FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『ティファニーで朝食を』 ~ 本当は「やがて哀しき」ストーリー

2014-01-12 10:02:44 | 文学・絵画・芸術

 『ティファニーで朝食を』といえば、今ではオードリー・ヘップバーンの映画を思い出す人が多いと思う。黒いぴっちりとしたドレスに1メートル近くもある(ちょっと大げさか)細長いキセルを吸っているヘップバーンの姿が印象的だ。じつは映画雑誌などでは知っていたが、今回観るまで、映画もビデオも観ていなかった。

 数ヵ月前に、NHK教育番組「ハリウッド白熱教室」の講義をたまたまつけて、面白くて毎週見てしまった。南カリフォルニア大学キャスパー教授のハリウッド映画講義が抜群に面白かった。なにしろ教授自身が俳優になったみたいに身振り手振りし、まるでシェイクスピア劇の役者がセリフを喋るように派手なパフォーマンスで講義するのだ。出席している学生(社会人もいる)も前に引っ張り出され、役者まがいのことを演じる。毎回古今いくつかの名作名場面を映して解説してくれる。映画手法、登場人物の心理、映像や照明・音響効果など。その中に、『ティファニーで朝食を』の一場面があった。その解説が印象に残っていたので、いつかDVDを借りてこようと思っていた。

 場面は、主人公ホリーと語り手「僕」が、気分転換にニューヨークの店(今でいうLoftのような店)に入って、ちょっとしたものを万引きしてしまうというところ。小説でわずか1行の文章は、映画では名場面になっている。そこの映画手法について詳しく解説してくれるのだ。たとえば、人物の配置、音響効果、カメラワーク、俳優の表情など。

 それはさておき、『ティファニー』を今さら読む気になったのは、その映画講義のせいもあったけれど、フィッツジェラルド、サリンジャーと、20世紀半ばのアメリカ作家を続けて読んだので、その関連で同時代のカポーティを読むことにした(前2作と同様、訳者は村上春樹ということもあって)。『ティファニーで朝食を』はトルーマン・カポーティの代表作である。今では原作よりも、ヘップバーン主演の映画の方が有名になってしまっているけれど。

 小説は洒脱な文章、人物設定のうまさ、構成の巧みさもあって、思いもかけず二度続けて読んでしまった。この時代のアメリカ文学は、『グレート・ギャッツビー』にしろ『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にしろ、作品の中に軽く入っていける文章が特徴で(というか、村上春樹の訳文の特徴か)、ミステリーやサスペンス、推理小説でもないのに、ついつい話の中に引きこまれていってしまう。大きなどんでん返しがあるわけではないが、最後まで読んでいくと、「やがて哀しき」結末へと終結していくようだ。

 ホリー・ゴライトリーは、奔放で、オープンなセックス感覚を思わせる女優の卵(じつは高級娼婦に近い)である。彼女の周りにはいつも男はもちろん、女どうしでも群がってくる。なにしろ狭い高級アパート(?)で、毎週パーティをやっている。人を惹きつける魅力があるのだ。上階に住む売れない駆け出し作家の「僕」もそのうちの一人となって振り回され、この女に惹かれていく。

 このような女は哀調が似合うのかもしれない。映画では、名曲「ムーン・リバー」をヘップバーンがひとり歌うシーンが象徴的だ。しかし、やがて幸福になるというよりは、その本性のせいか何か事に巻き込まれ、どこか行方が分からなくなってしまう。幸福に暮らしていそうなのだが、そうではないらしいところが彼女であって、気になってしまう。

 映画にするなら、マリリン・モンローのほうが合っていたかもしれない。事実、最初はモンローの主演が決定していたらしいが、キャンセルしてヘップバーンになったという。映画化に当たって、ヘップバーンが主役になるということに作者のカポーティは不快だったという。自由奔放で本物のまやかしっぽい主人公ホリーの魅力にイメージが合わないと気付いていたようだ。ヘップバーンにはどうしても『ローマの休日』の可憐な王女様のイメージが付きまとっている。結局、モンロー用に書いたシナリオはすべて書き換えられ、ヘップバーン用のシナリオが用意された。映画『ティファニー』そのものは、ヘップバーンの魅力を引き出していて、小説とは別物のロマンスとして観る分にはいい。結末も、小説とはかなり違うものとなっている。

 ところで、「ティファニー」はニューヨークの有名宝石店。ホリーが消息を絶って数年後、ちょっと有名になった作家「僕」は、彼女がアフリカで幸福に暮らしているようだという噂話を聞いても信じない。だって、ホリーが少しばかりのエゴを連れ立って落ち着いていられるのは、そして自分自身でいられるのは、あの「ティファニー」で朝食をとっている時だろうから。多分それは、これまで一度だって実現しなかったろうけれど。