FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

ガルシア・マルケス ~ 『百年の孤独』 次に来る小説は?

2014-04-25 00:36:41 | 文学・絵画・芸術

コロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケス氏が亡くなりました。じつは、このブログの記念すべき(?)第1回のコラムがマルケス氏の『百年の孤独』についてでした(「小説とライフプランニング『百年の孤独』」)。

20世紀小説は、ジョイス『ユリシーズ』、プルースト『失われた時を求めて』によって頂点を極めたと言われ、その後の小説は、いかにこの2人の偉業作品を毀し変容させていくかが生き延びる道だとされました。

考えてみれば、同じようなことが19世紀小説でも言われました。トルストイ、ドストエフスキーらによって小説は完成したと言われ、その後の小説はいかにこれらの小説を破壊させながら発展させていくかということでした。そこに現れたのがジョイス、プルーストだったのです。

もう、小説の方法も出つくした、あとは衰退をたどるのが小説の運命と言われた20世紀も後半、突如として仰天すべき小説が出現したのです。それがマルケス氏の『百年の孤独』です。作家や評論家が驚いたこのラテンアメリカ文学は、マジック・リアリズムと言われ、民族的伝承と記憶と現実と呪術的な超時間的感覚で書かれたまったく新しい小説でした。  

おそらく、20世紀前半にジョイス、プルーストが出現した時のような「事件」だったのでしょう。日本の作家たちが「すごい、すごい」「読んでみたか」などいろいろ書いているのを読んで、ついに僕も読んだのでした。

決して、読みやすい小説ではありません。ほいほい話が進んで、作品の中にのめり込んで、あっという間に読み終えてしまったという代物ではありません。そんなこと言ったら、『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』だって、決して読みやすいとは言えません。まあ、退屈なところもけっこうあって、その退屈さをゆっくり上等に楽しめる贅沢な小説と言えるでしょうか。僕としては、あの長大な2作品を死ぬまでにもう1回読んでみたいと思っていますが・・・・。

話を戻すと、『百年の孤独』は確かにこれまでにない小説です。僕自身、古今東西の小説を読み漁ったというわけではありませんが、この作品の異様さがわかります。異様さと言っても、ミステリーや奇書ではありません。その作風です。だいたい、小説の中の時間が、いったいどれくらい経っているのか進んでいるのか、まったく分からなくなってしまう。

それが1日の出来事なのか、100年、200年の長さの時間なのか。物語の中での実際の時間が短いのか、長いのか。20世紀小説も意識の時間を巧みに描いたものですが、どうもその時間感覚とは違うらしい。なにやら、1人の一生よりとてつも長い時間が作品の中で流れているのですが、それが1人の中で起こっているという錯覚に陥る。そこに伝承と記憶の意識と土地の「場」が絡んでいるようなわけです。 

この作品は、新しい世紀の小説宝庫となり、小説は蘇生し、さまざまなラテンアメリカ小説が呼び起こされました。小説の可能性がこれでまた拡がったわけです。アニメ、コミック、ゲームなど優れている作品がおびただしく出てきており、小説は衰退していくのではないかと危惧されてきました。存在価値がなくなればそのまま絶滅するのも仕方ないかと思いますが、どっこい、まだまだ「言葉の魔力」というのは、そう簡単に衰えるわけではないとも思って(願って)います。

『百年の孤独』の次に、何が来るか。


『アナと雪の女王』 雪と氷の世界へ ~ 愛の訣別と氷解

2014-04-04 01:35:36 | 芸能・映画・文化・スポーツ

■ ディズニー作品とジブリ作品

 『アナと雪の女王』(原題'Frozen’)は、2013年度のアカデミー賞長編アニメーション賞と主題歌賞(主題曲'Let It Go')を受賞した。ディズニー作品らしく愛と夢と希望の感動を与えてくれるストーリーだ。子どもだけでなく、いや、むしろ大人が見た方が感動する作品といっていい。

 長編アニメーション賞に同時にノミネートされていた宮崎駿監督の『風立ちぬ』は賞を逃した。というより、この2作品を比較すると「ディズニーのほうが勝ち」と言わざるを得ない。(『風立ちぬ』については「『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間」に詳しく書いたのでご覧ください。)

 まずもって、映像が素晴らしい。宮崎監督も人間の表情や風景のディテールにこだわる人ですが、それ以上にこの作品は登場人物の表情が生き生きとしている。顔のつくり自体は目が顔の半分もあって人形のようだけれど、一刻一刻変わる表情や仕草、髪の動きまでまるで生きている人形、いや途中からは人間そのものに思えてきて、たっぷり感情移入できる。

 それはちょっとした目の動き、口もと、指先、体の動作にも言える。人間の表情や動作を何百万例もコンピュータに取り入れ、その「動き」をCGでアニメ化しているのだろう。こんなことは宮崎アニメでは、予算や技術の面からいってもとうてい無理な作業である。なにより宮崎監督自身がそういう手法を望んでいない。宮崎監督はあくまで手描きで地道にアニメ制作することにこだわってきた。もっとも、この方法では限界があることを監督自身が一番よくわかっている。そのために宮崎氏自身のアニメ作家寿命を縮めてきた感がある。長編アニメ1作に10年前後もかかってしまうとなると、本人自身も気力・体力の限界と闘わなければならないし(監督引退の大きな理由)、人を何十人も雇っている以上、興行次第でスタジオ・ジブリの経営も大きなリスクを負うことになる。

 『アナと雪の女王』は、誇張ではなく、このアニメで本場のミュージカルが楽しめた気がした。日本語版の吹替えもほとんど違和感がなかった。主役2人(松たか子、神田沙也加)以外はいわゆる知られているタレントではない声優・俳優陣でよかった。宮崎作品でいつも納得がいかなかったのが吹替えだった。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』あたりまでは実力派の声優が吹替えをやっていたので安心して観ていられたが、いつからか、テレビでよく出るタレントがやたら吹替え陣に加わってきた。それは、作品そのもののレベルを落としてしまった。一般に、テレビで知られているタレントの声には艶(つや)がない。タレントは声だけで演技しないから、台詞がかすれてぼそぼそし、声がスカスカなのだ。存在感がない。最新作の『風立ちぬ』も、主人公の声(タレントではないけれど)は失敗だったと思う。

 宮崎氏は、「普通の人間は声優のようには喋らない」と言ったそうで、そのため日常の自然な感じで喋れるタレントを使ってきたということらしい(鈴木プロデューサーの話)。しかし、それを言ったら舞台や映画、ドラマなどの配役の台詞については、実際に人間が日常で喋るようには喋らないし、小説の会話文だって、絶対にあんなふうな喋り方はしない。「あんなふう」とは、「日常の自然な感じ」という意味だ。喋るように会話文を書いたら、小説作品にならない。アニメにしても虚構(フィクション)なのだから、虚構の声をいかに日常的なものよりも本物らしく創り出すかがだいじなのだと思う。そのためには、虚構の声に命を懸けている声優(または俳優)を起用した方がよほどいい。

 ■苛酷な運命の受入れと決意を歌う名場面

 この作品は、ストーリーも映像も音楽も歌唱力すべて含めて、アカデミー賞受賞は当然だったと思う(念のため、僕は宮崎アニメのファンです)。ところで、僕はたった1つ、この作品(吹替版)でどうしても気にかかるところがあった。それは、姉のエルサが自分の魔法の力を抑えきれなくなって雪の山を1人で歩いていくシーンだ。 

 前半の大きな見どころの場面である。エルサは、魔法で人を傷つけてしまうことを恐れて、幼少から今日まで自分を抑えて生きてきた。女王となる戴冠式の日、追われるように城を出ると、これからは過去の自分を捨て、自分の魔法の力を信じて「ありのままに」(let it go)、自分らしく、自分の道を生きて行こうと決意する。何にもとらわれず、人々と絶縁し、雪と氷の王国を築いてたった独りでそこに住もうとする。

 この時のエルサの心情を歌ったシーンは圧巻で、本作品の名場面となっている(その楽曲が主題歌賞となった)。エルサは、今までの自分を解き放って自由に生きる決心をする。未来に向かって夢や希望を、映画を観る人にも与えてくれる場面のようにも思える。実際、ここの断片だけを抜き取ってみれば、さまざまな苦難を乗り越え、力強く前向きに進もうとするエルサがそこにいる。

 それだけ、この場面は強い。本当は、ここで共感を抱くところなのかもしれない。なのに、しっくりこない。なぜだろう。それは、エルサには苛酷で悲劇的な未来しかないからだ。夢などかけらもない。エルサは、そんな世界に飛び込もうとしている。よほど強い決意がないと踏み込めない。愛のない世界へ入るのだから。感動的な名場面であるが、すべてを跳ね返してしまう冷たさが残る。愛からの訣別のシーン。エルサの自由とは、孤独の自由なのだ。「これでいいの、かまわない」(let it go)という拒絶の意志で自分を奮い立たせるが、自分を殺す道でもあることは彼女自身がいちばんよく知っている。

 Let  It  Go.

 この名曲を歌う松たか子の澄んだ声はみごとだが、日本語訳で聴くと未来に希望が持てそうな歌に聴こえる。でも、それではエルサの今の状況に合わない。そこに違和感を感じて、僕は英語版で何回も聴いてみた。歌のニュアンスが違うのは翻訳だからしかたない。英語版で聴くと、あの場面で主題曲のシーンを持ってきたことが納得できる。英語版では、自分を永遠に閉ざしてしまう断固とした決意が感じとれる。それが哀しいほど心を揺さぶる。だからこそ、自分を呼び戻しに来た妹のアナをも拒絶する。そうでなければ、最終場面で本当の愛に目覚めたエルサの心が氷解する意味がなくなってしまう。ついでに言うと、さすが主題歌賞を取った英語版の歌を聴いてしまうと、日本語版では物足りなくなってしまう。(主題歌の英語版、日本語版は『アナと雪の女王』公式ホームページで聴くことができます。)

 ―― とまあ、ここまで考えなくても十分に子どもでも楽しめるアニメに変わりはないけれど。もう1つ言わせてもらえれば、原題はあまりに子どもに夢がない。‘Frozen’では、それこそ「凍えるよう」で冷たすぎるのでは? その点、日本語版タイトルは、まさに和製ディズニー(?)っぽくて、これは「日本語版の勝ち」というところか。