大江健三郎の小説に『遅れてきた青年』というのがある。『洪水はわが魂に及び』、『個人的な体験』などは読んだが、この作品は読んでいない。読んでいないのに、いつも僕は、この「遅れてきた青年」というフレーズが気になっていて、自分自身に当てはめてきた。これは、「青春の華麗なる忘れ物」と対なのだ。
青春時代に体験すべきこと、感じたりしておくべきことをきちんとやっておかないと、あとで歳を取ってからそれを取り戻そうとしても、取り戻せないものなのだ。たとえ形として取り戻したとしても、手にしたことにはならない。なぜなら、彼(僕)は、青春が過ぎて、「遅れて来た青年」だから。
『グレート・ギャッツビー』も、そういう意味では遅れて来た青年である。一度は、昔の恋人の心を取り戻したかに見えたが、現実の世界がそれを許さない。遅れて来た者は、もはや大事なものを本当には手に入れることはできない。
キャッチャー・イン・ザ・ライ(『ライ麦畑でつかまえて』)―。
僕は、英米文学専攻なのに、学生時代、この作品を読んでいなかった。でも、ずっと気になっていた小説である。どういうわけか当時、僕の専攻学科ではサリンジャーが人気で(というより教授が気に入って授業に取り上げていたわけであるが)、卒論にサリンジャーを選ぶ者もいた。アメリカの学生小説という雰囲気があって、日本の学生たちもそうしたアイビー的なキャンパス生活を手本にしていたふうもあったのかもしれない。
授業では、"Franny"(『フラニー』)を取り上げていた。もちろん、授業は英文で読んだけれど、そんなに長くはないし、文章も難しくない。授業で当てられるので、仕方なく読んでいたが、作品というより、作中のFrannyがずっと気になっていた。
女子大生フラニーは、彼氏との週末デートでレストランに入って、だんだん落ち着きを失っていく。とうとうトイレに駆け込み、彼氏を席に待たせたまま突然、5分以上もトイレの中で声をつまらせて泣いてしまう。さんざん一人で泣いた後、トイレから出てきて、元の自分を取り戻したかのように彼氏と会話を再開するのだが、二人の会話は次第にかみ合わなくなり、ついにフラニーはその場で気を失ってしまう・・・。
Franny ―。そのままが、気になる。彼氏(彼女)と二人きりの場で、急に精神の落ち着きを失って、わけもなく泣き出してしまう・・・。20歳前後、僕は読書三昧でいたが、それは精神の不安定の反動から来たものだった。好きな女子がいて、学生中、ずっと好きだったが、彼女には付き合っている男がいて、僕には振り向いてくれなかった。心の孤独を感じながら、僕は文学や哲学書に励んで読んでいた。こうした精神生活が安定しているはずがなかった。僕は夜中一人になると、なぜ知らず、何度も涙した。理由もなく。あるいは恋人が恋しくて、あるいは荒涼とした自分のこれからの未来に暗澹として。つかまるところがなく、依るべくところがなく、たださまよっていた。
生というものが虚しいと思ったからだ。何か、人と一緒にいても満たされず、心の中の虚しさを見つめていた。フラニーが突然、トイレで一人泣き出したシーンがすごく実感できたのだ。フラニーの場合は、青春期の精神特有といえる繊細さのほかに、信仰的な思いが深く絡んでいたのだけれども(続編『ズーイ』)。
そのフラニーのことがずっと気になっていた。フラニーとデートして、まるで僕が、泣かしてしまった彼女をそのままほったらかしにしていたような気がする、何十年も。なぜ、あの時フラニーは泣いたんだろう。それを確かめたくて読み返してみた。あの時に感じたフラニーと今は違うのだが、もっと深くフラニーと付き合っていればよかったと思う。自分を知るためにも、当時、これから出会うかもしれない「彼女」のことを知るためにも―。
『フラニー』をせっかく読んだのだから、『ライ麦畑』も読んでみた。この『ライ麦畑』も20歳の頃に読んでいたら、ずいぶん自分の感じ方や考え方が今とは変わっていたんだろうなあと思う。これは読んでいないと説明しずらいが、語り手ホールデンが、相手‘you’ に話しかけるようにしてずっと一人で手紙をつづっていくという体裁をとっている。ああいう書き方は、読んでいくうちに、だんだん自分自身が一人でつぶやいているように錯覚していく。
誰もが一度は通る「通過儀礼」、心の物語をつづっているのだ。おそらく、この作品を読んだことで、人生が大きく変わるというものではないのだろうが(と、訳者の村上春樹も語っている)、なんとなく青春時代の初めてのデートのように、一度はくぐっておいても損はない小説である。
今は、フラニーとホールデン、ギャッツビーとも、ずいぶん青春から遠く隔たった時間のところに僕はいるのだけれども、それでも若い時に気になった人、好きになった人に「こう言えばよかった」「あんなこと言わなきゃよかった」とつくづく思うことがある。その人たちはとっくに、僕と同じ年齢になっていて、もう取り返しはつかないのだけれど、時々は青春のかけらをもう一度つまんでみたくなるのだ。もう、だいぶ「遅れて来た」青年(?)になってしまったのだが。
(※これを書いた後、今年3月に村上春樹氏による新訳『フラニーとズーイ』が出版されました。村上氏の詳細な解説付きです。)