FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

グレート・ギャッツビー ~ 青春の華麗なる忘れ物

2013-08-16 22:14:00 | 文学・絵画・芸術

 誰しも青春に忘れてきたと思うことがあるだろう。それは恋だったり、友情や家族のことだったり。中でも大きく心を動かし、ずっとひきずるもの、甘く、辛く、むごいもの、それが恋であることが多い。 

 グレート・ギャッツビー。

 大学時代、僕は英米文学を専攻したのに、実際は英語の語学に励んだわけでもなく、英米の文学作品を読んだわけではなく、どういうわけか、サルトルやドストエフスキー、ハイデッガーやキルケゴールばかり読んで学生生活を終えてしまった。卒論は、J.ジョイスを選んだが、あの難解で有名な『ユリシーズ』を研究するわけではなかった。 

 フィッツジェラルドやサリンジャーなどは、フランス文学やロシア文学と比べると一段下の作家として捉えていた。ならば、ロシア文学を専攻すればよかったじゃないかと言われればそれまでだが、受験する時はたいして小説も読んでいなかったからドストエフスキーがどういう意味を持つ作家なのか知るよしもなかった。今考えてみると、フィッツジェラルドやサリンジャーなど(こういった作家を下に見るわけではないが、その時は自分の求める何かと違っていたというわけだ)、当時の自分には身の丈に合った作品だったのかもしれないなどと思ったりもしている。

 グレート・ギャッツビー。

 折りにふれ、感動した小説の一つとして何かにつけこの作品が載ってたりすると、いつかは読んでみたいとは思っていた。何か、青春時代に忘れてきたもののような気がしていた。今年になって、この映画が公開された。何度目かの映画化だ。ロバート・レッドフォードの『華麗なるギャッツビー』はもちろん知っている。レッドフォードは当時二枚目俳優でかつトップスター、『明日に向かって撃て』ではカッコよすぎる渋さを出していた。でも、ギャッツビーの映画を観ることもなく過ぎた。

 今度は、レオナルド・ディカプリオ主演のギャッツビー。予告編の断片を観て、それが何となく、青春の自分を呼んでいるような気がして、まずは小説を読んでみた。外国の文学作品というのは翻訳でずいぶん評価が変わってしまう。20世紀米国文学の最高傑作の一つというこの小説も同じだ。最初に読んだ訳(野崎孝訳:新潮文庫)では、この小説は何だかよくわからなかった。訳文は正確なのだろうが、文学的訳文と言えるかどうか。すぐ後で、村上春樹訳(中央公論新社)で読み直した。2回目だからというわけではなく、すんなり入っていけた。村上春樹にとって『グレート・ギャッツビー』は特別の小説であって、彼自身の創作に決定的な影響を与えたと本人は書いている。それだけに、渾身の訳の『ギャッツビー』は、村上小説の一作品のようで、翻訳であることを感じさせない。

 グレート・ギャッツビー。

 青春というのは、華やかで、きらめいていて、そのきらめきが強すぎて眩しく、それだけ苦しくてつらく、残酷である。青春のつまずきの一つは、この残酷さにぶち当たることだ。それは、たいてい恋愛というものとの遭遇である。恋愛というのは、えてしてこの現実世界の不条理そのものである。スポーツや学問ならいくらかの才能と努力をもってして、ある程度それに見合った結果が得られる。しかし、恋愛はどうにもならないことがある。いや、その方が多い。 

 ギャッツビーは、戦争によって恋するデイジーと一度は別れる。もともと富裕な娘のデイジーに対して、ギャッツビーは富裕でもない。ある程度自分を虚飾してまでデイジーに近づくが、別れなければならない。ギャッツビーはデイジーを忘れることができず、数年後、巨万の富を手に入れて(遺産相続なのか、事業成功なのか、闇取引なのか判然としない)、再びデイジーの前に現れる。毎晩、豪華なパーティを催し、光を求めて虫の群れが寄ってくるように、パーティの噂を聞いてデイジーが現れるのを待つ。ただひたすら、そのためだけに巨費を費やしているのだ。 

 男として、このような心は誰しも持っている。去って行った女をひたすら待ち、おびき寄せる心。その手段が金であれ、名声を得ることであれ。いつか著名な実力者となった自分の名を知って、かつての女が自分の前に現れるのではないか、現れてほしい。男というのは、ずっとそういう気持ちを持ち続けているものだ。たとえ自分に妻がいても、たとえ相手に夫と子がいたとしても。 

 そうして再びめぐり逢えた気持ちは最高の幸せとなる。しかし、それがうまくいくか、長続きするか、現実を見れば誰でもわかる。本人はその愛が成就するものと信じている。昔も今も互いに愛し合っている、その気持ちで数年間待ち続けた結果、再会できたわけだから。デイジーもギャッツビーを再び愛し始めている、これまで今の夫を愛したことなど一度としてないと悟りながら。しかし・・・。 

 今の夫トムとギャッツビーが口論し、2人のやり取りにデイジーは心痛め苦しむ。その気晴らしにデイジーがギャッツビーの車を運転して車を飛ばしている時、飛び出してきた夫の愛人を轢き殺してしまう。同乗していたギャッツビーはデイジーをかばう、自分が運転していたのだと。デイジーは、事故後ギャッツビーに連絡もせずに夫と旅立つ。罪をかぶるギャッツビーはただデイジーからの連絡を待つ。2人のこれからの人生を生きるために。自宅のプールで連絡を待つ間に、轢き殺された女の夫が忍び寄り、ギャッツビーを射殺する。デイジーはギャッツビーに連絡しなかった。彼女は夫の前でとり乱し、それを見た夫は事態を察し、2人で行方をくらました。そういうところは、なんら描写がないが(小説では)、そうなるしかなかった。 

 やるせなく、どうにかならないかと思いながらも、そうなるしかならない、それが現実で、残酷さというものだ。こういう小説は、青春時代に読んでおくと、ずっとその後に心に残っていく場面がいくつもあるだろう。きらめきと暗さ、賢さと狡さ、幸せと不安、甘美と残酷―。 

 登場する人物たちは、すでに30歳を過ぎたと思える者たちだ。彼らを青春の中の人間と言えるかは別として、青春時代に忘れてきたものは、あとで取りに行っても決して取り戻せない。ギャッツビーの心は、誰の中にもある。デイジーも誰の心の中にもいる。 

 今回の映画は、駄作・名作、どちらの評もあるようだが、観るだけの楽しみはできたというわけだ。偉大で(グレート)、華麗なるギャッツビー。


ドストエフスキー『地下室の記録』 ~ 地下室のネズミ一匹と自分  

2013-08-11 18:35:32 | 文学・絵画・芸術

  『地下生活者の手記』(ドストエフスキー)は、学生の頃に確かに読んでいるのですが、しっかりと記憶がありませんでした。一人の男が地下室に引きこもって、何やらぶつぶつ、世をひがんでか、卑屈で偏狭な思考を地下から吐き出しているというイメージがありました。もちろん、その卑屈で偏狭なりにちゃんとした思想であるという文学的建て前を通しているところが気に入ってはいました。

 今度、亀山郁夫新訳(集英社)で読んでみました。読んでみると、これがけっこう面白いのです。最初は少々退屈ですが、中盤から意外とストーリーがあったのには、今頃、ちょっとした驚きでした。タイトルは亀山訳では『地下室の記録』となっていて、これはやっぱり『地下生活者の手記』(米川正夫訳)でしょ、と思いながらも、まるで自分(ドストエフスキーではなく、今書いているこの私)のことが書かれているのじゃないかと、つい読み進んでしまいました。後期の5大作品に登場する粗削り版の人物がそこにいます。

 暗くて、偏屈で、意地っ張りで、一人よがりで、正義漢ぶり、いつも自分を正当化し、言い訳人生に徹し、いじけて、そのくせ尊大なところがあり、やたら壮大な哲学論を語りたがり、といってそれが受け入れられるどころか、はたでは滑稽のこんこんちきで、かと思えば、それなりに優しくもあり、涙もろく、努力はすれど実を結ばず、いつか馬鹿にした奴は見返してやる、報復してやるとたくらみ、不満があればひと月もふた月も口をきかず、誰が何と言おうとも笑わず、つまらん顔をして人を不快にし、怒りをはじかせるチャンスをうかがいながら人前では愛想笑いをし、声は小さくもごもごと、ちょっとした弾みで大声で喚き、怒声を浴びせ人を驚かし、実直ではあるがまともに話相手がつとまらず、人といるだけで窒息する空気に耐えきれなくなり、ついついピエロを演じて喝采を浴び、こいつはほんとはおもしれえ奴かもしれんと周りに思わせ、それが高じると俺はピエロではない、笑わせ役なんぞまっぴらだとむくれだし、そうなるともう深遠高邁な理想を語ろうとも誰も耳を貸さず、さ、どうしたどうしたと手拍子ではやし立てられてついまた踊りだし、ははは、と自分でも笑いながら哀しい涙を流し、群れからはずれてとぼとぼ歩き、ほんとは太陽のような明るさを求めているのに暗い場所にひかれ、ささいな欲望も抑えきれず、死んでもいいかと思うにしても意外と頑丈な体を持ち、病気もせず、こんなだから貧しくも長生きし、馬鹿にされ笑われ、下向いて恥と知りつつ金をせびり、それでも心の底には人一倍二倍の高潔心があり、食わず飲まずとも空気だけ吸えれば生きていけるとし、ために家族を飢えさせ、腹いせにお前らよりも俺様のほうが偉いのだと心中で周りを見下し、金も稼げず世も変えられず、まだ何とかなる、何とかするさと人の服にしがみつき、負け惜しみに自分の才なりをひけらかし偉ぶるが、とうとうどうにもならずに今度こそ死んでやる、そうこうするうち自己の抹殺に意味がないと知り、なんで自分はこうなんだと考え考えても道を誤ってきたとは思えず、まだやり返せると思っても体は衰え気は萎えてきて、渾身の一歩で地下の階段にたどり着き、服役者のごとく地下へ降りる前にひょいと肩を斜めにすかして振り返りざま、俺もここまでかと観念し、そういった自分を背中から見て、まだ生きてるぞお、生きてるからにはもう少し地下に潜り、心のバリアを深く張りめぐらし、自分を観察し人を観察し、おのれの生きた証は少しでも世界を変えることだったと信じ直し、もう一度そこに座り直して、神と地獄と革命とやらを練ってやる――。

 ―― 私は、そういう人になりたい・・・・というわけではないけれど、地下室の住人とはなんとなくこんな人で、私はもしかしたら滑稽でいつも笑い者の種になり、鬱陶しがられているのかもしれないなどと思ったりしました。ドストエフスキーの地下室のネズミ(地下の住人のことを自分でこう言っている)は、もっと思索的に深いのだろうけれども、ところどころで、なんかオレのことを書いてやがるなあ、と思ったりしたのでした。

 文学も芸術も、すぐれた作品というのは、必ずどこか自分に似た人物が登場するものです。それが最大公約数的に母体が大きくなることでより共感を生みます。それが顕在化しているかいないかは別です。潜在的に、自分って、もしかしたらこんな人間かもしれない、と思ったらもうしめたもの、作者の思うつぼなのです。

 なかなかどうして、自分なんぞ、わかりゃしないものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


金魚と水・音と色彩 アートアクアリウム ~ ありきたりとアートの化学反応 

2013-08-03 01:29:02 | 芸能・映画・文化・スポーツ

  「華魚繚乱(かぎょりょうらん)」アートアクアリウム2013

 

 不思議といえば不思議、当たり前といえば当たり前。たかが金魚。一つのものに二つ、二つのものに三つと重なり、化学反応を起こす。それがアートになる。

 日本橋三越前で「アート・アクアリウム2013」をやっている。主役は金魚、だけど金魚は脇役。生きている金魚だが、多少は高価なところというか、買えない代物ではない。風物として、金魚鉢に入れておけば誰でも鑑賞できる。江戸の八っつあんでも、貧乏作家でも畳の上に置いておけば可愛がられる金魚ではある。

 ありきたりが、アートになる。光と音と色彩と、そして形(器)。そこにひらひらと泳ぐ金魚群。数秒ごとに水槽内の光が変わる。赤、青、緑など、LED光線が水と生き物を反射させる。光がなくなると、次の光の色彩が待ち遠しくなる。

 華が開く、水があふれる、繚乱となって。色の魚が咲き乱れる、華となって・・・。

 ひらひらと、ゆらゆらと、揺れる魚。そこに和風の音が流れていく。ゆったりと―。ああ、昔の人はただただ、水に入った金魚を一匹、二匹と、眺め愛でていたのだ。それが今、光と音と色彩の中にいて、愛でられる。 

 水。泉のように、川のように、湧いて、流れる色の光る水。その中にいる金魚。 

 四季ある日本の景色を襖絵にすることで、かように変わるのだろうか。何匹もの魚が泳いで揺れている。この「水中四季絵巻」の中で遊泳している。また、水槽に敷かれた着物の紋様となじんで、刻々、色が変わるのに、水の表層で泳いでいる金魚だけが何も変わらず、時という水の中を止まっている。泳いでいるのは金魚ではなく、音と時間、この魚はそこに揺れながら静止しているようだ。そこに揺れながら、止まっているのに、景色と時だけが背後に泳いでいく。 

 こう見ると、まるで金閣の鳳凰(三島由紀夫)のようだ。鳳凰は、金閣の上で停まっているが、決して静止しているのではない。時間が羽ばたいているのだ。鳳凰が飛んでいるのではなく、時空が羽ばたいていて流れていく。 

 生きている金魚というありきたりの素材に、何かの要素が加わることで新しいものが生まれる。創造というのは、きっと、そんな高邁なところにあるのではなく、案外、身近にあるものなのだろう。だが、そのありきたりの素材に、いかに新しいものを発見して創造し、融合させるか、それが存外難しい。

 芸術も同じ。新しい人生もきっとそう。そんなことを感じながら、観てきた。