部候補生として将来に向けて一緒に成長してくれる人望む」(つまり先の短い人お断り)、「30代前後の女性たちが元気に働いている職場です」(つまりむさいおじさんお断り)などとあります。

 ハローワークでの求人上、年齢や性別で募集を選別できないため、クイズのように募集記事から「裏読みしてください」と言っているのが見え見えです。求職する側としては、この求人は何歳くらいをターゲットとしているのか、男に来てもらっては困るのか、若い女性向けの求人なのか、30代までしか採らないのか、前の会社で肩書きの重い人は扱いにくいから来てほしくないのか、要するに「高齢者」は採りたくないのかなどと、「裏読み」のほうに意識をめぐらさなければなりません。

 考えてみれば、会社からすれば、若い人を入れて将来会社を支えてくれる人を望むのは仕方ありません。特に中小の会社では、先が見えている人間を採用しても、気力・体力が衰えてすぐに辞められたらたまったものじゃありません。そうでないというならば、求人票の書き方も考えたほうがいいでしょう。「中高齢者中心に募集」「60歳以上の方も歓迎」とか、はっきりしたほうがいいでしょう。たとえ5年以内の勤務でも、年齢なりの働き方と存在価値があるはずです。中短期でも、若い世代への橋渡し役として、もっと利用すればいいのではないでしょうか。

■ 悲哀の「高齢」(?)コンビニ強盗  

このままだと、働きたくても働けない中高年が増えて、かえっていろいろな面で問題になるではないでしょうか。と思っていた矢先、テレビで2人組のコンビニ強盗の姿が防犯カメラに映し出されていました。犯人は明らかに(?)70代の男であろうという。「70代」というのは、ナイフを突き出している男たちの帽子とマスクで顔を隠している隙間から白髪とやつれた膚の皺が見えていたからです。テレビでは静止画だから動作まではわかりませんが、少し背中が丸まり膝が曲がった恰好からすると、歩く姿もよっこら、という感じのようで、いかにも老人っぽかったのでしょう。

 なにやら悲哀を感じます。よほどお金に困った挙句なのでしょう。年金などまともにもらえていないのか、もらっていたとしても家族が病気で看病や治療にお金がかかるのか。この2人組がいくら奪ったのか知りませんが、わずか数万円のお金だったら捕まえるのも何だか切ないものがあります。もちろん、老人強盗を見逃してやれというわけにはいきません。売上金を奪われたほうだって、中高年オーナーが借金をしてコンビニを切り盛りして苦しいのかもしれません。

 そういえば、牛丼屋などでは働き手がいなくて休業する店が増えているそうです。「すき屋」「松屋」などは売上そっちのけでバイトの時給上げ競争をしていますが、それでも人が集まりません。深夜営業を1人でしかも低賃金で仕切り、翌日分の仕込みまでやるきつい仕事だからです。「肉の日」(5/29)には牛丼屋のバイトたちがネットでスト決行を呼びかけていました。若者はもう、将来の見えないところから出ていきたいのです。いまどき24時間営業が必要なのか、バイトの賃金を低く抑えてまで品物を安くして売上を上げる必要があるのか、そういう経営モデルはとっくに行き詰っています。深夜の時給など上げないで、さっさと閉店してしまえばいいでしょう。

 「そんなこと言うなら、あんたらを雇ってやるで」

 そう言われたら、高齢者はどうでしょうか。そりゃあ、仕事があるのはうれしいけど、若者がきついと言って逃げ出すような仕事しか、もはや高齢者には残されていないのかねえ・・・・。