大作家といわれる人は、女性や愛を描くのがうまい。文豪に対して“うまい”だなんて言い方ははなはだ失礼ですが、登場人物の女性が動いたり、話したり、歩いたりする姿が眼の前にいるように見える、聞こえる。そして、愛の悩みやため息が、微笑みが。
私が男だからなのか、作中の女性の可愛らしさや美しさ、時には狂おしさや妖艶さに魅かれるのは。初恋や熱愛、結婚、そして離婚も裏切りも、この世の現実と同じで、男女がいなかったら、ほんとうに味気ない世界だし、第一、そんな小説なんて読む気にもならない。
『失われた時を求めて』では生涯の愛人として追憶される女、『アンナ・カレーニナ』では夫と子を捨てて男のもとに走り、絶望の挙句に自殺する女、『復活』ではかつて犯された男に流刑地まで追い求められ贖罪を受ける無実の囚人女、そして平凡な夫に飽いて男のもとに走り、性と欲望の果てに服毒死する『ボヴァリー夫人』。
その初々しい恋や、蛇のように巻きつかれた欲望の愛まで、プルースト、トルストイ、フローベールの筆にかかると、愛に生きる女たちが眼の前に存在するかのようです。男の作家は、まず“女”がよく描けなければ、作品は成功しないでしょう。たとえば、トルストイ。彼があれほど恋愛を綺麗な筆で描くとは思いのほかでした。アンナやキティ(『アンナ・カレーニナ』)、カチューシャ(『復活』)は読者を引きつけてやみません。またフローベールが生涯かけて描いたエマ・ボヴァリー(『ボヴァリー夫人』)もしかりです。
アンナ・カレーニナもエマ・ボヴァリーも、平凡な夫婦生活に飽き足らず、夫を捨てて男との愛を求め最後は自殺してしまいます。この“不倫”2大作品について、文学上どこがどう違うのかと言われると、なかなか難しいです。どちらも大作家の名作中の名作と言われているだけで私にはよくわかりません。ただ、個人的には2人の女の生き方にはあまり共感が得られません。「愛に奔放に生きる」「本当の愛の欲望に目覚める」というとそれなりのものに聞こえますが、先にあるのが「絶望」でしかありません。それでも、そういう生き方ができるのが美しいといえば言えるかもしれませんが。
小説は何も倫理を説くものではありませんので、「こうしなければならない」とか「このような生き方はよくない」などと説教めいたことは言うつもりはありません。でも、悲劇だろうと絶望だろうと、その向こうに何か希望らしきものが見えないとなかなか読んでいてつらいものがあります。たかが小説、虚構でしかありません。しかし、文学作品が現実世界と同じくらい重みをもつと、その作品の意味は違ってきます。「なぜアンナは、ああいう生き方をしたのだろうか」、と―。
短くも小さく狭い普通の人生の中で、女たちと共に生きることができる、それが芸術作品の快感でもあるわけです。