FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

薬師寺 動く三尊像 ~ 瞬く信仰の眩暈(めまい)

2014-08-14 11:07:15 | 仏像・仏教、寺・神社

 僕が行った時の薬師寺は、人がまばらだった。寺は、近鉄西ノ京駅を降りてすぐである。東塔は、まだ解体修理されていなかった(東塔は、平成21年から31年までの予定で解体修理されている)。

 薬師寺。方形の伽藍の中に、俗世とは隔絶された堂と二つの塔。そこに立ち、伽藍内を見渡していると、自分は今、千年も前の土と空気の中にいるのがわかる。

 東院堂では、憧れの聖観世音菩薩立像を思う存分見ていることができた。日本の仏像の中でも、これほど端正な顔をもつ観音像はめったにない。今は、漆黒の艶をもつ全身であるが、当時は黄金に輝いていたのだから、その眩さはどれほどのものだったろうか。仏像は、その姿かたちの「決まり」があり、両手は膝まで届く長さがある。これは、少しでも人々を多く、すばやく救うことができるようにということである。このように、一般に仏像を見ると、人間離れした怪異ともいえる身体の相がある。この聖観音立像も、両腕は膝近くまで伸びているが、ぴちりとそろった両脚は真っ直ぐ伸びていて、陸上選手のようにすっきりしている。

 菩薩はまた、「ひと」を超越しているので、すでに性別もなく、だから陰茎も不要となり、体内にしまわれている(陰蔵相=おんぞうそう)。その上半身を見ても乳部が女性のように膨らんでいるわけではないが、ふっくらした肉厚そうな肩から胸のあたりは、明らかに女性を感じさせる。顔もまた、女の顔である。というより、人間の声を聴き(音を観る=観音)、暖かく見守ってくれる存在はどうしても母性の穏やかな顔になるのだろうか。

 金堂に入ると、薬師如来を挟んで聖観音によく似た二体の像、日光・月光菩薩がいる。作者が同じだとわかる仏像である。中央の大きな薬師如来もまた、端正でゆったりとした仏像である。これら三体も、当時は黄金に輝いていた。眩い、黄金の薬師三尊像に見られていたら、きっと人々は、それだけで救われる気持ちになっただろう。

 たまたま人のいない堂の中で、僕は20分も30分も三尊像を独り占めにしていた。見ていると、天井に組まれた四角い格子が斜めにいり込んで来て、眩暈がしてきた。ぐーんと、天井が揺れてきた。眼の前がぐらぐらしてきて、心の酔いがまわってきた。僕はその場で倒れかかった。

 その時である。仏たちが動き出したのは。右と左の日光と月光の菩薩像が、あのくねらせた腰をゆらりとさせて、胸元まで掲げた印を結ぶ掌をひらひらと見せ、首をかしげて微笑している。中央に座す如来像は、その巨大な身体をどしりと据えたまま、これもまた前に後ろに動きかけようとしている――。

 僕は数秒、そうしていたのだろう。しかし、それが何分も何十分にも感じられた。は、として眼を瞠(みは)ると、三尊像はもとのままに静かに座し、そして立っていた。堂内の隅にいる経やお守りを売っている白服の寺職の人が、先ほどまでと同じように坐っている。何事もなく。

 信仰の眩暈(めまい)だ、・・・・と思えればいい。僕にはそんなに深い、恥じ入ることなく言える信仰心などない。眩暈で自分の心が救われれば、こんなに楽なことはない。それでいい。わずか数秒の信心でも救われるなら。

 薬師寺。伽藍を見渡していると、一時(いっとき)、この世のことを忘れていたい気持ちがさまざまと浮かんできて、もう一度来てみたいと思う。

 

 


新薬師寺 ~ 揺れ動く仏像と霊の力

2014-08-04 02:31:06 | 仏像・仏教、寺・神社

■ 揺れる仏像たち

 どういうわけだったか、僕は新薬師寺に一人で泊まったことがある。べつに1日か2日の修行に行ったわけではない。もう、だいぶ前のことである。

 なぜ新薬師寺だったか思い出せない。手ごろな宿坊として予約が空いていたのか、それとも(たぶん両方だったと思うが)あの十二神将像を見ておきたかったからだと思う。新薬師寺には、薬師如来とその如来像を取り巻く十二の守護神(天)の像がある。安置されている本堂は、そう大きくはない。こじんまりとしているが、そこだけひっそりと、何か特別な霊気ならぬ「仏気」が感じられるスポットだった。

 ぐるりと廻るのに何分もかからない。入口の拝観券売り場の人しかおらず、中では何十分も自由に拝観できた。あんまり一人で長く見ていたので、仏教の研究者か何かに思われたかもしれない。こういう場所で仏様を拝んでいると、正確には、仏像を凝視していると、物理的な視覚がおかしくなる。決して精神的でもなく、心理的なものではなく、確かにぐらぐらと眩暈(めまい)がしてくるのだ。ちょうど、瞬きもせずに一点を見つめていると気分がおかしくなる、あれと同じである。

 僕は仏像を見ていると、何か宗教上のインスピレーションでも得られるのではないかと、仏像の顔を見続けてしまうのだ。それでしばしば、一瞬だが、眼の前がぐらついてよろめいてしまうのだった。畢竟、仏像という存在がそうさせるのだろう。これといった宗教的インスピレーションがあったということではなく、一時的なものなのだ。よく仏像が動いたとか、時間が流れる音がするという現象に出会うが、むろんそれは身体的錯覚からくる幻覚的イマジネーションであって、そういうところからきていると思われる。

 ここ、新薬師寺の本堂内でも同じことが起きた。ゆらゆらと、ぐらぐらと、堂の天井が揺れるのだ。剥き出しの天井裏の格子が動き出し、桟の線が二重三重になったり、交差したりする。やっぱり、薬師寺で体験したことがここでも起きた。眼の前の如来像がじっと僕を見つめていて、揺れ動いている。今にも立ち上がろうとしている。十二の神将たちも動いてきて、いつの間に僕を取り巻いている。僕は、はっとして、そうなるとすぐに眼を瞬かせ正気に戻ろうとする。意識して自分を正気に戻らせないと、「イってしまう」怖れがあるからだ。つまり、宗教的トランス状態になり、「向こうの世界」へ連れて行かれるのを予感するのだ。

■ 「霊的存在」と仏性 

 僕の泊まる部屋は、2階の2室のうちの一室だった。低い手すりの眼の先は竹藪(モウソウダケ?)が、ほうほうと茂っていた。夕方に廊下を歩いた時はかなり不気味で、「ああ、隣にも今日は誰か泊まらないのかな」と願ったくらいだ。ざわざわと、ゆさゆさと、竹林の葉がこすれて揺れている。それは風で動いているというよりは、何体もの霊が寄せ合い、身体を揺らしながらこっちに歩いて来るような気がした。

 部屋に案内されながら通る時もぞっとしたが、そこで食事をしている時も済んだ後も、ずっと不気味で落ち着かなかった。そんなだから、一人で階下の風呂に行くのも躊躇して入らずじまいだった。

 1時間足らず本などを読んでいたが、部屋にはテレビもなく、ただ本のページに眼をやったり、障子の向こうの竹林の方に耳を澄ましたりした。どうやら、隣室には泊り客はなく、少なくとも2階は僕一人だけのようだった。正直言うと、トイレに行くにもただならぬ霊気を感じて行かなかった。

 修行として宿を借りて寝る(宿坊というのはそういう所だ)には、まさにちょうどよい部屋ではあるのだが、僕はどうしても寝る気にはなれなかった。何かを感じて仕方なかった。それは霊的なものだろう。仮に邪悪な霊的存在だとしても、この寺と仏像群は国宝級であり、薬師如来といくつもの神将に護られているかぎり邪気など宿らず、また数多(あまた)人々の信仰心がここに集まり満ちているのだから、これほどに安心な場所などない。何ら怖がることはないのだ。むしろこれほどありがたい所があるだろうか。

 ・・・・ところが、僕はもう怖くて仕方ない。寝るどころではない。僕は部屋の電気を煌々と点けたまま瞼も閉じず、布団の中で棒のように固くなって朝まで眠れずにいた。朝が来て、障子のむこうが明るく透けてきた頃、ようやく安心してうつらうつらしたようだ。障子を開けて、庭の竹林を見下ろすと、陽を浴びてさわやかに竹の葉が揺れていた。

 それほどに怖がるものではなかったはずだ。しかし、僕は怯えていた。というのも、学生時代、僕は夜ひとりで寝る時に不思議な体験をしたことがあったから。それは「霊的体験」と言っていいのかどうか、そう言ってしまえばたやすい。その時の体験は、おそらくほとんどの人には理解してもらえないだろう。ごく一部の同じような体験をした人を除いては。(断っておくが、金縛りにあって怖い思いをしたとか、霊を見たとかいう類のものではない。)

 はっきり言うと、僕はその「霊的存在」なるものに殺されかけたのである。そんな体験があってから、僕は夜中に部屋を真っ暗にして一人で寝ることができなくなった。毎晩、一晩中、部屋の蛍光灯を明るく点けっぱなしにしたまま眠るのが習性になった。

 この新薬師寺の宿坊に来た時、あの時の恐怖が蘇ったのだ。しかし、この夜は何も起こらなかった。尊い仏性に囲まれていたからだろう。これだけの格の高い仏像群に護られているのに何が起こるというのだ。早い話が、僕自身が仏性的修行が足りなかっただけなのかもしれない。