FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『不連続殺人事件』と『事件』~ 純文学者のミステリー

2016-07-16 11:38:35 | 文学・絵画・芸術

 ■『事件』の実在感と知的興奮

『不連続殺人事件』(坂口安吾)と『事件』(大岡昇平)は、ともに純文学作家が書いた推理小説で、両作品とも日本推理作家協会賞を受賞している。読みたいミステリー作品の上位に入る常連ということで、続けて読んでみた。 

先に読んだ『事件』は、かなり前に弁護士役が北大路欣也主演のテレビドラマを見た記憶があるが、細部も結末もほとんど忘れていた。しかし、これが面白くて一気に読んでしまった。この推理小説は、ストーリーを知っていても、結末を知っていても、十分再読に耐えられるものである。それは知的興奮をもたらすからだ。ほとんど全編、法廷が主舞台となっており、法廷での弁護人、検察官、裁判官、そして証人のやり取りに、どんどん吸い込まれていく。このような場面は、今となってはテレビドラマの事件ものではありきたりとなってしまったが、やはり、法廷での応酬は、1つの弁証法なのか、詭弁なのか、単なるほらの吹き合いなのか、とにかく引き込まれる。 

前に『カラマーゾフの兄弟』を読み返した時、最終に近い場面で主人公ドミートリ―の殺人罪の裁判がかなり長く書いてあったが、その部分が面白くて一気に読んだことがある。学生時代に読んだ時は、おそらく退屈で読み飛ばしていたところだと思う。再読の時は単なる推理ゲームではなく、人間の根源に迫るところにひかれたのだと思う。『事件』にしても、やはり純文学作家としての深堀があったからこそ、面白かったのだ。 

だいたいミステリーに純文学臭さを持ち込む必要があるかと言いたい人はいるだろう。推理ゲームとして面白ければいい、と。僕自身は、推理小説はほとんど読まない。これまで読んだのは、かなり前、十代にE・A・ポーの作品と、だいぶ大人になって『砂の器』(松本清張)、『虚無への供物』(中井英夫)、『緋色の研究』(C・ドイル)、最近になって『ドグラ・マグラ』(夢野久作)くらいで、驚くほど少ない。少ないなりに、どれも堪能した。『ドグラ・マグラ』などは、日本の三大奇書などと言われているが、これは純文学書、思想書の傑作と言ってもいいと思う。 

読み応えのある小説は、純文学とかミステリーとかの枠を超えている。それは、大げさかもしれないが、人間の根源に迫るからだ。人間が罪を犯すときは、必ず動機がある。動機が犯罪を生むのだ。その動機の重さによって、罪の実在感が出てくる。そこに、人間というものが現れる。 

■殺人動機に血の実在感がない

その点、『不連続殺人事件』は正直、がっかりした。坂口安吾の純文学作品はあまり読んだことがないが、純文学作家ということで『事件』のように、それなりの期待を持たされたのだ。作者自身、純文学の臭いを切り捨てて、推理小説の犯人当てに徹したというから、いわば謎解き推理ゲーム的なんものとして、本人も楽しんで書いたのかもしれない。実際、犯人当て懸賞を出して、発売後すぐベストセラーになったというほどだから、面白くは読める。 

しかし、それはゲーム的なストーリーの面白さであって、正直、僕にとって再読に耐えられない。殺人動機をはぐらかす方法にしても、その方法を断行するだけの人間の実在感が描けていない。作者自身がそのことを捨てたわけだからだ。犯行を犯す人物に血も肉も感じられないから、動機に重みがない。将棋盤の上で、この駒はこういう役が付いているからこう動く、というのと同じ感覚でもって次々と殺人が起こるから、本当の殺人動機にならない。だから、誰でも犯人になりうるし、逆に誰が犯人になるか、いくらでもはぐらかすことができる。今でいえばスマホアプリの画面上で、まさに推理ゲームの中で人間を動かすようなものだから、種明かしがわかっても、何ら面白みも知的快感もない。 

江戸川乱歩までが絶賛、ほかの名だたる推理作家も激賞しているが、残念ながら僕は落胆した。推理小説は、読んで面白ければいいわけで、人間の存在感などという面倒くさいことをいう方がおかしいと言われるかもしれない。面白いか、面白くないか。安吾は楽しみながら書いたというから、まあ、あまりムキになるほどではない。が、やはり人間がきちんと描けていないとなると、単なる2次元(小説原稿、将棋盤、ゲーム画面)上のものでしかなく、本当の動機にもならない。動機が本当らしくなければ、そもそも犯人が当てられるわけもない。そこのところが、作者の思うつぼかもしれないが。


40年目のアリ・猪木戦 ~ 刃物のごとき拳に立ち向かう真剣蹴り

2016-07-08 01:17:22 | 芸能・映画・文化・スポーツ

モハメド・アリ氏が亡くなって1ヵ月ほどになる。僕は今でも、アリ氏死亡の特集番組「アリ・猪木戦」を思い出す。

僕自身は、「アリ・猪木戦」をリアルタイムで見た世代だ。当時、どんな決着になるか興奮して見ていたものだが、試合結果は「世紀の茶番」とか「世紀の凡戦」とか酷評されたように、僕ら自身も正直、落胆させられた。いくらプロレス技封じのがんじがらめのルールにしても、アントニオ猪木なら派手な決着を見せてくれるだろうと、みんなが期待していたのである。

「猪木はチキン(臆病者)だ」というのも、そうなのかとさえ思った。なにしろ、15ラウンド、ほとんど寝てばかりいたのだから。試合後、アリは猪木の何十発ものキックを脚に受けた影響で入院、ヘビー級世界タイトルマッチも延期せざるをえなかった。猪木もつま先の骨にヒビが入っていたということで、その真剣勝負らしさは知ったけど、あれから40年間、もどかしさが残っていた。

そして、1ヵ月前の録画試合である。録画を見だしているうち、僕は背筋が凍る思いがした。確かにルールの縛りがあったのは再確認できた。しかし、アリのグローブを見て仰天した。グローブが、拳より少し大きいだけだったのである。これは、リアルタイムの試合では気づかなかったことだ。

プロボクシングのグローブというのは、どの階級の選手も風船のように大きく膨らんだものをはめている。オンス(重量)が大きいほど、風船のように大きく、したがってそれだけグローブの中がクッションとなって、当たってもダメージが小さくなる。しかしアリはこの時、通常、ヘビー級の選手がはめる10オンスのグローブではなく、4オンスのものをはめていたのだ。

これもアリ側のゴリ押しのルールだったのだろう。あんなに小さなグローブでは、ほとんど生の拳並みの威力があるだろうし、さらに両拳をぎゅうぎゅうにバンテージで固めていたという。まさに鉄の塊の拳というより、真剣の刃だ。ヘビー級のボクサーがこんな拳で振り回したら、かすっただけでも一太刀で斬殺されるほどのダメージだろう。

実際、猪木自身の解説によると、額をかすっただけで、試合後大きなコブになっていたという。僕は、これを知って、この試合がとんでもない真剣勝負だと悟った。猪木はあの寝技戦法しかなかったろう。アリにしても、猪木の技を警戒したからこそ、深入りしなかった。まさに一触即発、アリのパンチか猪木の技か、勝負は瞬間に決まるはずだった。

そういう状況で見ると、ハラハラ、ドキドキの迫力は並大抵ではなかった。誰が「茶番」だ、「凡戦」だと言ったのか。まったく勝負のすごさをわからない大人たちだった。僕はまだ少年だったから、ドンパチ、バタンキューの派手なプロレスこそ真剣勝負だと疑わなかったのだが、40年後の時間を経て、真剣の勝負に酔っているところだ。本当の勝負というのは、決して派手なものではない。

総合格闘技が日本でも興り始めたころ、あまりの地味さに最初は見る気もしなかったが、真剣勝負であることがわかってくると、その迫力にハマってしまった。「アリ・猪木戦」も格闘技を見る目が肥えていないと、地味でつまらない「茶番」「凡戦」でしかない。しかし、40年前のあの勝負は、一流の格闘家であれば誰でも、試合のすごさを思い知ったのではないだろうか。

今では、この試合の「名誉回復」がすでになされていることだけが救いだが、今初めて録画を見た人が、表面的な動きだけを見て、やはり「茶番」「凡戦」だなどと思わないでほしいと思うばかりである。