FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

アンナ・カレーニナ ~ 愛と破滅と金

2011-10-30 15:36:08 | 文学・絵画・芸術

 

今度、改めて『アンナ・カレーニナ』を読み返しました(以前、途中断念したことがあります)。(『アンナとスカーレット~ヴィヴィアン・リー 悲劇の美貌』

 

この小説は、タイトルどおりアンナ・カレーニナという女性(上流階級婦人)が主人公の物語かというと、それは違うということが分かりました。アンナの恋愛(不倫)物語は全編の4割ほどです。トルストイがほんとうに描きたかったのは、もう一人の主人公、青年農場主リョーヴィンです。アンナとリョーヴィンは、途中から親族関係(アンナの義理の姉の妹とリョーヴィンが結婚)になるのですが、作品中ではほとんど接触しません(1回きり)

 

このアンナとリョーヴィンを中心にした物語が並行して語られていきます。読んでいて、アンナとヴロンスキーの物語は確かに面白いし、起伏あり展開も早く変化に富み、劇的です。特にアンナの変貌ぶり ― 最初の登場での気品、美貌、才気、華麗な貴婦人という肖像から物語終焉に向かう中での猜疑心、嫉妬、自己愛、偏屈、偏執に取りつかれて醜悪な死で終わりを遂げるまで ― は、その人格描写から心理描写まではほんとうに見事です。

 

アンナと愛人ヴロンスキーの恋物語だけを抜き出しても十分に小説として成り立ちますし、面白い作品となったでしょう。トルストイも最初は、実際に起きたある婦人の鉄道轢死事件を目撃して創作意欲を駆られたと書かれていますから、当初はアンナを中心とした作品を書き上げるつもりだったのでしょう。

 

しかし、『アンナ・カレーニナ』という小説を不朽の名作としたのは、皮肉にもアンナを本当の主人公としなかったことです。映画やドラマでは、もう一人の人物リョーヴィンの物語はほとんど省かれています。この青年を主人公にした映画では、映像作品にならないからです。『アンナ・カレーニナ』という作品の進行の原動力となっているのは、確かにアンナを中心にした恋愛(不倫)物語です。しかし、それを取り巻き、作品を重層にし、かつ重厚な世界としているのがリョーヴィンの生です。

 

リョーヴィンの心の宇宙、それは青年らしい純愛・結婚もありますが、主に生きるための哲学や信仰、農業経営、農奴制問題などを思索し問い詰めていく展開となっています。若者らしいほのぼのとした恋愛・結婚も読んでいて楽しいものですが、アンナのような強烈な恋愛劇から見れば、どうしてもドラマになりにくい。

 

トルストイは、最初はアンナの物語を書いていくうちに、自分を鏡に映した青年を登場させ、生きることのさまざまな自問自答をこのリョーヴィンという青年に重ねて描きたくなったのでしょう。そして、青年の内省的な物語では展開しにくいし、読者も飽きてしまうことを恐れて、アンナの物語をからませて劇的な方向へと進めて行ったのではないでしょうか。

 

愛に絶望したアンナが鉄道自殺した後日談は、傷心の恋愛相手ヴロンスキーが死を覚悟して戦地に赴くことに触れただけで、周囲の人物はほとんど彼女の自殺に触れていない。まるで、忘れられた存在のように。作者は、アンナが死んでからは全くアンナに関心がなくなったように、残り数十ページもリョーヴィンの内面的な成長過程の描写を続けています。

 

私としては、アンナ・カレーニナという女性にあまり共感が持てませんでした。物語自体は面白かったのですが、どちらかといえばちょっとした不快感も残りました。堅苦しいといえばいえるが善良である高級官僚の夫、愛情は失せているが家庭と妻と子供を守っている世俗的な夫、この夫を捨てて若い男を愛した妻。社交界の地位も我が子も捨て、一緒に駆け落ちした(当時のロシアにこの言葉があったかどうか)相手を愛し続けようとした女。しかし、女が唯一、自分の存在をつなげていけるのは、その男との愛しかない。もしこの男に捨てられたら、この相手の愛が自分に対して少しでも薄れてしまったら、もう自分の戻るところはない・・・。そこから、アンナは破滅していく。

 

しかし、それは自業自得だと思えてしまうのです。ほかの男を愛して息子を捨てておきながら我が子に会いたい、息子とは縁を切れないから離婚手続きはしない、だけど駆け落ちした男とはずっと愛で結ばれていたい・・・。「愛」というと、それは素晴らしい言葉だけれど、それは迷妄の言葉のように聞こえます。若い未婚の男女のことならいざしらず、愛する幼い子と不器用に家庭を守ろうとしている夫、それを捨てたなら、すべてきっぱり捨てる、捨てきれないなら恋愛をあきらめる。・・・と思うのですが、それではドラマになりませんね。

 

平凡だけど、小さな不満は我慢してそれなりに幸せを感じて生きていく、それが小市民的な幸福の家庭でしょうか。義理の姉ドリーのように。一ついえることは、アンナは今の夫から離れても、相手の若い男、ヴロンスキーは富豪といえずとも十分な資力があって、生活には困らないとわかっていたということです。いくら愛だけで生きるといっても、これからの生活がカツカツで田舎暮らしでは、そこは踏みとどまるでしょうに、と思います(現に、社交界から離れたアンナは孤独心から気が滅入ってしまう)。今の時代ならさしづめ、慰謝料や年金のことなどを考えると、不倫・離婚もできないというところでしょうか。

「諸君、こんな恋愛なんかしたら、結局破滅するだけですぞ」―、最初からトルストイはそう言いたかったのかも知れません。

 

アンナ・カレーニナという存在は何だったのか。読んでいてそんな感じもします。アンナとリョーヴィンの物語、この2つを同時に描く方法は、芸術的に成功したのでしょうか。賛否はありますが、不朽の名作と言われて残っていることは事実です。

→ 筆者の関連ホームページ

 


『ブラック・スワン』 二重人格と分身 ~ ナタリー・ポートマン

2011-10-09 21:56:35 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

経済で「ブラック・スワン」といえば、突然起こりうるリスクの発現のようなことをいいます。たとえば、「100年に1度」のリーマン・ショックとか。ちょうど、何万羽の白鳥の中に、突然変異で現れた黒い白鳥のように。

 

映画『ブラック・スワン』は、文字通り「黒い白鳥」のこと。チャイコフスキー・バレー劇『白鳥の湖』における白鳥に対する黒鳥。この映画での『白鳥の湖』は、魔法で白鳥にされた恋人が元の姿に戻り王子の愛を得ようとするまでの物語です。白鳥が元の姿に戻るためには真実の愛を得なければならない。しかし、黒鳥が王子をたぶらかし王子の愛を奪い取ってしまい、絶望した恋人の白鳥は自ら命を絶つ。この白鳥と黒鳥は同じバレリーナが演じるのです。

 

その主役を射止めたバレリーナの心の葛藤を描くストーリーです。清純なバレリーナ・ニノ(ナタリー・ポートマン)は清らかで美しい白鳥を演じることはできても、官能的で男をたぶらかす黒鳥を、しかも白鳥との二役で演じる(踊る)ことがとてもできそうにないという絶望感と精神的な相克から人格が崩壊していきます。

 

今、「精神的な相克」(あるいは「超克」とも)などと難しい言葉で書きましたが、これは単に「プレッシャー」という言葉では表現しづらく、むしろ哲学的あるいは精神分析学的な用語で言った方がふさわしいからです。あるべき自分を追求して表現するためには、今ある自分を抹殺しなければならない。極端にいけば、これは自殺という形になります。映画の終盤でも、ニノは幻覚から相手を殺すつもりで自分を「殺して」しまいます。

 

今の自分を乗り越えるためには、それだけすさまじい精神的な闘いがあるのです。この闘いはしばしば肉体を傷つけることを伴います。そこから逃れるためには、闘わなければすむ。しかし闘わなければ、それはそれで自己の滅びを意味する。自分という他人と闘い勝つためにはその他人を殺さなければならない。それは自分を傷つけることと変わらない。自分の中の他人を殺してこそ、新しい自分が生まれる。

 

芸術や学問、スポーツでは、こうした壮絶な精神あるいは肉体との闘いが常にあるのでしょう。これが新しい自分を創造するということなのです。この映画では、そうした主人公の精神の移ろいがよく描写されています。ナタリー・ポートマンの清純な女性から官能的な女に変貌する(要するに一皮むける)演技も見ものです。

 

付け加えますと、この映画を日本では「サスペンス」と形容していることにどうも違和感があります。そんな形容はなくても、この映画は興業的に成功したでしょうし、ナタリー・ポートマンの演技も素晴らしく、アカデミー主演女優賞を取ったのもうなずけます。主人公の精神的な変貌の過程を実感できれば、いかにサスペンスという言葉が軽いかがわかります。

 

たびたび、主人公ニノは幻覚を見るようになります。しかも自分の分身を。これは精神分析学的には「ドッペルゲンガー」といわれるものです。小説ではドストエフスキーの『分身』という作品があります。自分とまったく同じ人間、同じ顔、同じ声、同じ背格好で、同じ町にいて、しかも同じ仕事をしている。自分と同じ人間をたびたび見かけ、その人間の正体を暴こうとするのですが、いかんせん、相手は自分自身ですから、どうにもこうにも・・・。こういう分身を見た者はやがて死を迎えるなどといわれたりしています。

 

単に比喩的な意味で、旧い自分を乗り越えるためにその自分を「殺す」ということにとらわれると、それこそ安っぽい「サスペンス」になります。実体験的にこの映画を少しでも感じることができれば、けっこう面白い映画です。