「彼女はあらっぽく服をぬぎ、コルセットの細紐をひきぬいた。紐はすべりおりる毒蛇(どくじゃ)のように彼女の腰のまわりにシュッシュッと鳴った。素足のまま爪先で、戸がちゃんとしまっているかをも一度見に行って、そして、着ているものを一気にみんな脱ぎすてた ―― 青ざめて、ものもいわず、真剣な顔で彼女は、わなわなと身ぶるいしながら、相手の胸にとびついた。
しかし、冷汗にしとどになったその額に、よくわからぬ言葉につぶやく唇に、狂おしくなった瞳のうちに、その腕の必死の抱擁のなかに、極端な、正体のつかめぬ、暗いなにものかがあった。」(フローベール『ボヴァリー夫人』新潮文庫 生島遼一訳)
この文章が150年も前に書かれたものであることに、まず驚かされる。現代作家の小説の一場面だと言われても信じてしまう。それくらい、描写がみずみずしい。
『ボヴァリー夫人』は、今さら言うまでもなくフローベールの代表作である。この19世紀の作品は、リアリズム小説の先駆けと言われ、当時、作家の模範的文体とされた。日本の近代・現代作家の小説を読んでいる時も、まるで眼の前で現実(あるいは映画の場面)を見ているように描写している作品がある。よくまあ、見てもいないものをここまで細かく書けるものだと感心させられることがある。多少なりとも、フローベールの影響なのだろう。
小説の内容は、医師の妻、エマ・ボヴァリーの不倫である。アンナ(『アンナ・カレーニナ』)にしても不倫の愛である。エマもアンナも、平凡で退屈な夫に飽き足らず、若い男との恋愛に熱を上げ、最後は破滅(自殺)する。この時代は、今のように恋愛をしてから結婚するということはなかったようで、自分の心、肉体を燃え上がらせる経験なくして結婚生活に入ってしまったのだろう。結婚生活という枠の中に、女の情熱を閉じ込めておくことができなかった。
エマは、それでも平凡な家庭生活を維持してきた。そこへ第三者である若い男が現れる。このとき、経験したことのない恋愛感情が生まれ、これが自分が求めていた本当の愛だとエマは思い込んでしまう。だが、こうした愛はしょせん、もろく崩れる。幻影である。大恋愛の果てに残ったものは、互いの幻滅。夫と同じ退屈な男が眼の前にいる。エマは、また違う男のもとに通い、肉体関係を重ねる。しかし、エマはすでにこの男にも捨てられていることに気づかない(気づいた時が破滅の時である)。
平凡で退屈であることは、エマやアンナからすれば「悪」なのである。華やかで情熱的で、波乱があって、毎日が心ときめく生き方 ――。しかし、どうしてそんな毎日が送れるというのか。読者は、エマやアンナの生き方を見て、なんて馬鹿な女だと思うかもしれない。「平凡」だって、それは幸せの一つだ、と。
文学は、何も倫理・道徳めいたことを書くものではない。小説は説教書や教養書ではない。生の真実(ありのまま)を描き出すものである。エマはこの上ない美女だがつまらない女、不倫、愛人、贅沢、借財、破滅、そして自ら死を選ぶ。そういう女の生き方を、真実に迫って描くのが小説家(芸術家)である。「馬鹿な女だ」とエマのことを本気で思わせ、しかもその魅力に夢中にさせたなら、作家の勝ちなのである。
ところで、女の肉体に潜む性については、男には本当は分かるはずがないのだが、男である作者フローベールは、女の本性を知りつくしていたのだろうか。この疑問の前には、世界文学史に残る傑作を残した、というのが答えである。もっとも、これまで文学の評価をするのは大半が男だったから、本当の女が描かれているのかは、女にしかわからないかもしれない。とはいえ、男から見た女が真に描かれているかという見方からすれば、つまり、これが女の本性かと男が納得すれば、それはそれでいいのだろう。
『ボヴァリー夫人』は『アンナ・カレーニナ』とともに、19世紀小説の傑作と言われている。男女の愛というものは、どうして読者をひきつけてやまないのか。きっと誰もが今の結婚生活に満ち足りない大恋愛をやり残してきているのだろうか。もし、それをやってしまったら、それこそ主人公の愛のように悲劇を巻き起こしてしまうので、ぐっと踏みとどまるかわりに、こういう作品を読んで架空の恋愛を楽しんでいるのだろうか。
―― いいえ、単に私たちは、いつだって恋愛が好き、それだけなのよ。
なんだか、そういう女たちの声が聞こえてくるような気もする。