昨年(2014年)11月10日、宮崎駿氏はアメリカのアカデミー賞授与式の壇上にいた。宮崎氏はすでに前年、『風立ちぬ』の公開をもって引退を表明している。その後の「監督業」を受賞後の記者会見で語っている。
■創造と実業のはざまで
―― 真に創造に費やせる時間は10年。
『風立ちぬ』で宮崎駿監督は、登場人物にこう語らせている。この言葉は、おそらく宮崎監督が自分自身に語った言葉であろう。宮崎氏はこのアニメ映画公開時に72歳。創造者としてはとうに頂点を過ぎている年齢だった。それでも監督の心には創造の炎の微かな残り火が灯っていたのだろう。その灯を消したくない思いがあったからこそ出たセリフだ。
宮崎駿は創造者(芸術家)であり、監督であり、実業家でもある。実業という面では、株式会社スタジオ・ジブリの創設者の一人として従業員・スタッフ300人の雇用と賃金を維持しなければならず、そのための売上(興行収入)を上げることが責務である。実質的な経営実務に関わる時間は多くはなかったろうが、常に監督として興行成績が枷になっていたことは否めない。
映画監督として納期と売上の数字を気にしながら、質の高い作品の提供が義務付けられていた。完成度の高い芸術性と娯楽性を実現することで、興行収益もおのずとついてきた。しかし、それにはいつも時間が足りなかった。芸術家としての側面と実業家としての側面において、宮崎氏は常に宿命的に追いつめられ、決して完璧な作品を出し切れずに、それが自身にとって大きな不満だったと思う。
「観客には気づかれなくても、自分ではあそこがダメだったというところがいくつもある」
と宮崎氏は記者会見で振り返っている。芸術性と興行のはざまにいて、「本当に創造できる時間」が、宮崎氏の内部から追いやられ、消えかかっていく。その創造の炎を絶やしたくないがために、宮崎氏は何度もこれまで「引退する」と「宣言」してきた。
しかし、興行の面でも責任を負う立場にあって、そう簡単に引退が許される状況はなく、宣言のたびに引き留められ、自らも踵を返したのも何ら不思議はない。それに、氏自身も芸術家の内に残された炎を灯し続けるには、ジブリという場所が必要だったのは言うまでもない。作品の質と上映スケジュールとのぎりぎりの際(きわ)に自分を置かざるを得ない苦悩がどれほどのものだったか想像に難くない。
■イマージネーションの重なりが作品の全体を創る
ここに、1枚のデッサン画がある。『となりのトトロ』のさつきとメイが父親とともに引っ越して来た村の民家である。部屋の畳が描いてある。畳に昼の陽が射している。光の当たる所と当らない所があり、光の当たる部分は畳が色褪せている。擦り切れた所、陽で焼けた所が細密に描かれている。この場面を映画で覚えている人がどれだけいるだろう。
映画ではわずか1秒も映らないかもしれない場面である。そこをここまで細部にわたって描く意味があるかと思われるだろう。しかし、描かなければならない。
「たとえ一瞬しか映らなくても、そこはやっぱり、そこまで描かなければならない。それは、そういうものなのだ」
現在開催中の「ジブリ立体建造物展」(東京江戸たてもの園)に展示されているこのデッサン画についての宮崎氏の言葉である。これを単に、気まじめすぎとか、こだわりすぎ、無駄なこと、と言うのはたやすい。なぜ、そこまでやるのか。
それは、簡単である。ビジネスに譬えればわかりやすい。作品は決算書である(味気ない比喩だが)。決算書は作成されるまで何百、何千という取引の会計処理(仕訳)がある。1つ1つの仕訳の勘定科目と数字を誤ると正確な決算書はできない(意図的な粉飾を除いては)。1円単位の数字と正しい科目名が積み重なって決算書という作品が出来上がる。決算書に現れない膨大な数の個々の科目と数字は、監査などを除けばほとんど表に出ない。
このことは、あらゆる仕事に言える。たとえ1秒しか映らないデッサン、膨大な数のボツになったデッサンは、作品が完成するための積み重ねの1つである。監督(創造者)は、作品全体を見ると同時に細部を見る。細部のすべてがイメージされていないと作品全体をイメージすることができない。1つだけ完成されていない空白のイメージがあると、そこの部分から瓦解して、イマージネーションの脆い砂は外に流れ出していく。1つの石でも欠けたら城はできない。
監督にとって、作品に現れるか現れないか、画面に映るか映らないかは重要ではない。作品を構成する一部となりうるかどうかが問題である。だから、そこがリアルティを持っていないと、全体のイメージが仕上がらないのだ。その1つ1つは、イメージを構成するための部分であるからだ。しかし、この細密な作業を自身の手が負うことによって、監督の引き際を決意させることになったのではないだろうか。それは宮崎氏の時間と労力を容赦なく奪っていったのではないか・・・・。
■「引退」後の監督業
宮崎氏は今、三鷹の森ジブリ美術館主として、当館を企画運営している。自らも短編のアニメを制作し、作品は1年に1回以上美術館で上映される(現在9本完成)。自分の気に入ったものを創り、自分の気に入った時に上映する。
「お金は関係ない。売れなくてもいいですから」
と、宮崎氏は言っている。
これって、現役なのか? 現役じゃないと宮崎氏は否定する。なぜなら、現役はもう少し仕事をするからだという。しかし、今回一緒に名誉賞を受賞した面々は、モーリン・オハラ(94歳)、ハリー・ベラフォンテ(88歳)、シドニー・ポワチェ(87歳)、そして宮崎駿(73歳)。受賞者の中で宮崎氏が一番若い。それに刺激を受けたのか「もう、リタイアだとか声を出さないで、やれることはやって行こうと思う」と言っている。
確かに、若い時にできた量の仕事が、今はさすがにできない。若い時の何分の1くらいの仕事量だろう。それは仕方ない。
「これからは、自分に何ができるのか、何ならやるに値するか、これは面白そうだ、っていうことが一致しないといけない」(記者会見で)
自分のペースで、子どもや大人たちのために、自分の好きなことをやる。あまり売上や締切に追いやられずに、それでもこの上なく人に必要とされる。若い時に身に付けた才能と技術で、それを涸らすことなく、世の中に還元する。
「年寄りは、もう何をやってもいいんだ」(同前)
宮崎氏本人は、リタイアメント・プランなどというものを意識してここまでやってきたわけではないだろう。とにかく、がむしゃらにやってきて数々の実績を残してきた。それがいくつもの評価と名誉につながった。
現役の映画監督は引退したとしても、「創造の灯」が灯っている限り、宮崎氏は引退後も悠々たる自由の意思で監督業を続けていくのだろう。
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