前からしっくりこないことがあります。
一つは、相撲。角界に覆いかぶさっている黒い問題ではありません。白鵬の連勝記録です。先の場所で、白鵬は4場所連続の全勝優勝を遂げました。そしてなお62連勝中。日本人力士がふがいないと言えばふがいない。だからと言って、異国出身の横綱を讃えないなどとは言いません。大いに賞賛に値します。
しっくりこないのは、双葉山の連勝記録69を超えるかどうかというマスコミの焚き方です。私は、白鵬のことをアスリート(この言葉もどうもすっきりしないので格闘家としたい)として素晴らしいと思います。悪童の朝青龍も格闘家としてみれば好きな方でした。ただ、心・技・体どれをとっても白鵬のほうが上でしょう。その白鵬になんらケチをつけるつもりはありません。でも、双葉山の連勝記録を超えるか超えないかということになると、話は別です。
双葉山の相撲を、私はナマでみたことはありません。時折、何かで紹介される映像を見てきただけです。書物で読んだわけでもありません。紹介されるたび、すごい力士、神格化された横綱をイメージしてきました。その双葉山の連勝記録が来場所にも破られることに不快感を抱いているということでも、もちろんありません。私の心に引っかかっているわだかまりというのは「条件が違うのでは?」ということ、それこそ「土俵が違う」のです。
双葉山の時代は、年2場所です。1年間無敗を誇ったとしても、22勝です(1場所11日、のち13日、15日制となった)。69連勝を成し遂げるには3年以上ものあいだ無敗でいて、その間ずっと、心・技・体を高いレベルで維持していなければならない。格闘家が3年間も無敗を維持し続けることがどれだけ大変な偉業か。格闘家に限らず、アスリートの寿命、賞味価値というのは、1年でみても消耗・衰退が激しいということを言いたいのです。格闘の世界選手権で連覇することがいかに難しいかを考えればわかります。
現在の大相撲は年6場所、1年間休場なしで90番。これはこれで、大変なことです。それでも絶頂にいるときは、その1年で一気に連勝記録を稼ぐことが可能です。大鵬、千代の富士、朝青龍、そして白鵬がそうです。しかし、年22勝(2場所)までとなると、3年間も無敗でいる――。双葉山が神格化されるのも頷けます。
話を戻すと、このように条件が違う「土俵」で、連勝記録を超える(「超えた」という文字が来場所見られるかもしれません)というのも、「ちがうんだけどな~」と思いたくなります。数字の上では確かに新記録なのですが・・・。白鵬は嫌いではないし、完成された大横綱になると思いますが、多くの相撲関係者やファンは、68連勝あたりで負けてくれるといいのだが・・・、と思っているのではないでしょうか。でも、今の力士の中で、まともにやって白鵬に勝てる力士がいないのも事実で、なんとも情けないというか、さびしいものです。
もう一つは、野球。阪神の外人選手マートンが来日1年目で214安打、オリックス時代のイチローの210安打を超えて新記録だとか。これも、「なんだかなあ~」と思ってしまいます。マートンはさすが大リーグから来たおとなです、「試合数が違うし」と冷めていました。そう、イチローの時は130試合、今年は144試合。今年はマートン含め3人も200安打突破だとマスコミは騒いでいますが、これも「試合数が違うじゃん」、としっくりこないわけです。
ついでに言うと、イチローが記録を立てるたびに「日米通算」と書きき立てていますが、これももうみっともないからやめた方がいいです。大リーグへ行ったら大リーグだけでの数字が大事なのです(イチローもそれをめざしているはず)。元大リーガーが日本のプロ野球に来て、「米日通算」500本塁打とか、「米日通算」2000本安打などと言わないでしょう。本人も何のことだかきょとんとしますし、そんなこと言われても恥ずかしいだけでしょう(実際、日本の記者もその辺は分かっているので、外人選手については書きません)。日本球界を引退した日本人選手が韓国や台湾球界に行って素晴らしい記録を残したとしても、「日韓通算200勝」とか「日台通算2000本安打」など聞いたことがありません。
最近は、なかなか文学書や哲学書、仏教書を読む時間がありません。時々、こうした「非生産的」「非実務的」「非現実的」な思索にどっぷりつかる時間がほしくなります。
「非 ―― 」と書いたのは、もちろんアイロニーであって、生産的、実務的、現実的な日々の仕事に追われている自分に対して言っているわけです。今は、読んだり書いたりするものは、ほとんど仕事関係のものです。時間なんて、探せばいくらでもあるはずなのはわかっていますが、目の前にある仕事を追ってばかりいると、空いた時間はそのストレスを癒すための時間に費やすため、ひたすらぼーう、としているわけです。
そう考えると、若い頃ひたすら文学や哲学にふけったりした膨大な時間は、とても貴重だったのでしょう。仏教書もよく読みましたが、私は仏教書を哲学と同じ思想書として読んでいました。最澄、空海、源信、法然、親鸞、道元、日蓮など日本の名僧の書は、西洋哲学に劣らず、いや西洋哲学に優る哲学だと思います。西洋最大の哲学者の一人、ヘーゲルが書いていることなど、とうの昔に日本の名僧たちが、いやインド、中国仏教ではすでに言っていることなのだと思えました。
話がそれましたが、先日まで日経新聞の連載に哲学者、木田元さんの「私の履歴書」が連載されていました。木田さんのことは、フッサールなどの現象学の翻訳者であり日本への紹介者ということで、その名を知っていました。サルトル、ハイデガーなどの哲学書を読んでいるとき、たびたび「フッサール」「現象学」という言葉が出てきます。サルトル、ハイデガーなどは、フッサールの現象学に相当影響を受けているということを知ったわけです。
しかし、さて「現象学」とは、なんぞや? 当時、初めてその名を聞いたくらいですから、私にもわかるはずがありません。さっそく、フッサールの講義録『現象学の理念』という比較的薄い本を読んでみました。たかだか100ページくらいの本ですが、何日もかかりました。それでも、理解できたかどうかわかりません。ただ、「意識は志向する」という言葉がすべてを表しているように思えました。
「意識は志向する」(‘思考する’の誤字ではありません)とは、意識は必ず「ここ」から「かしこ」へと目指すということです。そのはたらきの象徴が「まなざし」の概念です。「私」は「彼女」を「まなざす」。この時、意識は「私」から「彼女」へと目指している(志向している)。「まなざす」ことによって相手(彼女)の存在を束縛する・・・と、簡単に書くとこんなことですが、なかなか理解できなかったことを覚えています(彼女の存在をどうやってとらえたらいいか悩んでいたりしました)。
また、「現象学的還元」という言葉も理解するのに苦労しました。これは、たとえば理解できないことはとりあえず「 」(カッコ)に入れて思考を先に進めよ、ということです。こうした難しい概念をかみ砕いて理解すると、なるほど思索活動に活かすのに便利なものだとわかってきました。
このころ、理解するために木田さんの『現象学』(岩波新書)というわかりやすい解説書を読んで、大分助けられました。現象学のこれらの概念は、難しく考えずに、普段から思索活動の上で行っていることです。わからないなりに、この考え方が自分の存在につながる、自分のこれからの生き方につながると直観して、真剣に取り組んだのを覚えています。
文学書とか哲学書とかは、実務書に比べれば実業的ではないけれど、時々、息抜きにじっくり読んでみたくなります。目の前の仕事を忘れて。(最近は、ニーチェの本も売れているそうです。)