FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

巨大恐竜マメルス ― 心優しきおマヌケたち

2009-08-31 11:25:16 | 芸能・映画・文化・スポーツ
それは、巨大なブリッジだった。
端から端まで、山なりにうねりをもち、中央部からトンネル状に斜め上方に伸びていくもの、それが、その生命体の突端、‘頭’である。

僕たちは今、鉄筋クレーンのように35mにもまたがる巨大恐竜マメンキサウルスの、まさに骨格の中にいる。「中にいる」というのは、首と胴体の骨組みの付け根の下、洞窟内にいるように、下から仰ぎ見て通り抜けることが出来るからだ。(幕張メッセ「恐竜2009 砂漠の奇跡!!

この過去最大、全長35mの草食恐竜は、21世紀初頭(ついこの間)、中国の盆地で発見されたばかりだ。今年はじめに、上野の国立科学博物館で恐竜展を見た。そこにいた恐竜はせいぜい7~8m、さほどの驚きはなかった。むしろ、博物館の建物に接して展示されているシロナガスクジラの実物大のオブジェの大きさにしばし見とれたくらいである。

それが一気に4~5倍の大きさを目の当たりにする。ちょっとした驚きなのだ。砂漠化した盆地で骨が発掘された。棲息当時は、緑豊かな湿地帯で、水辺あり、環境良く、生物が多くいたという。

ここから見上げると、体の半分近くある首(16.9m)の先の先にある頭は、まるでウサギの頭くらいにしか見えない(実際は、かなり大きい)。復元した映像を見ると、どうもあまり賢く見えない。あれだけの体の大きさだから、動作は緩慢だろうし、ちょっと愛嬌のある顔は、超巨大なペットぐらいにしか見えない。

ゴジラの体長が50m、ウルトラマンの身長が50m。そう言われても、子どもの頃からピンとこなかった。実感もなかった。いま眼の前で同じくらいの大きさに出逢うと、ゴジラはこれよりまだ大きかったのかと、身体で実感できる。こんな大きな生物が都会を歩いてきたら、確かに「ギャー」とか言って、逃げ惑うしかない(このマメンキサウルスは動作が鈍いし、優しい性格なので、映画のように襲ったりしないけどね)。

前に見た科学博物館でも驚いたことがある。骨の太さだ。象の脚の骨は直径10cm、これでも人間から見ればかなり太い。体長8mくらいの恐竜では、直径30cm、象の3倍はあった。さすが、あれだけの体を支えるには、それだけの太さがいるのだと、その時は感嘆した。

この幕張の恐竜展にきて、やはり、骨を見た。マメルス(マメンキサウルスの愛称)の脚は、こうして下から見る限り、優におとなの胴はある。直径にしたら50~60cm。これは、骨のことである。肉体ではない。肉付きの脚ともなれば、人間など、超ド級の金槌の下、細っこい釘くらいのもんだろう。

マメルスよ。おっとりして、おとなしい、草や葉を食べるだけの恐竜だったろう。そして少し、おマヌケで、おノロマで、おバカなところがあって――。これだけ大きな体を生かしておくための太古の地球は、じつに“母なる大地”を育み、豊饒で偉大だった。やがて運命は彼ら巨大生物を絶滅に追いやった。発掘された中国の盆地砂漠、今は緑も水もない広大な土地をみると、心に荒涼としたものを感ぜざるを得ない。

今でも、年間何万種の生物が絶滅しているという。トラやライオンも絶滅危惧種に指定されそうなのだ。あれだけ大きな恐竜が、環境に適応できなくて絶滅するというのは、やむをえないところがある。しかし、人間と同じ程度の大きさの動物、いや、手に載るくらいの生きものさえ次々に絶滅していくというのは・・・。
環境は、人間の欲望が異変を早めていることが多くはないか。

マメルスは、体が大きいけれど心優しい生き物だった。滅んだのも、地球そのものが変化したのだから、地球の一部のマメルスも変化した(死んだ)。人間は、地球そのものを変化させている。体長は小さいけれど、その力は強大で、ほんとうに「恐い竜」は、このちっこい存在の塊りのほうではないか。

こどものマメロー(愛称)を優しく連れて歩く母親マメルス。誰よりも長い首で、誰よりも遠くを見やることが出来るはずだったのに、いや自らの滅びの日は見えていたのに、どうすることも出来ずに、地球上から去らなければならなかった。

マメルスよ、1億6000万年の眠りから覚めても、はぐれてしまったわが子、マメローを探して、首を長く、長く伸ばしている。

‘動物’ボルトにはかなわない ― 陸上100mの呻き

2009-08-28 02:51:12 | 芸能・映画・文化・スポーツ
―― 奴は、動物だからあれだけ走れるのさ。俺は人間だからあんなに速く走れない。だから、負けたところで悔しいとは思わない。自己記録を更新できて、満足だよ。

陸上世界選手権、男子100mで驚異的な世界新記録(9秒58。200mでも19秒11の世界新)を出して優勝したウサイン・ボルトと、2位タイソン・ゲイ、3位アサファ・パウエルの合同記者会見があった。ゲイがインタビューに答えた時、上のように言ったとか、言わないとか(もちろん、言わないさ。でも、そんな心境だったろうと容易に想像がつく)。

ゲイの顔は、自己記録更新に満足げでもあり、どこか押し殺した悔しさが滲んでいた。ボルトとゲイは、何から何まで対照的だ。ボルトと同国ジャマイカのパウエルは、彼もまた元世界記録保持者ではあるが、自分の弟が兄を負かしてくれたというさばさばした、自分の記録が抜かれたことなど、どこ吹く風という風情。しかし、ちょっと人生(競技という人生)を見切った寂しさも窺えた。競技場でボルトとはしゃぐパウエルの姿からは、そんな哀愁さえ感じる。

ゲイは、求道僧のように、常に張りつめた表情で、練習の時も、笑う顔どころか、話すこともなく、黙々と修行のようにルーティンを繰り返すのみだ(もちろん、笑いもし、口も利くさ。テレビカメラがそういうところしか映さないのさ)。特に、予選、本番を通して、スタートラインでボトルの水をひと飲み、口に含み、両腕を高く差し上げ、呼吸を整える。瞑想者のごとく静かに眼を閉じて、そして
“ON YOUR MARK"
の声でスタートラインに手を突く―。

こうしたルーティンは、スポーツの一流選手がよくやるものだ。イチローがバッターボックスに入る前にやる一連の動作や、朝青龍が制限時間前に派手に片手を振り上げるモンゴル相撲の強者・鷲のポーズなどは典型だろう。

ゲイが、もし、王者のままだったら、こういう動きはちょっと“伝説”になる。もしも、王者のままだったら・・・。

なのに、ボルトったら、決勝本番だというのに、腕白みたいに、悪ぶったり、はしゃいだり、照れたり、かわい子ぶったり・・・、まあ、それが彼なりのリラックスの仕方かも知れないし、独自のルーティンなのだろう。そんな彼が、ゲイに代わって“伝説”になってしまった。いや、なろうとしている。なろうとしている、というのは、いわば“伝説の序章”が始まったばかりで、ボルト自身、これから“伝説”になるんだと明言している。

走り方を見ると、素人目にもボルトよりもゲイの方が美しいし、無駄がない、ブレがない。ボルトの走りは、まだ両肩が揺れるし、ゴール近くで左右にきょろきょろし、チンパンジーの「パン君」みたいに落ち着きがない。専門家に言わせると、飛び切り長い脚の回転が速く、ひざの曲げ方抜き方、伸ばし方が抜群に機能的で、まだまだ記録は伸びるという。それに比べ、ゲイの走りは美しく無駄がないだけあって、逆にもう、いっぱい、いっぱい、という感じがする。

人類は、どこまで速く走れるか、というのが永遠のテーマだ。永遠に記録が縮まり続けるということはない。物体が「ここ」から「あそこ」へ移動するのだから、必ずいつかは時間的に限界がくる。まして、肉体が動くのだ。音や光が動くのではない。機械でもない。限界があるからこそ、目の前の限界は大事なのだ。それを超えようとする。その限界が、この8月、また高くそびえた。それが、ボルトの功績だ。その限界さえ、自分で超えようというのか。

かつて、陸上短距離のスーパースター、カール・ルイスを100mで負かした男がいた。彼の名は、ベン・ジョンソン。結局、薬で負かしたことが分かり、失格してしまったが。しかし、当時(20年ほど前)、ルイスを負かして9秒79(幻の世界新)で走った時、やはり世界中が度肝を抜かれた。なにしろ世界記録がまだ9秒9台の頃である。あとで薬物のおかげと分かった時は、いささか落胆はした。が、不遜な言い方をすれば、たとえ薬物によるものとはいえ、生身の人間の肉体がそれだけの速さで走れるということの驚異に身震いしたものだ。
「人間は、これだけ速く走れる」――。

一定の速さ以上で陸上を駆け抜けると、物理的に人間の体は浮いてしまうらしい。あまり速く走りすぎると、それこそ飛んで行くかもしれないと、当時まことしやかに学者さんが言っていたように思う。

ボルト君も、陸上から飛んで行って、“伝説”の鳥になるのだろうか。
―― だからさ、奴は人間じゃなくて動物だから、鳥にでもなってどこでも飛んでいくがいいさ。俺は人間だから、人間の中で一番になればいいさ。
そのように、ゲイが言ったとか、言わなかったとか。




『源氏』宇治十帖・浮舟 ~ 宿縁に翻弄される男たちの物語  

2009-08-09 10:12:14 | 文学・絵画・芸術

源氏物語ミュージアム(宇治)


女たちとの宿縁

『源氏物語』の主人公は、光源氏という天皇の子の物語となっていますが、全編(講談社文庫全10巻)通してみると、どうもこれは源氏を取り巻く女たちの物語と思えてきます。現に、今回読んだ現代語訳者、作家瀬戸内寂聴は、女の心の内から見た『女人源氏物語』も書いています。

物語の展開は、光源氏を中心に展開しますが、逆に言えば、女たちによって源氏が動かされているとも言えます。『源氏物語』は通俗的に読んでも面白い読み物です。だから、コミックやテレビ、映画、劇や歌舞伎に何度も取り上げられるのでしょう。さらに複雑に絡み合う男女の心の綾、人生の深い闇や謎も含まれているからこそ、千年も生きながらえてきたと言えます。

私は、全編読むまでは、この物語の前半はそれほど仏教色は強くないと思っていましたが、どうやら間違いのようです。これが書かれた平安時代は、まさに仏教が盛んな時代で、朝廷の行事のみならず、庶民にも仏教が浸透していました。源氏や貴族の女たちは、男女の縁の結びつきや人生の大事など、「前世の宿縁」として、すべて受け入れてしまいます。

源氏などは、女に恋して、女を抱いてしまうたびに「これも前世の宿縁」と自分を責めるのか、言い訳するのか分からないことを言います。天皇の子だから、なかば強姦に近いやり方で女と寝てしまうこともしばしばですが、
「これも、自分が生まれる前から、こうしてこの女に恋してしまうことが決まっていたんだから、自分の意志ではどうすることもできない」
などと、むりやり自分を納得させるのです。まあ、かなり仏教思想を都合よく使ってはいます。

生きることの宿縁

後半終わり部分にあたる「宇治十帖」(文庫本3巻分)は、不思議な作品です。主人公たちは、光源氏死後の子孫にあたる物語ですが、これはこれで、別個の作品として読めます。私はこれを、19世紀西洋小説か、日本近代小説のように読みました。雰囲気は、何となく泉鏡花作品の感じがしました。妖艶で、仏教色が強く、不思議な現象が起こり、悪鬼や生霊が飛び交うようなそんな雰囲気。ミステリー色も強い。ほんとうにこれが千年前の小説かと思えるほど良く出来ています。

現代語訳者、瀬戸内氏自身も解説している通り、この作品は19世紀以来の西洋小説のテーマをすでに含んでいます。輻輳した恋愛心理、魂と肉体の分離、この世とあの世の融合、劇場型展開。近代小説が19世紀になってやっと確立した小説作法をすでに紫式部は実践していたのです。このことは、『源氏物語』第1巻から言えますが、特にこの「宇治十帖」に濃厚に現れています。

前半で源氏が亡くなって一旦物語が終了してから、この「宇治十帖」が再開するまで、時間経過と執筆背景などの問題もあり(このあたりは、瀬戸内氏が詳しく書いていますので、省略します)、「宇治十帖」は、独立した作品として読んでみてもいいでしょう。

女主人公の浮舟は、どちらかと言うと、受身的な女ですが、あまりに容姿が美しいために、運命に翻弄されてしまいます。2人の高貴な男(光源氏の血筋の子孫、薫の君と匂宮)に言い寄られ、魂と肉体の分断に苦しみ、宇治川に身投げしてしまいます。奇跡的に生き返っても、しばらくは記憶喪失になっています。救われた後も、川のほとりで男に招き寄せられそのまま川に入っていった幻影しか記憶に残っていないのです。周りにいる老いた尼僧たちは、この白装束の長い髪の美しすぎる女を、この世のものとも思えぬようにまぶしく見ながら、世話をしています。悪霊がこの世に落としていったのか、仏様がこの世に置いていったものなのか。

ここまでの場面だけを見ても、紫式部の力量は相当なものです。そのうち、浮舟は現存した横川の僧都(よかわのそうず)源信によって、出家を遂げさせてもらいます。浮舟自身も、まだ死のうという意志が残っていたのですが、死のうと思いながらもこうして死ねずに生きている、こうして生きているからには、やはりこの世で生きろという力(見えない意志=宿縁=仏)が働いているのだと悟り、出家を覚悟するのです。

浮舟は、私自身は性格的に、それほど魅力的な女性とは映りませんが(容姿が抜群に美しいということですから、現実に目の当たりにしたらいっぺんに魅了されるでしょう)、ふだんは受身でおとなしいだけの女が、追い詰められた果て、「死ぬ」ことと、「出家する」ことに、いとも迷わずに決断してしまいます。こういうところは、この女の魅力を際ださせているのかもしれません。

『源氏物語』全体に、女たちは当時の時代の要請もあってか、受身に生きながらも、一度「出家」を決断すると、スパッと出家してしまいます。そのたびに源氏や男たちはうろたえ、おろおろ嘆くのです。翻弄されているのは、じつは男たちであったり・・・、と思えてきます。

『源氏物語ミュージアム 栄華と地獄と極楽と』
『政治家・光源氏を取り巻く女たち』