誰しも青春に忘れてきたと思うことがあるだろう。それは恋だったり、友情や家族のことだったり。中でも大きく心を動かし、ずっとひきずるもの、甘く、辛く、むごいもの、それが恋であることが多い。
グレート・ギャッツビー。
大学時代、僕は英米文学を専攻したのに、実際は英語の語学に励んだわけでもなく、英米の文学作品を読んだわけではなく、どういうわけか、サルトルやドストエフスキー、ハイデッガーやキルケゴールばかり読んで学生生活を終えてしまった。卒論は、J.ジョイスを選んだが、あの難解で有名な『ユリシーズ』を研究するわけではなかった。
フィッツジェラルドやサリンジャーなどは、フランス文学やロシア文学と比べると一段下の作家として捉えていた。ならば、ロシア文学を専攻すればよかったじゃないかと言われればそれまでだが、受験する時はたいして小説も読んでいなかったからドストエフスキーがどういう意味を持つ作家なのか知るよしもなかった。今考えてみると、フィッツジェラルドやサリンジャーなど(こういった作家を下に見るわけではないが、その時は自分の求める何かと違っていたというわけだ)、当時の自分には身の丈に合った作品だったのかもしれないなどと思ったりもしている。
グレート・ギャッツビー。
折りにふれ、感動した小説の一つとして何かにつけこの作品が載ってたりすると、いつかは読んでみたいとは思っていた。何か、青春時代に忘れてきたもののような気がしていた。今年になって、この映画が公開された。何度目かの映画化だ。ロバート・レッドフォードの『華麗なるギャッツビー』はもちろん知っている。レッドフォードは当時二枚目俳優でかつトップスター、『明日に向かって撃て』ではカッコよすぎる渋さを出していた。でも、ギャッツビーの映画を観ることもなく過ぎた。
今度は、レオナルド・ディカプリオ主演のギャッツビー。予告編の断片を観て、それが何となく、青春の自分を呼んでいるような気がして、まずは小説を読んでみた。外国の文学作品というのは翻訳でずいぶん評価が変わってしまう。20世紀米国文学の最高傑作の一つというこの小説も同じだ。最初に読んだ訳(野崎孝訳:新潮文庫)では、この小説は何だかよくわからなかった。訳文は正確なのだろうが、文学的訳文と言えるかどうか。すぐ後で、村上春樹訳(中央公論新社)で読み直した。2回目だからというわけではなく、すんなり入っていけた。村上春樹にとって『グレート・ギャッツビー』は特別の小説であって、彼自身の創作に決定的な影響を与えたと本人は書いている。それだけに、渾身の訳の『ギャッツビー』は、村上小説の一作品のようで、翻訳であることを感じさせない。
グレート・ギャッツビー。
青春というのは、華やかで、きらめいていて、そのきらめきが強すぎて眩しく、それだけ苦しくてつらく、残酷である。青春のつまずきの一つは、この残酷さにぶち当たることだ。それは、たいてい恋愛というものとの遭遇である。恋愛というのは、えてしてこの現実世界の不条理そのものである。スポーツや学問ならいくらかの才能と努力をもってして、ある程度それに見合った結果が得られる。しかし、恋愛はどうにもならないことがある。いや、その方が多い。
ギャッツビーは、戦争によって恋するデイジーと一度は別れる。もともと富裕な娘のデイジーに対して、ギャッツビーは富裕でもない。ある程度自分を虚飾してまでデイジーに近づくが、別れなければならない。ギャッツビーはデイジーを忘れることができず、数年後、巨万の富を手に入れて(遺産相続なのか、事業成功なのか、闇取引なのか判然としない)、再びデイジーの前に現れる。毎晩、豪華なパーティを催し、光を求めて虫の群れが寄ってくるように、パーティの噂を聞いてデイジーが現れるのを待つ。ただひたすら、そのためだけに巨費を費やしているのだ。
男として、このような心は誰しも持っている。去って行った女をひたすら待ち、おびき寄せる心。その手段が金であれ、名声を得ることであれ。いつか著名な実力者となった自分の名を知って、かつての女が自分の前に現れるのではないか、現れてほしい。男というのは、ずっとそういう気持ちを持ち続けているものだ。たとえ自分に妻がいても、たとえ相手に夫と子がいたとしても。
そうして再びめぐり逢えた気持ちは最高の幸せとなる。しかし、それがうまくいくか、長続きするか、現実を見れば誰でもわかる。本人はその愛が成就するものと信じている。昔も今も互いに愛し合っている、その気持ちで数年間待ち続けた結果、再会できたわけだから。デイジーもギャッツビーを再び愛し始めている、これまで今の夫を愛したことなど一度としてないと悟りながら。しかし・・・。
今の夫トムとギャッツビーが口論し、2人のやり取りにデイジーは心痛め苦しむ。その気晴らしにデイジーがギャッツビーの車を運転して車を飛ばしている時、飛び出してきた夫の愛人を轢き殺してしまう。同乗していたギャッツビーはデイジーをかばう、自分が運転していたのだと。デイジーは、事故後ギャッツビーに連絡もせずに夫と旅立つ。罪をかぶるギャッツビーはただデイジーからの連絡を待つ。2人のこれからの人生を生きるために。自宅のプールで連絡を待つ間に、轢き殺された女の夫が忍び寄り、ギャッツビーを射殺する。デイジーはギャッツビーに連絡しなかった。彼女は夫の前でとり乱し、それを見た夫は事態を察し、2人で行方をくらました。そういうところは、なんら描写がないが(小説では)、そうなるしかなかった。
やるせなく、どうにかならないかと思いながらも、そうなるしかならない、それが現実で、残酷さというものだ。こういう小説は、青春時代に読んでおくと、ずっとその後に心に残っていく場面がいくつもあるだろう。きらめきと暗さ、賢さと狡さ、幸せと不安、甘美と残酷―。
登場する人物たちは、すでに30歳を過ぎたと思える者たちだ。彼らを青春の中の人間と言えるかは別として、青春時代に忘れてきたものは、あとで取りに行っても決して取り戻せない。ギャッツビーの心は、誰の中にもある。デイジーも誰の心の中にもいる。
今回の映画は、駄作・名作、どちらの評もあるようだが、観るだけの楽しみはできたというわけだ。偉大で(グレート)、華麗なるギャッツビー。