『源氏物語』は、何度か映像化されてきました。文字の世界は、読み取る人によってさまざまにイメージ化されます。その作者の感性によって映し方が違うのは当然です。
今、上映されている『源氏物語 千年の謎』もまた、そのイメージ化の一つです。この映画では、全巻のうち藤壺が出家する「賢木(さかき)」の巻までです。よく映像化されるのは、その次あたりの「須磨」「明石」の巻となっています。これを「須磨源氏」というらしいです。光源氏が政略により須磨に流され、明石の君と出会い、京への復帰の兆しが見え始めるところです。
この分でも、十分面白いのですが、ほんとうに『源氏物語』が面白くなるのはこの先からです。といっても、相当長いですから後半はなかなか映像化されません。光源氏の子の代の物語となる「宇治十帖」など、これはこれで、単独作品として十分楽しめるものです。
「桐壷」から「明石」までを第1部、「明石」の次から源氏が亡くなる「雲隠」までを第2部、そしてそのあとの「宇治十帖」を第3部と、『源氏物語』を3つに分けてみると読みやすいかもしれません。私は、この3部ともいずれ劣らず面白く、文学作品としてそれぞれに優れていると思いますので、映像化も、第1部から第3部に分けてやればいいと願っています。
個人的には特に、源氏死後の「宇治十帖」は、不思議な感覚の物語で、映像化されないのはもったいない気がします。『ハリー・ポッター』とか、『指輪物語』、もちろん『スター・ウォーズ』もそうですが、海外の巨匠は大型作品をシリーズ化しています。『源氏物語』も、これにならって誰か、映画監督が最終巻まで作品化しないでしょうか。日本人の監督でなくても、海外の監督にもお願いしたいくらいです。
ただ、今回の映画は作品としてあまり印象に残りません。これがかの世界最高峰の文学作品の映像化であると外国人に思われたくはありません。視覚的には当時を美しく再現していると思われ、宮廷や京の屋敷、衣装など幻想的な映像として鑑賞できるでしょう。しかし再三、六条御息所が嫉妬し生霊となって、源氏の妻葵の君や恋人の夕顔を呪い殺す映像は、なんともオカルト、スリラー、サスペンスものみたいで、滑稽味もあり、ちょっとうんざりもしました。怨霊は見えるか見ないかがいちばん怖ろしいものです。姿かたちが見えずとも霊の仕業と感じられるからこそ、人々に怖れられたのです。まあしかし、映画とするには、やはり生霊の姿を出さないと映像としては物足りないということなのでしょう。
光源氏は、たぐいまれな容姿の美しさと才能をもってこの世に生まれました。しかし、それは同時に女との深い業を背負って生まれてきたということです。源氏は、この世で十分、女と苦しむ「資格」のある生を授かってきたことになるわけです。その業は、天皇となった源氏の代で終わることなく、子の薫の君(「宇治十帖」)に受け継がれていくのです。源氏は、そうなることも自分の業であると自覚して受け入れています。さまざまな女を抱きながら「これが、自分の生き地獄なのだ」と。特に「第3部」などは、男と女、生と性の業を描く仏教色の強い文学作品となっています。
この壮大な物語は、やはり、全巻映画化されることはないのでしょうか。