井上ひさしさんが4月9日に亡くなられました。
私は、井上さんの作品をそれほど多く読んでいませんが、『吉里吉里人』と『自家製 文章読本』『私家版 日本語文法』は熱心に読みました。このうちの1冊でも読んでみれば分かると思いますが、井上さんは相当な博識で勉強家であることが分かります。そして、ひじょうにまじめな人です。
テレビなどに出ることもあったので、よく知られている通り、飄々として気さくで、どこかとぼけたような風体でしたが、作品を読むととてもまじめに、奥深く、そして面白く書かれています。
『吉里吉里人』は大作で、東北のひとつの村が独立国家の宣言をするという、途方もなく、ちょっと馬鹿にしたような作品ですが、相当長い構想(10年以上)と念入りな調査により書かれたといわれます。構想もさることながら、井上氏独自の文体のあやつりもまたすごいものです。もう、だいぶ前に読んだのですが、面白く書くということは、大変な技量が必要だと感じました。私も少し面白く書いてみようかと思うときは、知らずに井上氏の文体を思い浮かべています。しかし、中身も技量もないのにおかしく書こうとすると、まったく読むに耐えません。力もないのにつまらない落語をやっているようなものです。
それはそうと、井上ひさしさんといえば、『ひょっこりひょうたん島』です。小学校から中学の頃、夕方からよく見ていました。その後何度かリメイク版で再放送されましたし、今でも熱烈な愛好家たちがいるそうです。最近ではモーニング娘。にも主題歌を歌われたようです。話も面白かったですが、登場人物たちの一人一人が本当に個性的でした(声優も個性的な人たちばかりです)。島が噴火してひょうたん島となり、島ごと漂流していく。いつ漂流生活から脱出できるかわからないのに、島の住民(特に子どもたち)は苦ともせず、希望を捨てない。なんとなく、そんな明るい住民たちの希望に、今思うと元気づけられていたのかもしれません。
生前、井上ひさしさんは、“人はみんないつも苦しく生きている、笑いはその苦しみを少しでも和らげ、いっとき苦しみを忘れさせ、そしてまた生きようと元気にさせるものである”というようなことをテレビのインタビューで言っていました。そして面白いことをまじめに、深く真剣に追求していくのだということも。面白いことを書くことは、本当に難しいことだと思います。もっと、井上さんの小説や戯曲を読んでみたいと思います。
『ひょっこりひょうたん島』の主題歌です。今でも自然と口に浮かんできます。
波を
ちゃぷちゃぷ ちゃぷちゃぷ
かきわけて
(ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ)
雲を
すいすい すいすい
追い抜いて
(すい すい すい)
ひょうたん島は どこへ行く
ぼくらを乗せて どこへ行く
(う~~ う~~)
丸い地球の 水平線に
何かがきっと 待っている
苦しいことも あるだろさ
悲しいことも あるだろさ
だけどぼくらは くじけない
泣くのはいやだ 笑っちゃおう
進め
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
もう10年くらい前に『金持ち父さん 貧乏父さん』『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドランド』(ロバート・キヨサキ著・筑摩書房)を読みました。当時はなるほどと、けっこう面白く読んで共感したりしましたが、それまででした。
最近、『金持ち父さんの起業する前に読む本』『金持ち父さんの投資ガイド入門編』『金持ち父さんの投資ガイド上級編』(いずれもロバート・キヨサキ著・筑摩書房)を立て続けに読みました。このたび会社を辞めることになり、次のステップとして独立を考えていたからです。
幸いというか独立活動中、次の会社が決まり、契約という形で働くことになりました。ただ、今よりだいぶ収入が落ちてしまいます。これを単に収入が減って落ちぶれたと考えるか、それとも独立して早くも固定収入が得られた、今後もほかの契約を取って収入を増やしていくのに幸先がよいと考えるか、この違いはかなり大きいものです。
誰だって、「貧乏父さん」になるより「金持ち父さん」のほうがいいに決まっています。老後、カツカツの生活で不安の中で暮らしていくのかと想像するだけでゾッとします。そういう時に「金持ち父さんシリーズ」を読んだのです。安易に「金持ち」という言葉を使うことに抵抗を感じる人もいますが、本の中身は起業家、投資家になるための正当な道を説いています。
内容的には以前読んだ2書と大きく変わるものではありません。しかし今回読んだ時は、その現実味というか、真剣味がまるで違います。まさに起業しなくてはいけないし、「貧乏」にはなりたくない。人は生まれつき、よほどの財産を持っている人は別として、たいていは何もしないでいると、「貧乏」になっていきます。当たり前のことです。収入がないのに支出だけが増えていくからです。「金持ち」になるためにはたいへんな努力と行動が必要だし、誰でもが「金持ち」になれるわけではないのは、現実を見れば分かることです。
本によれば年収が10億円以上ないと「金持ち」とは言わないようです。せいぜい「ミニミニプチプチ金持ち」を目指そうと思います。そこで本のシリーズをヒントに自分自身のプロジェクトのポイントを考えてみました。自分の立場に当てはめて自分自身で考え、自分自身の言葉で書くことが大事です。
多くの人が職を失っています。多くの人が老後の生活に対して不安を抱いています。厳しい現実かもしれませんが諦めて何もしなければ、そこで止まってしまいます。この間の冬季オリンピックを見て感じたこと、それは、諦めて練習しなくなればメダルどころか順位さえ付かない。「諦めなければ夢は叶う」ほど現実は甘くありませんが、少なくても「諦めなければ、道は続く」。諦めれば、そこで道は途絶えます。
自分のためのプロジェクト7カ条
1.チームをつくること。
2.期限の目標をたてること。
3.得意分野をビジネスに結びつけること。
4.アイデアを出すこと。
5.不安からは恐怖以外なにも生まれないと肝に銘じること。(針の穴ほどでも希望があるなら、そこを進むしかない。)
6.ビジネスをとにかく始めること。
7.お金がない時こそ、自分のやりたいことに投資すること(アイデア、時間、生活、消費、働き方、仲間作り、勉強など、すべてやりたい方向につぎ込むこと)。
ついでに書いておきますと、人生はお金がすべてはありません(青臭い言い方ですけど)。でも、必要なお金がないと生活も精神も悲惨になります。人生を豊かにするためには「金持ち父さん」になるためのプロセスが必要です。お金がたくさんあれば幸福になるとは限りませんが、お金に余裕があれば不幸になる要素を排除することが可能です。
リストラされた方、失業している方、老後を前に収入が落ちて不安を抱いている人、共にがんばりましょう。
Mail:
t-nogu@mtd.biglobe.ne.jp
最近、『金持ち父さんの起業する前に読む本』『金持ち父さんの投資ガイド入門編』『金持ち父さんの投資ガイド上級編』(いずれもロバート・キヨサキ著・筑摩書房)を立て続けに読みました。このたび会社を辞めることになり、次のステップとして独立を考えていたからです。
幸いというか独立活動中、次の会社が決まり、契約という形で働くことになりました。ただ、今よりだいぶ収入が落ちてしまいます。これを単に収入が減って落ちぶれたと考えるか、それとも独立して早くも固定収入が得られた、今後もほかの契約を取って収入を増やしていくのに幸先がよいと考えるか、この違いはかなり大きいものです。
誰だって、「貧乏父さん」になるより「金持ち父さん」のほうがいいに決まっています。老後、カツカツの生活で不安の中で暮らしていくのかと想像するだけでゾッとします。そういう時に「金持ち父さんシリーズ」を読んだのです。安易に「金持ち」という言葉を使うことに抵抗を感じる人もいますが、本の中身は起業家、投資家になるための正当な道を説いています。
内容的には以前読んだ2書と大きく変わるものではありません。しかし今回読んだ時は、その現実味というか、真剣味がまるで違います。まさに起業しなくてはいけないし、「貧乏」にはなりたくない。人は生まれつき、よほどの財産を持っている人は別として、たいていは何もしないでいると、「貧乏」になっていきます。当たり前のことです。収入がないのに支出だけが増えていくからです。「金持ち」になるためにはたいへんな努力と行動が必要だし、誰でもが「金持ち」になれるわけではないのは、現実を見れば分かることです。
本によれば年収が10億円以上ないと「金持ち」とは言わないようです。せいぜい「ミニミニプチプチ金持ち」を目指そうと思います。そこで本のシリーズをヒントに自分自身のプロジェクトのポイントを考えてみました。自分の立場に当てはめて自分自身で考え、自分自身の言葉で書くことが大事です。
多くの人が職を失っています。多くの人が老後の生活に対して不安を抱いています。厳しい現実かもしれませんが諦めて何もしなければ、そこで止まってしまいます。この間の冬季オリンピックを見て感じたこと、それは、諦めて練習しなくなればメダルどころか順位さえ付かない。「諦めなければ夢は叶う」ほど現実は甘くありませんが、少なくても「諦めなければ、道は続く」。諦めれば、そこで道は途絶えます。
自分のためのプロジェクト7カ条
1.チームをつくること。
2.期限の目標をたてること。
3.得意分野をビジネスに結びつけること。
4.アイデアを出すこと。
5.不安からは恐怖以外なにも生まれないと肝に銘じること。(針の穴ほどでも希望があるなら、そこを進むしかない。)
6.ビジネスをとにかく始めること。
7.お金がない時こそ、自分のやりたいことに投資すること(アイデア、時間、生活、消費、働き方、仲間作り、勉強など、すべてやりたい方向につぎ込むこと)。
ついでに書いておきますと、人生はお金がすべてはありません(青臭い言い方ですけど)。でも、必要なお金がないと生活も精神も悲惨になります。人生を豊かにするためには「金持ち父さん」になるためのプロセスが必要です。お金がたくさんあれば幸福になるとは限りませんが、お金に余裕があれば不幸になる要素を排除することが可能です。
リストラされた方、失業している方、老後を前に収入が落ちて不安を抱いている人、共にがんばりましょう。
Mail:
t-nogu@mtd.biglobe.ne.jp
「松林図屏風」左隻
「松林図屏風」右隻
金碧から次第に金と色彩が抜けて行き、最後の最後で水墨の最高傑作『松林図(しょうりんず)』にたどりつく。
東京国立博物館に開館時刻10時過ぎに来たばかりというのに、もう1列4人ずつの行列が五重、六重にうねっていて、最後尾から入館口まで50分もかかるという。1時間くらいの待ちなら初詣でもあるし、それほど苦でもないので並ぶとする。
中に入っても、人である。こちらは整然とした列ではない。展示ケース前に並ぶ人を追い抜くのはいけないが、後方の立ち位置ならいくらでも人を追い抜いていく。一点ずつゆっくり見ていきたいのだが、休日の、しかも最終日の美術館はそれを許してくれない。
仏画から移ってきて、金碧の障壁画『花鳥図(かちょうず)』『楓図(かえでず)』(国宝)『松に秋草図(あきくさず)』の前に立つと、さすがだなと思う。しかし、どういうわけか、等伯の金碧画は実物を前にすると褪せて見える。印刷物だと、金箔と緑の色が鮮やかに映えて、ぜひとも実物の前で浸り切りたいと思うのだが、ちょっと拍子抜けした。等伯の屏風画は少し離れて遠くから全体を見るのがいい。だが、人の黒い頭が絵の下半分を隠してしまい、それも叶わない。
金と色彩が抜けていき、白黒、陰影、濃淡の世界が現れてくる。この世界もいいが、やはり、色があったほうがいいかなと思っていると、最後に現れてくるものの予感がそこまできているのを感じる。
展示の最後に、最高傑作と言われる『松林図(しょうりんず)屏風』(国宝)。この屏風図は不思議である。色彩がないのに、現実的な色彩があるように錯覚する。そこに自分がいると幻覚する。
松の遠近、林間のもや、奥行き、まったく不思議な空間である。下絵図とも言われているが、これはこれで完成図といっていい。墨には色がついていない、しかし墨の色が滲み出ている。墨に奥行きがある、見る人はその中に入り込んで迷い込んでしまう。
等伯は、金碧画の背景を金で埋めた。それは現実世界にはない光景だが、極楽画として見れば、空間が金に映える世界は存在するのだろう。
等伯は、水墨画の背景を空白で埋めた。そこには金箔を埋め込んだものはない。ただ松の林を重ね描くだけで、そこに現実的にもやの世界を存在させたのだ。
見ている私はそこに入って行き、その不思議さを歩いて行き、やがて消えて行く。
(井の頭公園 4月2日)
毎年、花見に行きます。正確には、「花見」を見に行きます。桜の花を見に行くのですが、同時に花見に来ている人々を見るのが好きです。そこに来ている人たちを見ていると、毎年、自分は何かを始めなければならないと思います。桜の花が、自分を見ている気がするのです。わずか1週間ほどの期間、人は花を見てうかれます。桜は、自分は見られながら、人々が生きるのを見ています。
古来、桜は人々に見られ続けてきました。天皇から貴族、商人も庶民も。見られ続けるのが使命であるかのように。そして、そのつとめが終わる頃、雪のように花を散らします。潔く、切なく。
桜はまだ満開でした。今年も吉祥寺の井の頭公園に花と「花見」を見に行き、散策してきました。カメラマンがカメラを向けるように、画家が絵筆でスケッチするように、私もその場で1節、ペンでスケッチしてきました。
―― 「池の岸側から横に斜めにうねり絡まリ合うように、枝々が、時にはまっすぐに、陽の陰を受けて暗く伸びている。空は曇りをともないつつも、半ば明るく射し、時々雲の間から、突如として強い光を持ってくる。
ひとかたまりずつのわずかな掌にくるまれた綿のように、白い、薄桃を帯びた花びらが、かたまりとなって枝にしがみついていて、樹と樹が大きな公園の真ん中の池に、ほうぼうから重なり合ってかかってくる。
人々は、午後の少し肌寒い中を、若者たちや子ども、大人たちが飲み、食べ、喋り、そして喚声を上げる。これも人の心を誘うこの時季の、さくら、桜、桜のいのちである。
池の周りのはたを歩き、途切れない人の列が続く。なぜこうも、人のこころを呼び寄せるのか。
この花の時季。」
人の生の呼吸(いき)に揺すられ、また何かを始めようと思う。