FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

興福寺 「阿修羅」が来た ― 美しき女優の顔を持つ仏像

2009-04-29 00:41:07 | 仏像・仏教、寺・神社

阿修羅が来ている。

寺は、景観のひとつである。景観は、そのものが芸術性である。
東大寺、大仏殿から法華堂(三月堂)、戒壇院と回って下ってくると、さあっと開けたように興福寺の境内が見える。五重の塔は、細高いはずが、ゆったりと幅広く、落ち着いて建っているようすだ。東寺、薬師寺、法隆寺とも違う、それぞれの塔である。(興福寺

一度は、東大寺のほうからではなく、近鉄奈良駅のほうから歩いて来た。また違う景色で、右手に緑に広がる公園を眺め、すがすがしい胸の動悸を感じたことがある。
その興福寺に阿修羅像がある。今、創建1300年記念、上野の東京国立博物館に来ている。

広く仏像といわれるものが男の性か、女の性か、分ける必要はない。菩薩や如来などは性別を超えた存在とされている。性器も不要なので、胎内に隠されている(陰蔵相 おんぞうそう)。

とはいえ、菩薩などには、明らかに女の性(あるいは母性)を映したものと思われる像がいくつもある。この阿修羅像もそのひとつである。よく、この像のたとえの表現として、「少年とも少女ともとれるみずみずしい表情」などと言われる。私には、この阿修羅像は女性にしか見えない。

阿修羅とは、もともとは釈迦に逆らう悪神であったのが、釈迦の教えに帰依して仏道修行を始めたとされる。ほかの阿修羅像は、かなり怖い表情のものがある。おそらく、帰依する前の阿修羅なのだろう。阿修羅は菩薩ではない。しかし、興福寺のこの像は、美しい。この像を見るたびに、私はある女優を思い出してしまう。日本の女優でも最も美しいと思う人を、この顔に反映してしまうのだ。

夏目雅子さん。一定の年齢以上の人なら、この女優のことを知らない人はいない。二十代にして白血病で逝ってしまった。あの美しい顔で、眉を困ったようにひそめて、おこった表情の演技をした時の顔が忘れられない。それが、あの阿修羅の顔なのだ。

ほぼ等身大の体つきは細い。三面六臂(三つの顔と6本の腕)の異形の形だが、不自然ではない。女性の豊満さはないが、繊細さがある。正面の顔についている両側面の顔は、これは男の顔だ。仏像を見るとき、信仰の対象としてより、まず美術品や芸術の対象として入るのはやむをえない。それも、方便(仏の道に導く方法)である。

菩薩以外では、これほど女性を思わせる像はない。
阿修羅。








元気がなくなった『坊ちゃん』 ― 漱石ふたたび、みたび

2009-04-22 00:27:38 | 文学・絵画・芸術
『坊ちゃん』は、私が中学の頃は快活でした。二度目、三度目の漱石は、だんだん深刻になりました。

中学に入って、すぐ『坊ちゃん』を読みました。
―― 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。 
出だしから一気に読んで、主人公の「おれ」に快哉を叫ぶ。この時分から、書くことに少なからぬ快感を味わうようになりました。『坊ちゃん』の「おれ」の書き方をまねて、小説を書き散らし、級友に回し読みしてもらったものです。

あの頃読んだ『坊ちゃん』は、痛快でした。こんな小説があるものか。それまで、教科書で芥川とか鴎外、太宰などを読んでいたのが、まるきり違っていました。

その後、大人になって読んだ漱石は、『こころ』であり、『三四郎』であり、『それから』、『門』、『草枕』など。そして文学史上でも評価が高い、代表作ともいえる『明暗』。読むたびに、漱石は深刻になりました。漱石本人も、英国留学でノイローゼになったり、帰国してからも病気がちで、精神的に孤独な生活を送っていました。

ところで、『坊ちゃん』は、今回で2度目か、3度目。漱石のほかの作品も読んでいるので、何回も読んでいる錯覚に陥ります。この作品は、私自身がものを書く原点となった作品です。久しぶりに読んでみると、確かに面白い。でも、なぜか今回は、「やがて哀しき・・・」という感じになります。

『人間失格』(太宰治)、『仮面の告白』(三島由紀夫)には、主人公の幼少期の自意識の過剰さと、親の愛情からはぐれた、少しねじれた自我の強さを感じたものです。その点で、この2作品は共通しているように思えます。ここに『坊ちゃん』を並べてみたくなりました。「おれ」も、親の愛情から見放された偏屈さが見られ、それが強がりとなり、漱石一流の文体で「痛快さ」として読めたのです。

中学生の頃の私には、文体の痛快さしか見えず、「おれ」の孤独感や哀切さが分からなかったのでした。「おれ」を愛してくれたのは、下女の婆や「清(きよ)」だけだったなんて、ちょっと哀しすぎやしないか。赴任1ヵ月で、暴行事件にはめられ、教師をクビになって松山から東京に帰った無鉄砲な「おれ」。その後はおとなしく間借りをし、技士の職に甘んじている。よほど、地方の生活がいやでいやで、やけっぱちでいたのか。孤独と寂しさ、世間から自分を隔離する偏屈さによる反発なのか。

昇給を「正義」のために断ったり、「クビ」を覚悟で教頭(赤シャツ)に談判し、挙句は暴れたり。今の時代から見ると、危なっかしくて見ていられない。たちまち職を失ってしまう。そんな無茶を通した者が、ある時期から元気でなくなったりする。それは嫌な意味、大人になったのだろうか。世間では通らない我を引っ込めてしまったのか。
それは、「坊ちゃん=おれ」だけでなく、読む自分もそうで、少し哀切を感じたりします。

21世紀型バブルはまた、いつ来て、いつ弾けるか

2009-04-14 07:17:26 | 経済・金融・ビジネス
サブプライムローン問題に関する本はいくつか出ていて、読んでもみました。新聞でも雑誌でも特集記事が出ていますから、一般的なことは分かります。しかし、この問題がバブルの本質に関わっていると深く踏み込んだものはあまりないようです。

その中で、半ば定番になりつつある本があります。『すべての経済はバブルに通じる』(小幡積・著 光文社新書)。数カ月前に読んだものです。読み返していて、この著者は本当に、ものごとの本質が分かっている人だなと思います。難しい内容をより難しく、簡単なことをもっと難しく、ちょっとわかりにくいことをそれなりに分かりにくく、教科書的なことは教科書のように書く“頭のいい人”はいっぱいいます。えてして、そういう著者は、引用の引用で、元ネタ本をいくつか手元に置いているのでしょう。しかし、小幡氏のこの本を読んでいくと、あたかも手に取って調査し、体験し、自明のように自説が展開されていきます。

おかげで、多少はバブルの本質的なことについて分かってきました。今回のサブプライムローン問題は、アメリカ発祥のバブルです。みんなが皆、バブルと分かっていて、バブルのはしごから下りられなかったのです。特に、その道のプロ(金融業界)ほど。

思えば、1980年代の日本で最初のバブルも異常でした。こんなことが長く続くはずがないと思いつつも、皆が夢に浮かれていたのです。いや、浮かれているふりをしていたのです。いつ、泡が弾けるかびくびくしながらも、まだ大丈夫、まだ大丈夫、少なくとも自分がいい目を見るまでは・・・、とバブルが続くのを願い、踊っていました。

21世紀型バブルは、どうやって避けられるか

最初のバブルの後も、ITバブル、そして今回の住宅バブルと、バブルは繰り返されてきました。これからも形を変えたバブルが繰り返されるでしょう。小幡氏は、今後起こりうる21世紀型のバブルを「キャンサー型キャピタリズム」における「リスクテイクバブル」と名づけています。つまり、金融資本が自己増殖していく癌(キャンサー)ようなバブル、サブプライムローンの証券化に見られるように、金融工学を応用して進んでリスクを取っていく(レバレッジ型の)バブルです。

この21世紀型バブルは、まだ始まったばかりだと小幡氏は告げています。これからも、実体経済に大きな悪影響を及ぼすバブルは起こりうると警鐘を鳴らしています。それに対して、私たちはバブル崩壊のこの激しい苦悶から逃れることはできないのでしょうか。それについて著者は明言してません。

解決法は、この1~2年、アメリカはじめ世界、日本でもどういうことが起こり、どういう行動をとったかを検証してみることで、あることが見出せるかもしれません。住宅価格高騰、サブプライムローンでの借入れ、金融機関によるローンの証券化、こうした流れの現象は一個人では止められません。しかし、この現象下では、所得に合わないローンは組まない、分かりにくい証券は無理に買わない、という当事者としての最低限の経済行動は取れたかもしれません。ただ・・・、バブルがバブルと分かっていて、乗り遅れるまいという衝動的な行動となると、なかなか止められるものではありません。




井上ひさしの作文教室 ― 文章は書いてみなければわからない

2009-04-08 00:49:23 | 文学・絵画・芸術
文章読本の類はよく読むほうです。「文章読本」「文章入門」「文章作法」「文章教室」「作文教室」「名文入門」「論文入門」「日本語入門」など、タイトルは違えど、つい読んでしまいます。

谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、野間宏、中村真一郎、井上ひさし、丸谷才一、吉行淳之介など、一時代を築いた作家だけでなく、最近では若い作家でもこの類の本がいくつか出ています。

これらの本を読んだからといって、誰もが名文が書けたり、名作が書けたりするものではありません。読まないよりはましですが、こういう本は自分の好きな作家がどういう感じで小説を書いているのかな、という興味程度で読むのが楽しいのです。本当に文章が上手になりたければ、書くしかないのです。できれば、毎日書く。少しでもいいから、記録や日記風、手紙にエッセイ風、物語とか小説風、何でもいいから書く。

こう言うと、もう、毎日書いている、と言われそうです。
― 毎日、友達とケータイでメールしてるもん。
携帯ブログとか、携帯小説とかもありますからね。でも、ちょっと言わせてもらえば、「今、何してる?」、のような会話の単語を並べるだけのものは文章とは言えないでしょう。
― だから? そんなの書けなくても、べつに困らないもん。


井上ひさし氏が絶賛、「奇跡」の作文

じつは、今回書きたかったことは、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫 10年ほど前の刊行)のことです。井上ひさし氏の『自家製 文章読本』、『私家版 日本語文法』(いずれも新潮文庫)は、かなり前に読んでいました。たまたま、ブックオフをぶらついて100円で上の『作文教室』の本を買って、最近読んだのです。

人は、生涯に一作は感動的な作品を書くことができるといいます。それは、自分が生きてきたことを書くことです。その人が生きてきたことは、その人しか書けない。それを真摯に書くことで、感動的な作品になるのです。どんな作家でも、本人に代わって本当に生きてきた感動を書くことはできません。先ほどの『作文教室』の本を読んで、本当にそう思いました。

井上氏がボランティアで開いた作文教室に参加した人たちは、年齢も職業も住むところもばらばら。人に読ませるための、ちゃんとした文章を書くのは初めての人たちばかりです。その人たちが、井上氏の作文授業を3時限受けただけで、最後に400字という短い課題を与えられます。この本には、井上氏の授業といっしょに(これも、それなりに面白い)、課題の作文が20編ほど載っています。

これらの作品が、みなすごいのです。井上氏も絶賛、「奇跡」と言っています。お世辞でないことは、実際に読んでみれば分かります。思わず考え込まされたり、涙を誘う作品もあります。これだけの短い文字数、限られた時間で、自分だったらとても書けないな、とてもかなわないなあ、と思いました。

文章の練習をそれほどしてこなかった人たちで、これだけの作品が書ける。それだけ真剣に生きている。私など、ブログの書き手といっても、まったくたいしたものではなく、あんまり人に、「コラムを書いているので、読んでみてください」など、とても言えたものではありません。





米国大統領 ― 国家リーダーの報酬はいくらか

2009-04-02 06:37:32 | 政治・社会・歴史
金融エリートたちはもらいすぎだ

AIGの賞与について、全米のみならず、日本でも怒っている。国が救済したのに、破綻させた張本人たちに巨額のボーナスが支払われていたからです。総額で1億6500万ドル(1ドル100円で単純換算しても165億円)が約400人に、最高では一人650万ドル(6億5000万円)もが支給されました。その後、返還する人も出たり、90%課税法案が可決したりと進展はありますが、オバマ大統領も怒り心頭、税金を払っている失業者たちはもっと激怒してました。

ウォール街の金融エリートたちの報酬はべらぼうに高い。自動車業界では、破綻しかけたGMのトップがアメリカ議会で詰め寄られ、報酬を1ドルにしたというコミックみたいなことがありました。オバマ大統領はリーマン・ブラザーズなど公的資金を受ける金融機関の経営者の報酬を50万ドル(5000万円)に制限したばかりでした。
そこに、AIGの巨額賞与の支給が発覚したわけです。


アメリカ大統領の報酬

オバマ大統領の報酬は40万ドル(4000万円)。その安さに驚いた人も多いでしょう。日本の首相ですら、それよりもちょっとばかり多いのです。これくらいの報酬は、中小企業の経営者、いや大企業の役職員クラスでももらっている人はざらにいます。この程度で、核の発射ボタンを預けているのかと思うと、事情の知らない人はゾッとするでしょう。AIGへの怒りは、高額報酬の金融エリートたちへのやっかみか、と思えたりもします。お金の誘惑で核の発射ボタンを押されたりしたら、たまったものではない、と。

でも、心配はいりません。米国大統領には、絶対的権限が持たされているのです。軍、大統領府、閣僚、政治任用者のすべての任命権を統括する力を持っています。権力は、お金に優るものです。もちろん、正しく使われるための権力であることは言うまでもありません。

ついでに言えば、お金の面でも、大統領経験者には年金として一生困らないほどの金額が生涯支給されます。引退後は講演料、著作権料(引退した大統領はたいてい回顧録を出します)など、半端な金額ではないそうです。だから、お金のことで大統領職が誘惑に動かされるなどと、心配することはまったくありません。

お金よりも、世界平和のために行使できる全権限、そして世界の政治家のトップに立つという自負と名誉が彼らを支えているのでしょう。

わが日本の総理大臣も政界のトップとして、米国大統領に劣らぬ報酬を得ています。それなりの権限と自負と名誉を感じるはずです。なのに、どこが違うのでしょう。権限はあってもないようだし、自負もなければ恥じらいもない。まさか、現職の報酬だけで比較して、自分のほうが米国大統領より多くもらっているなどという“名誉”に満足しているのではないでしょうね。