レオナルド・ディカプリオは、不思議な俳優である。彼を一躍有名にした『タイタニック』でも、確かに何か存在感を持っていた。それは、おそらく‘America’っぽさだろう。20世紀アメリカを体現しているような、上昇志向で何ものをも怖れぬ若さと風貌、成功を信じて向かう行動力が主人公にはあった。
それは、『華麗なるギャッツビ―』にもいえる。恋い焦がれたデイジーと再会する前の緊張する演技は必ずしもうまいとは言えない。しかし、それでもディカプリオはディカプリオである。それでもギャッツビーなのだ。
映画『華麗なるギャッツビー』は、ほぼ小説(‘The Great Gatsby’)を忠実になぞっている。文学作品の映画化は、とかく有名小説のタイトルだけを拝借して、監督の思い入れでつくっているものがある。原作に忠実であることが映画の成功とは思わない。が、原作に近いイメージ化、ストーリー化でありながらそれを意識させずに作品に入っていけるなら、それは原作とは別の存在として成功している作品にちがいない。
タイトルの「華麗なる」は、やはり映画向きである。「グレート」では、なんだかマフィアっぽくなって観客が来ないだろう。もっとも、ギャッツビーが若くして巨万の富を築いたのは、証券か闇商品での「インサイダー」取引によるものと随所にほのめかしている。小説では、ギャッツビーの運や財産、ひたむきさ、華やかさ、才能、強さと脆さ、謎めいた本性、男として哀しいほどの美しさと優しさ、ビジネス上の冷酷さ、孤独、そして悲劇、こういうものすべてを‘Great’で現わしている。
小説を読んだ時もそうだったが、この映画を観ても同じ想いがした。切ないのだ。むなしくなる。「高潔で純真な偉大なる」青年ギャッツビーに対して、彼が恋する相手は「そこまで入れ込むか」と思ってしまうていどの女だ。女優キャリー・マリガンは、個人的には好きな顔のタイプだ。身近にこんな女性がいたら、それこそぞっこん、夢中になってしまうだろう。でも、映画の中のデイジー(マリガン)は、ギャッツビーが全財産と「忘れてきた青春」を捧げるほどの女に仕立てられていない。 (小説版についてはこちら「グレート・ギャッツビー ~ 青春の華麗なる忘れ物」)
しかし、原作者フィッツジェラルドがこの作品によって 20世紀前半の‘America’の寵児になった時、そこにはデイジーのモデルとなった妻ゼルダがいた。『華麗なるギャッツビー』の私生活の舞台が妻とともにあった。派手好き、華麗好き、パーティ好き、観劇・行楽・男好き、金あり大邸宅あり、放っておいても男が群がってくるフェロモンを放つ女。どうして男は、こういうタイプに弱いのだろう。しかし、ゼルダがいなければ、‘The Great Gatsby ’ は生まれなかった。
ギャッツビー1世1代の恋は、いくつかの行き違いにより破滅へと向かう。単なる失恋が切ないのではない。想いが行き合わないで歯車がずれていき、そして恋する相手にも逃げ去られることを知らず、死の間際までデイジーを待つ歓びに浸っているギャッツビー、それがむなしいのだ。しかも恋人の罪をかぶったまま、莫大な青春の時間と遺産を背負ったまま・・・。まあ、よくある恋愛劇と言ってしまえばそれまでだが。
グレート・ギャッツビー。
君は‘America’ を体現した。フィッツジェラルド、君も‘America’ を体現した。そして、ディカプリオ、君も‘America’っぽい体現者であるのか。
ジョン・F・ケネディ。
―― デカプリよ、折しも、どこかその風貌だけは似ている。(2013.11.22ケネディ大統領暗殺50年)