高徳院 鎌倉の大仏(5月)
鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな (与謝野晶子)
あまりにも、あまりにも有名な大仏さま。
大仏といえば、鎌倉の大仏と奈良の大仏。どちらも何度か見に行ってますが、奈良東大寺の大仏さまのほうがお顔が端正で、威厳があって、大仏殿の中にいるというそのことで荘厳さを感じていました。太い柱や蓮華の台座、光り輝く安寧の場所へと続く天蓋、人々が願ってやまない極楽への強い想いが現されています。大仏さま(盧舎那仏)の頭上に広がる天の奥の奥に、目もくらやむ荘厳な世界がある―。奈良の大仏さまの前に立つと、その光景がいつも心の中に繰り広げられていきます。
ただ、ちょっと四角っぽいお顔が、どうもロボットみたいで、それが気になるといえば気になる点でした(今のお顔は兵火で2度も焼かれた後に造形されたもので、最初は円かったそうです)。でも、頭でっかちの小学校学級委員タイプに見える、鎌倉の大仏さまよりはずっと好きでした。
かたや、その鎌倉高徳院の大仏さまですが、久しぶりに行ってきました。与謝野晶子が「美男におわす」と詠んだという。前々から「どこが美男?」と晶子に問いかけていました。文学者というのは、作品を詠む(書く、創る)ために、自分の中で対象を美化しがちで(だから、恋をしやすい)、この歌もそうなんだなと思っていました。
このたび行って見て、晶子の歌にようやく納得できました。確かに「美男におわす」のです。こういう審美眼(あるいは宗教観)というのは、年齢によって変わってくるものなのでしょうか。人工的でなく、仏教伝来の頃から見られる仏さまと同じお顔。しかも、こちらの大仏さまは、建立当時変わらずの造形だそうです(晶子のいう釈迦牟尼は誤りで阿弥陀如来)。本堂は波に流されて坐像は雨ざらしですが、これもまたいい。
季節折々の風景、山や樹や花や空や雲までも、色とりどりの移り変わりに映えて、何ともいえない、自然に融けた開放感なのです。すぐそばでじっと坐っていると、一緒に呼吸してくれている、自分のためにいてくれる、安心する、落ち着く、ずっとそこにいてもいい、護られている、そんな感じがしてきます。仏さまというのは、もともと心の中にこうして大きくあまねく、人とともにいるものなんだなあ、と改めて思えてきます。
奈良の荘厳さももちろん好きですが、本来仏さまというのは、自然、心、空、宇宙と一緒に、そのまま開けっぴろげに「美男におわす」のだなと、しみじみ感じました。ありがたいこころのひとときでした。