FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『死の島』は若き頃の自分だ

2016-08-31 00:54:17 | 文学・絵画・芸術

若き日の小説

僕が今よりずっと若い頃、つまり20代に読んでいたら、かなり夢中になった小説だろうと思う。この頃は、野間宏『青年の環』や埴谷雄高『死霊』などにかなり夢中になっていたし、前衛的な小説作法にも敏感だったから。それにベックリンの名画「死の島」のイメージがどうしようもなくついて回っていたからだろう。 

なにしろ、あの頃は『死の島』(福永武彦)は文庫でもなかったし、単行本も古本屋では見かけなかったと思う。全集か作品集は出ていたかもしれないが、とんとお目にかかっていなかった。というより、当時自分の関心が文学どころでなくなったからだろう。きちんと収入を得なければ自分も家族も大変なことになる頃だったので。 

今では、福永武彦の名は一部の文学好きに読まれるくらいだろうか。まして『死の島』ともなると、どれだけの人が読むだろうか。とはいえ、一部の熱狂的なファンはいるのかもしれない。僕は一度、どこでも手に入らなかったこの小説を図書館で見つけて上巻だけ読んだ記憶がある。その時は内容が青臭い文学、小説好きの学生が書きそうな小説を読んでいるようで(それはつまり、かつての自分であったが)、なんとなく下巻まで読む気がしなくなったのを覚えている。 

■ふたりの女

主人公の相馬鼎という男(編集者)が、どうにも作家を目指していた自分に似すぎていて、小説の創作ノートをいつも持ち歩いたり、女性をすぐに好きになるわりには、なかなか先まで進展しない(進展できない)たちで、自分でもそうだが、はたから見たらかなりじれったくて青臭い若者なのだ。そんなところが、自分でも鼻に付いたのかもしれない。 

ところで数ヵ月前、よく通りかかる古本屋で初版本上下2巻合わせてなんと105円だったので買ってしまった(現在、この作品を買うには講談社文芸文庫で新本上下合わせて4千円以上もするのだ)。それで読み返してみると、やっぱり上巻だけ読み通すとあの頃の感想と同じだった。

改めて感じたのは、相馬が同時に愛する(恋する?)2人の女性は、若い頃の自分であったら、やっぱり夢中になってしまうタイプである。相馬のように、たいして親密に付き合ったわけでもないのに(つまり3人一緒に食事したり、芸術論ごっこしたりする程度の仲なのにという意味で)、2人の女が服毒自殺を図ったという電報を受け取ると、東京から広島まで仕事をうっちゃってまで駆け付ける。この小説の年代背景では、特急を飛ばしても一昼夜かかる距離でもだ。 

文学臭いこの青年のように、若い時の僕もきっとそうしたに違いない、身内の女たちでもないのに。一人目の女性画家は、被爆者で絶望を引きずっている。その陰りには美人であるから余計、同情っぽい、安い愛情を抱いてしまう。そういう女に会うと、すべて見透かされているようでありながら、その女のために死んでもいいから何かしてやれればいいと思ったりする。ところが、実際には現実にできることは何もないのだ。軽くて重みのない男の自分を感じ、恥じ入っているしかない。 

そしてもう一人、品の良いお嬢さんタイプで可愛らしい清廉な女性、実は突拍子もないことをやってしまう彼女にも魅かれる。普通の可愛いだけの女性ならそこまで思わないが、家出をしたり、風来の男につかまって同棲し捨てられ(捨てた?)たり、しまいには同居する女性画家に誘われて自殺まで図ってしてしまう。 

■小説の技法はどこへ行くのか

上下巻通して話自体は複雑ではないが、時制を前後させたり、現実と虚構(創作)を織り交ぜたり、内的独白を絡ませたり、方法的にかなり凝っているので、そういうことに興味があった若い時分の僕だったら、かなり夢中になっていたかもしれない、等身大の自分の反映としても。ストーリーだけを素直に時系列順に読んでいっても、十分楽しめる作品ではあるが、今となっては、そういう技巧的なところが鬱陶しく思えるところもある。時制を細かく前後させる意味や基準があろうとは思うが、それを探るまでの労力を取ってまで、今では読もうとは思わない。 

小説の方法も読んで楽しめるのは、せいぜいプルースト(『失われた時を求めて』)あたりまでかなと思う。フォークナーやマルケスあたりになると、すごいとは思うけれどちょっと疲れるところがあるし、これからの小説の方法というのはどうなるのだろうか。

 

 


『黒死館殺人事件』 ~ 日本の「三大奇書」を読んでみて

2016-08-29 05:29:19 | 文学・絵画・芸術

日本の「三大ミステリー」とか「三大奇書」と言われる作品を、これで一応全部読んでみたことになる。どれも推理小説とかいう枠内に入れて読むと、読み切るのが困難だと思う。僕の場合は、文章(文体)が読むに耐えられるかが大きな要素だ。いくら推理小説として面白そうな展開でも、文章が読むに堪えないと続きを読むのが苦痛になる。

■『虚無への供物』

『虚無への供物』(中井英夫)は、3作のうちでは最も惹かれる文章だった。ストーリーにもぐいぐい引かれるが、1つ1つの文章は魅惑的で、この作者の他の作品にもつい手が出てしまった。もうずいぶん前に読んだので、内容は全く覚えていないが、この3作のうちでは一番楽しく一気に読んだのを覚えている。なにしろ、これはミステリーとか奇書という以前に面白い文学、面白い小説と読めた。 

■『ドグラ・マグラ』

『ドグラ・マグラ』(夢野久作)は、当初これを読むと「精神に異常をきたす」とか「頭が狂う」とかここかしこで書かれていたので、まさかそれを本気にしていたわけではないが、遠ざけていたのも事実だ。というのも、しばらく仕事でストレスを抱えていた時期があって、気晴らしにミステリーでも読もうかという気になってこの本にぶつかったのだが、ストレスで落ち込んでいるときに、このうえ気がおかしくなったらたまったものじゃない、と思ったからだ。というより、元気になりたいのに、「精神がおかしくなるぞ」と言われたら、そんなものは遠ざけるのが普通だろう。 

その後、普通並みくらいに活力が戻り読んでみた。読んでみれば、精神病理や異常心理などをテーマとしているとはいえ、すごくまっとうな小説で、途中読むのに疲れるところがあったが、作者の文学的思惟(思想とまではいかないが)に支えられた文体も、めくるめく堂々巡り(「ドグラ・マグラ」というのはそういう意味らしい)で、結構読みごたえがあった。精神社会への、1つの内的告発と言えるかもしれない。 

■『黒死館殺人事件』

3作目が、この『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)である。正直言って、なんだかよくわからないで読み終わった小説である。やたらペダンチックで、いろんな分野の引用や注釈が出てきて、読むのを断念させるとよく書かれているが、僕にとっては、それはほとんど問題にならなかった。というのも、その文体がきちんと知識と学に裏付けされたものなので、むしろその文章そのものを楽しむことさえできたからだ。ただ、それゆえに文に装飾がありすぎて話の進行がちっともわからないところがあった。

そもそも誰が殺されていて、誰が疑われ、どういう手口であったのか、何が謎になっているのか、読んでいるうちに忘れ去られてしまうほどなのだ。こういうことだから、結局誰が真犯人だったか、殺害動機は何か、どういうトリックがあったのかなどどうでもよくなってしまう。つまり、作者が殺人事件をネタにどれだけの小説という伽藍を築きたかったのか、そこに落ち着いてしまう。だからと言って、駄作とは言わない。その伽藍が、どういう仕組みでどういう風に築かれているのか、それを楽しみたくてもう一度読んで確かめてみたいと思うのである。 

結論を言うと、3つの作品とも、1回読んだだけではよくわからない。できれば1回目はさわりとして大方のあらすじをつかんで、2回目にじっくり確認しながら読むと面白いのだろう。そうすると、どれも結構夢中になれる作品なんだと思う。

● 夢野久作 『ドグラ・マグラ』 ~ 潜在意識の遺伝と死美女の犯し