3週間前、2回目の中学校同窓会に行ってきました。学年合同の同窓会で、参加者は110名ほど。当時、私のいた郷里静岡県三島市の中学校は1クラス42~43人、1学年11クラスですから、学年全体で470名いました。今では、学年クラスも、少子化で半分くらいだそうです。
今回、所在が確認できた人数は325名。それでも、110名ほどの同窓生が一同に集まるわけですから大変なものです。前回、4年前の時はこれよりさらに多くの同窓生が集まったのです。各担任の方も出席されていました。ただ、残念なことにすでに物故されていた先生もいらっしゃいます。考えてみれば、当時担任だった先生の年齢よりも、今では私たちの方が上に行ってしまっているのです。
前回も、今回も、オリンピックではないですが、4年ごとに全同窓生の所在確認、連絡、主催と、地元に残って力を尽くしてくれた同級生の開催委員の人たちには、大変お疲れ様、感謝、感謝です。
不思議なもので、人間の意識というものは、20年、30年という時間をあっという間に超越してしまうものです。おそらく、街で通り過ぎて誰だったか気がつかなくても、こういう同窓会の場に来ると、顔の面影、名札を見ただけで、一瞬に時を越えて当時に戻るのです。
そこには、今の職業や地位は関係ありません。当時のクラス社会のそれなりの位置関係に自分が戻るわけです。まったく他意のない自分たちに戻り、当時を懐かしみ、楽しみ、浸るのです。
もっとも、都合があって来られない人は別としても、ここにこうして来られる人は、少なくとも不幸ではないと同窓生が言ってました。痛ましくも病気や事故で亡くなったりした友人もいるとのこと。所在が不明、所在が分かっても連絡が取れない、何らかの問題や不幸を抱えていてここには来られない、そういう同窓生も少なからずいるということです。
それを考えると、一時的な郷愁、慰みの時間を昔の友と共有できることは幸せなことだと思います。特に、私のように大学生活からずっと東京にいる者には、たまに帰ることだけでも懐かしくてたまらないのです。幼少、少年時に歩いた場所、遊んだ辺りを頭で追いながら、実際に帰郷しては過去の時間を確かめるように歩いたりします。確かに時を経て、変わったものは多いけれど、変わらないものもあるのです。
人は同じように歳をとります。同じように時間が過ぎます。友人たちの顔を見ていると、歳をとることは何ら恥ずべきことではないと思えてきます。みんな同じ時間が流れたからです。男子も女子も。
―― おのこ(男子)らは強く豊けく、おとめご(乙女子)は聡く優しき
中学校の校歌の一節も、自然と口に乗ってきます。つらいことも、悲しいことも超えて、同じようにここにいるのです。ここにいることに、「ありがとう」と言いたくなります。
時はまた、無情です。次に逢える時は、また何人の同窓生が集まれるでしょう。時間は平等でもありながら、これからはその人の時間を蝕んでいくこともあるのです。しかし、いつでも時を超えることが出来るのも人の意識であり、心でもあるような気がします。
プルーストの長い長い小説の最終章、主人公が意識の中で、サロンに集まる貴族たちの容貌の上に流れる歳月の跡を回想する場面があります。時間という波が容貌という岩を侵食しながらも、厳然と荒海の中で立っている、そんな貴族の顔 ―。
「おのこら」も「おとめご」も、そうありたい。
今回、所在が確認できた人数は325名。それでも、110名ほどの同窓生が一同に集まるわけですから大変なものです。前回、4年前の時はこれよりさらに多くの同窓生が集まったのです。各担任の方も出席されていました。ただ、残念なことにすでに物故されていた先生もいらっしゃいます。考えてみれば、当時担任だった先生の年齢よりも、今では私たちの方が上に行ってしまっているのです。
前回も、今回も、オリンピックではないですが、4年ごとに全同窓生の所在確認、連絡、主催と、地元に残って力を尽くしてくれた同級生の開催委員の人たちには、大変お疲れ様、感謝、感謝です。
不思議なもので、人間の意識というものは、20年、30年という時間をあっという間に超越してしまうものです。おそらく、街で通り過ぎて誰だったか気がつかなくても、こういう同窓会の場に来ると、顔の面影、名札を見ただけで、一瞬に時を越えて当時に戻るのです。
そこには、今の職業や地位は関係ありません。当時のクラス社会のそれなりの位置関係に自分が戻るわけです。まったく他意のない自分たちに戻り、当時を懐かしみ、楽しみ、浸るのです。
もっとも、都合があって来られない人は別としても、ここにこうして来られる人は、少なくとも不幸ではないと同窓生が言ってました。痛ましくも病気や事故で亡くなったりした友人もいるとのこと。所在が不明、所在が分かっても連絡が取れない、何らかの問題や不幸を抱えていてここには来られない、そういう同窓生も少なからずいるということです。
それを考えると、一時的な郷愁、慰みの時間を昔の友と共有できることは幸せなことだと思います。特に、私のように大学生活からずっと東京にいる者には、たまに帰ることだけでも懐かしくてたまらないのです。幼少、少年時に歩いた場所、遊んだ辺りを頭で追いながら、実際に帰郷しては過去の時間を確かめるように歩いたりします。確かに時を経て、変わったものは多いけれど、変わらないものもあるのです。
人は同じように歳をとります。同じように時間が過ぎます。友人たちの顔を見ていると、歳をとることは何ら恥ずべきことではないと思えてきます。みんな同じ時間が流れたからです。男子も女子も。
―― おのこ(男子)らは強く豊けく、おとめご(乙女子)は聡く優しき
中学校の校歌の一節も、自然と口に乗ってきます。つらいことも、悲しいことも超えて、同じようにここにいるのです。ここにいることに、「ありがとう」と言いたくなります。
時はまた、無情です。次に逢える時は、また何人の同窓生が集まれるでしょう。時間は平等でもありながら、これからはその人の時間を蝕んでいくこともあるのです。しかし、いつでも時を超えることが出来るのも人の意識であり、心でもあるような気がします。
プルーストの長い長い小説の最終章、主人公が意識の中で、サロンに集まる貴族たちの容貌の上に流れる歳月の跡を回想する場面があります。時間という波が容貌という岩を侵食しながらも、厳然と荒海の中で立っている、そんな貴族の顔 ―。
「おのこら」も「おとめご」も、そうありたい。