FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

オバマ氏勝利演説 ― 人の心を動かす「文章学」

2008-11-30 02:57:27 | 政治・社会・歴史
オバマ氏が大統領選に勝利してから、3週間ほどたちます。

勝利宣言の日、テレビに映るオバマ氏の演説に思わず釘付けになってしまいました。オバマ氏の演説の仕方にしてもそうですが、テロップで流れる演説の文章が、あまりに分かりやすく、かつ心を打つものだったからです。翌日の新聞に演説の全文が載っていたので読まれた方もいるでしょう。

テレビでは、泣いている黒人の姿が映っていました。黒人初の大統領という歴史的な瞬間だからということもあるでしょう。遅ればせながら最近、私もじっくり演説文を改めて読んでみました(英文は分かりやすく簡単な文章で書かれています)。

文章のところどころで、ぐっと来る箇所がありました。これまで虐げられてきた黒人の歴史が塗り替えられようとしている、その瞬間に立ち会っている黒人の心の中に少しでも入ってみれば、日本人でも感じ入るでしょう。

大統領選には、いろんな分野の専門家がチームを作ってフォローしていると言われます。政策や経済担当はもちろん、マーケティング・広報担当、役作り担当、演説スピーチ担当、スタイリスト・・・、さながら大ヒット映画を製作する映画プロジェクトチームのように。演説文章も専門のライターがいます。今回のスピーチライターの文章は、一つの名品といえるでしょう。これは、一編の詩であり、歌であり、そして小説です。

スピーチライターが書いたとしても、オバマ氏の思考・思想の反映であることに違いはありません。彼のキャラクターと人種と歴史とスピーチが、これ以上なく噛み合った、非常に巧みな、そして感動的な勝利演説でした。

演説文は、視線をできるだけ落として書かれています。これは虐げられて、生活身分の低い大多数の黒人人種を意識したものと見られます。かつて、名演説と言われたケネディ大統領の就任演説は、誇り高く上を向いた文章でした(就任演説と勝利演説を一緒に比較はできませんので、オバマ次期大統領の就任演説を読んでから比較してみたいと思います)。

Yes, we can   Yes ,we can   Yes, we can

演説文の最後のほうでは、このフレーズが何回も文章の中で繰り返されます。それがまた、希望と勇気を与えてくれるのです。貧しい人、年取った人、普通の人、日陰にいる人、病の人、悲しんでいる人、不幸な人、孤独な人・・・、もし、誰かが見向きもしなければ、この地球上で一度でも注目されない人、日が当らない人、そういう人たちに言葉を添えて、勝利の感謝をささげるオバマ氏の声、この一声で、下層にいる黒人たちのすべてがこのアメリカに生きているという証を与えられたのです。これを聞いて黒人の有権者たちが泣かないはずがありません。そして、このことに思いを馳せる人なら、日本人でもちょっとこみ上げてくるのです。

ついでに言えば、この演説文の中には、キング牧師の言葉や、過去にあった黒人に関わる悲しい事件のキーワードや歌詞がいくつも挿入されているとのことです(残念ながら、日本人の私には直感的にはわかりません)。これがまた、黒人の歴史を知る人にはぐぐっ、と来るのでしょう。

文章だけで人の心を動かすことは難しいことです。この勝利演説の文章が感動を呼ぶのは、歴史を変えた勝利をともに祝福するという、大きな現実の重みがあるからなのでしょう。そういう意味で文章は、現実や真実が伴っていなければ、なかなか人の心に伝わらないものなのです(自戒をこめて)。

カラマーゾフの「尋常ならざる者」と経済学

2008-11-28 02:36:40 | 文学・絵画・芸術

前回(11/24『「甦る」ドストエフスキー』)、『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物の一人(ドミートリー)が尋常ならざる人物だと書きました。いや、ドストエフスキーに出てくる人物は、たいてい尋常ならざる者なのです。

『罪と罰』のラスコーリニコフにしたって、自分の存在思想を明証したくて、金貸し婆さんを殺してしまうわけです。『カラマーゾフ』のイワンにしても、自分の無神論を証明したくて、あげくは狂気となってしまいます。美人すぎる美女が主人公を翻弄したり、それはまあ、まともな人物を探すほうが難しいでしょう。だから、ドストエフスキーは面白いのですが。

まともといえば、『白痴』のムイシュキンや『カラマーゾフ』のアリョーシャは、逆にまともすぎて、「尋常ならざる」人なのです。こんなにまともな人がこの世にいるのだろうかと思われるくらい、つまり、馬鹿なくらい心がきれいなのです。それをドストエフスキーは「白痴」と名づけました。つまり、「白痴的聖人」なのです。

もう、読んだ方にはお分かりのことと思いますが、「白痴的聖人」とは、他人から見ると馬鹿みたいに心が美しい人、自分の損得を考えない人、人の幸いをまず先に考える人―、そうです、「イエス・キリスト」なのです。これはこれで、恐ろしく「尋常ならざる」人なのではあります。

とにかく、こんなすごい人間が次から次から出てくるのですから、青年の頃の私はたまったものではありません。超・個人主義の思想に固まっていました。つまり、世の中より自分が中心だということです。これは、自分勝手なわがままとは違います。まず、自分の思想があって、その思想を証明したり実現するために世の中に尽くすのだという考えです。こうして私は、哲学者であり、作家であることにあこがれたのでした。そういう意味では、私自身も「尋常ならざる者」(かつて)なのでした。

さて、こうした次第ですから、その後社会に出て、小説や哲学書ばかり読んでいられなくなってからは、会計学や経済学の書などを本格的に独学しました。そして、いつも思ったのは、経済学では貯蓄性向がこうなると投資性向がこうなるとか、利子が上がると投資はこうなるとか、「こうなると、ああなる」、あるいは「市場は常にこれこれである」という、決め付け主義に非常に違和感を感じたことです。

「いや、イワンならこうしない」、「ラスコーリニコフならこうする」、ドストエフスキーの人物なら世の中がそうなったからって、みんながみんなそうしない、と心の中で反論したものです。なぜ、みんながみんな、同じ行動をするのだ、そう思いながら、ひとつひとつの経済理論が受け付けられませんでした。そんな理屈ばかり考えながら勉強していたので、公認会計士試験にはとうとう受からなかったわけです(どうでもいいですが)。

だいたい、前回にも書きましたが、ドミートリー・カラマーゾフみたいな人物が一晩や二晩で500万円も飲み食い、どんちゃん騒ぎして使い果たしてしまう(今でも、金持ちの有名人なら歓楽街で見かけるかもしれません)、こういう人間には、経済学は通用しないものなのです。まして、最新のポートフォリオ理論とか投資理論は関係ありません。いくら高度な金融工学を駆使しても、カラマーゾフ一族のような人物が100人でもアメリカにいたら、もしかしたらサブプライム・ショックはなかったかもしれません。バブルの崩壊は、えてしてみんながみんな、同じ行動を取るところから発生するからです。

最近は、経済学の中でも、個人の心理行動を重視した「行動ファイナンス」(行動経済学)という分野が発達してきているようです。しばらく、この学問の成果を見てみたいと思います。いずれ、ここで紹介したいと思います。


「甦る」ドストエフスキー

2008-11-24 02:47:06 | 文学・絵画・芸術
最近、うれしいことにドストエフスキーの『罪と罰』の新訳が出ました。光文社古典新訳文庫で、全3巻のうちまだ第1巻ですが、年内に残りが出れば、年末年始に一気に読めそうです。

訳者は亀山郁夫さん(ロシア文学者)。同じ亀山氏のドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は、昨年出版されて以来、全5巻で100万部も売れているそうです。もともとドストエフスキーの小説は、少なからぬ愛読家には読み継がれてきていますが、一気に起きたこのブームは、やはり新訳のおかげかもしれません。

私は、外国文学を読むときは訳者にこだわるほうです。学生時代にドストエフスキーの五大作(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)はすべて読んでいましたが、その時の訳は米川正夫氏の個人全訳全集でした。米川氏の訳は今でも文庫で出ていると思います。ロシアの、あの時代の暗い雰囲気、大地の冷たさ、ドストエフスキー独特の作風からして、米川氏の多少古臭い大仰な表現がぴったりに当時は思えました。

「なあ~にを言ってるんだい、君は。いいかい、もしこの世に神がいなければ・・・」

彼は、いひひひひ、と気味悪く笑った。

「いいか、よく聞くんだよ。美、美とは恐ろしくおっかないもんだよ、なぜって、美というやつは・・・」

こんな感じの表現に感化されて、自分でもついつい知らずに書いていたものです。ですから、いつか作品を読み返す時は、絶対米川氏の訳で読むつもりでいました。ところが、昨年、書店の棚に積まれた亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』新訳を手にしたとたん、読み返したい気持ちが急に湧いてきて、今頃の時分、一気に全5巻を読んでしまいました。

『カラマーゾフ』は面白い。こんな面白かったかと呆れて思いました。初めて読んだ時は、高邁な哲学や難解そうな宗教観、無神論思想などそれなりに興味を抱きましたが、小説としては少し退屈するところもあったように記憶しています。しかし、少しは人生経験を積んだおかげか、今回はそれなりに理解でき、ドストエフスキーの世界にどっぷり浸ることができました。

新たに分かったこと。それは『カラマーゾフ』は通俗性の強い小説であるということ。思想や革命、信仰、愛などについての文学・芸術性は別として、全体の物語を強烈に引っ張っていくのは、この通俗性であるということです。人間そのものが通俗である―、男と女の情欲の関係、金、欲望、憎しみ、情愛、カーニバル(どんちゃん騒ぎ)など、通俗の要素が物語をぐいぐいと引っ張っていく力となっています。また、親殺しの犯人探し、裁判での論争対決、男と女の愛憎を絡めたミステリー仕立ては、まるで現在のミステリー小説やドラマを見ているようです。いや、それよりもずっと上質であるといえます。

ところで、この小説には3,000ルーブルという大金を貸したり借りたり、隠したり持ち逃げしたり、ということが描かれており、この大金が一つのキーワードになったりしています。小説の中の感覚からして、今の日本円で500万円くらいという感じでしょうか。この金額を、主人公の一人(ドミートリー)はしばしば、寝ずにぶっ続けで飲み食いし、男女かき集めて大騒ぎし、いっぺんに使い果たしてしまいます。だから、いつもお金がない。それで、憎んでいる父親のところにせびりに行くわけです。それにしても、500万円のお金を手にしたとたん、寝ずに飲み食い騒いで散財するというのは尋常ではありません。ライフプラン的には、一生に10回ぐらいは破産しているでしょう。しかし、文学的にはこういう尋常ならざる人物が物語を作っていきます。

言葉や文章は時代とともに変遷します。翻訳の文章も変わっていきます。昔の時代を映す昔の文章もそれなりに味わいがあり、ノスタルジーを感じさせますが、新しい解釈(上記文庫の第5巻に亀山氏の詳しい論説が載っています。これがまた新解釈で非常に興味深い)による新しい文章、現在の感覚で読める翻訳文もそれなりにいいものです。これでドストエフスキーが「甦る」と言われています。ですが、すでにドストエフスキーは少なからぬ愛読者には読まれてきていますから、「甦る」というよりは、新しい言葉で「読み替える」ことで新たな魅力を発見できるのではないかと思います。

『罪と罰』が楽しみになりました。


誰もが「富まざる者」になる時代 (下) 

2008-11-23 00:19:04 | シニア&ライフプラン・資産設計
退職者の「働き学」

日本人の平均的な男子の賃金構造は、50歳代前半を頂点に55歳から下がり始め、50歳代前半から50歳代後半への昇給率(じつは降給率)はマイナス7%前後、50歳代後半から60歳代前半への昇給率(降給率)はマイナス30%前後となっています。現在の日本人は、8割の人が経済的不安から老後も働かざるを得ない状況にあります。そこで、老後の働き方がいくつか挙げられています。一つは、雇用延長や再雇用制度で正社員として働く人。二つ目は、パートに近い形で非正規社員や業務受託という形で働く人。最後は、個人で独立する人。

今の日本の雇用では、再雇用で正規社員で働くにしても定年前後で減給されます。定年後もパートなど非正規社員で働く人は、時給雇用が多くなるでしょう。定年退職時に老後の貯蓄がほとんどない人は、それ以降はその日の生活が成り立てばいいというわけにはいきません。働けるのは、せいぜい65歳まで、健康状態や雇用状況に恵まれたとしても70歳までが限度でしょう。となると、70歳から平均余命の82歳(男性)までの12年間(場合によっては、90歳以降も生きてしまうという「生きるリスク」に晒されてしまう)の生活費を、60歳から70歳までの間に稼がなければならないという現実が待っています。


健康であれば90歳まで働くか?

ここで気になるのは、もらえる年金の額です。厚生年金の受給額は加入期間と収入によって変わってきます。在職老齢年金については、ここでは詳細を省きますが、報酬と年金の合計が一定額を超えると超える割合によって厚生年金が減額されていきます(基礎年金は満額受給)。

また、65歳以降も年金をもらわずに働く場合、年金の受給時期を70歳まで遅らせて、繰下げした分の割り増し年金をもらったほうが得だと思う人がいるでしょう。
「65歳から70歳までもらうべき年金を我慢してもらわずに働くのだから、その間の年金は減らされないだろう」
ということです。ところが、実際は働きながら年金をもらおうがもらうまいが、厚生年金に加入している以上は在職老齢年金が適用されます。計算上で減額された年金額をもとに割り増しされた額が、後ろの年齢に繰り下げられるだけです。もっとも、年金が減らされても給料と合算すればそれなりの収入になるわけですから、これはこれで良しとしなければなりません。

働けるうちはまだいいほうです。少しきついかもしれませんが、健康で、かつ働く場さえあれば、非正規社員で80歳、90歳でも働くことは可能です。ただし、60歳を過ぎていくほど、よほどの知識や技術(それに体力!)がない限り賃金は低くなっていくと覚悟したほうがいいでしょう。

これからのリタイアメントプランは、60歳からどのように働くか、何歳まで働くか、あるいはどれだけの賃金で働けるか、それに見合うだけの技量をいつまでに身に付けておくか、こうしたことを在職中に決めておくことが重要なテーマとなってくるでしょう。


誰もが「富まざる者」になる時代 (上)  

2008-11-22 01:16:34 | シニア&ライフプラン・資産設計
最低賃金より生活保護を選ぶ

何年か前、将来大幅な赤字が発生した時のライフプラン対策として、「生活保護を受けさせる」というFP講座の受験生の回答を聞いたことがあります。冗談とも本音ともとれる回答に、笑うに笑えず、思わず考えてしまいました。

実際に生活保護を受けるには、それなりに審査があります。働く意思が持てて健康体の人、少しでも貯蓄がある人などはまず、生活保護は受けられる可能性は低いようです。係の人に「保護をあてにする前に、さっさと職を探しなさい」と言われてしまいます。

じつは、今回(9月)の最低賃金法改正で引き合いに出されたのがこの生活保護です。要するに今の最低賃金で働いても生活保護扶助よりも下回るようでは、労働意欲が削がれてしまうということなのです。では、実際にどれくらい賃金が上がるかというと、全国平均で時間給が15円程度、現在の687円(2007年度平均)から700円強となる見込みです。これでもまだ、先進各国に比べ一番低いほうです。
 
ほとんどの人が、自分は生活保護や最低賃金なんて関係ないと思っていることでしょう(確かに、関係ないほうがいいかもしれません)。年収が平均並み、いやそれ以上なら、定年まであるいは定年後も今の生活が維持できる・・・と。


「富める者」から「富まざる者」へ

かつて(つい最近まで?)アメリカは、「富める者は、より富める者に」の時代でした。今は「富める者も、それなりに富まざる者に」なりつつあるようです。つまり、お金が多く入れば、それなりにお金を多く出してしまう(使ってしまう)ということです。入った分だけ出してしまうから、お金が貯まらない。しかも、一度レベルを上げた消費や生活は下げることが出来ないという哀しい人間の性(さが)があります。こうして、中流所得以上の生活破綻者が珍しくなくなっているとのことです。さらにサブプライム・ショック後は、家を手放し、車を手放し、職を失い、「富める者も富まざる者も、より富まざる者に」―、という恐ろしい現実になりつつあります。これは、アメリカのことだけとは到底思えません。

もうひとつの盲点が、「今が同じであれば、先も同じ」―、多くの人がこの考え方から抜け出せないでいることです。どういうことかと言うと、たとえばサラリーマンが現役で年収700万円もらっているとします。定年までは最低限、今の収入が保証され、定年後には再雇用制度や再就職で働いても、やはりそれと同じレベルの給料がもらえる、という「幻想」です。(下に続く)

「サルにも負ける」投資論(下)

2008-11-20 01:32:10 | 経済・金融・ビジネス
「神の手」に勝てない論者たち

富裕層向けにサービスが始まったラップ口座。最近では300万円から口座が開設でき、こちらはファンドラップとも言われます。プロのファンドマネジャーが資金を丸ごと運用してくれます。しかし、成績は芳しくないといいます。「プロが下手だから」と言って、口座を開設したばかりの投資家が解約していくそうです。プロが下手なのか、市場環境が悪化している時期なのか、はたまた投資家が「神の手」よりはるかに高い成果を求めているのか-。

アクティブ運用が悪いのではありません。巨額の投資資金を預かって、投資家の高い欲望に応える(運用者自身も高い報酬を得る)には、市場の成果をはるかに超えるための投資手法が必要です。ファンドマネジャーは決して無能ではありません。高度な金融工学や統計学、財務知識を駆使して、最新のポートフォリオ理論をマスターし、細密な調査を積み重ねた上で星の数ほどある中から銘柄を組み合わせていきます。そうした彼らがなぜインデックス運用に勝てないのか。それは、「神の手」に勝てないのではなく、人間の欲望というものに勝てないだけなのです。

50年前に日経225に1万円を投資していれば、50年後の今には500万円の株価になっています。経済は資本主義の宿命として半永久的に成長を続けなければならない。市場にさえ投資していれば誰でも投資額が10倍、100倍にもなりうる・・・。これが現代投資理論の帰結のように言われています。しかし、アクティブ・パッシブ論争は途絶えたわけではありません。「市場と同じ相場に投資するのが投資といえるのか」、というアクティブ論者の声があります。また、アクティブがパッシブに負けた、と断言しない論者もいます。


無理な投資に向かない日本人

いずれにしろ、今まで貯蓄に慣れ親しんできた日本人、プロを雇えるほど富裕でない日本人の多くは、今のところ無理な投資をするよりはインデックスファンドやETFのように「市場」に投資するほうが、無難ではないかと思えてきます(それでもリスクはあります)。

「貯蓄から投資へ」という掛け声に決して踊ってきたわけではない(踊れなかった)日本人。かつて、10年で元本が2倍になる時代、私たちは投資の理論など必要ありませんでした。銀行や郵便局に放り込んでおけばお金が2倍になるということを知っていたからです。また、家計資産のうち、年収に数倍の梃子(レバレッジ)をかけた負債(住宅ローン)をもつ日本人が、そうそうリスクの高い投資行動に移れるものではありません。これまで貯蓄に励んできた日本人は、じつは「サルにも負けない」投資法を知っていたのかもしれません。

投資は必要だといいます。しかし、投資を学べば学ぶほど、投資の本質が分からなくなる時代です。投資とは、いつも増えるものではなく、いつ減るかわからないもの、なのです。将来、お金が足りなくなる、だから今のうちから投資に励めと言われます。でも、それは「運用しないからお金が足りなくなる」というふうに論理がすり替わっています。お金が足りなくなるのは投資しないからではありません。支出が多いか、収入が足りないかです。足りなければもっと多く、もっと長く稼ぐ、あるいは反対にお金を節約すればいい。投資はそれからです。生涯たかだか数百万円程度しか投資できない私たちにとっては、運用の専門家向けの投資理論がそのまま当てはまるものとは思えません。

私たちは、せいぜいサルと一緒にバナナを食べたあと、その皮を「市場」に放り投げてやりさえすればいいのです。そこには「神の手」(インデックス)で組まれたポートフォリオがあるのだから。

「サルにも負ける」投資論(上)

2008-11-19 01:43:16 | 経済・金融・ビジネス
「市場」に投資する正道

今また、インデックスファンドに加えて、ETFが注目されています。インデックスファンドとは、日経225やTOPIX(東証株価指数)、ニューヨーク・ダウなど指標の動きに合わせて投資するファンドで、いわば「市場そのもの」、分かりやすく言えば、市場の平均と同じ投資成果を求めるものです。いっぽう、ETF(Exchange Traded Fund、指数連動型上場投資信託)は、簡単に言えば上場しているインデックスファンドのようなもので、上場株式と同様の取引ができます。手数料の面でも投資信託より安い。最近、商品(コモディティ)や金の価格に連動するETFまで上場されています。

「今また」と書いたのは、指標に連動させるインデックス運用は、ある時期から投資の正道のように言われていたからです。『ウォール街のランダム・ウォーカー』(バートン・マルキール著)だったと思いますが、アクティブ(積極)運用はパッシブ(消極)運用(=インデックス運用)に勝てないということを言っています。アクティブ運用とは、市場の平均を超える運用を目指すものです。

ファンドマネジャーは、インデックス(ニューヨーク・ダウ工業株35種)に対してどれだけの確率で勝てるか、という実験が米国で行われたことがあります。結果は、勝ったり負けたり。いや、負けのほうが込んでいました。つまり、運用のプロ、ファンドマネジャーは市場の平均にさえ勝てなかったのです。素人が個人で、ニューヨークのダウ指標と同じ銘柄に投資しても、運用のプロが独自の調査と手法に基づいて積極的(アクティブ)に成果を得ようと運用しても、結果はさして変わらないということになったのです。ここからファンドマネジャー不要論まで出ました。


目隠ししたサルの投資法

株式相場が酔っ払いのようにランダムに動く(ランダム・ウォーカー=千鳥足の酔っ払い歩き)なら、サルがやっても同じです。サルに目隠しし、銘柄ボードめがけてダーツを投げさせ、的が当たった銘柄順にポートフォリオを組んでいってもファンドマネジャーに勝てる。ここから「サルにも負ける」と言われるようになりました。

相場がランダムに動く、その動きを人間は予知できない(予知できれば皆が金持ちになるでしょう)。だから、サルに目隠しして的を当てさせる投資でいいと言われたのです。市場を知るのは「神」のみで、「市場には神の手がある」と言われました。インデックスの動きには、まさに「神の意思」が宿っているのだから、サルにも勝てない人間がそれを超えることなどできっこないという論調が強まりました。せいぜい、「神の手」で描かれた線(チャート)の上を、酔っ払いみたいに千鳥足で歩くのみです。

それでも「神の意思」に逆らおうとしたのが人間で、「神」を超えようとするアクティブ論者と、「神」に従順になろうとするインデックス論者との「対立」が始まったのです。市場と同じ確率で、同じ成果を出すことに満足していれば、「神」の子のままでいればよかった。しかし、人間の欲望がそれを許さなかったのです。

資産は増殖させなければならない―。そう望む投資家の欲望を満たすために、高い顧問料が払われて運用の専門家が雇われました。こうして「高収益を目指すファンド」が誕生したのです。(下に続く)

ライフプランに「一律」や「平均」はない

2008-11-17 01:02:50 | 政治・社会・歴史
麻生首相を見ていると、総理大臣になりたくてなりたくて、やっとなれたという感じで、これからは自分の時代だ、という雰囲気が当初伝わってきました。所信表明演説で小沢代表を挑発するように逆質問したり、今回の定額給付金の発表の時も満を持して(?)登場、意気盛んに見えたものです。

ところが、最初は「全国民に支給する」が「高額所得者は除く」とか、「いや、やはり全員だ」、「所得制限を設けろ」、「高額所得者は辞退してもらう」などと、迷走しています。麻生首相、威勢よく追加経済対策として花火を上げたのはいいですが、最近はだんだん、この件については声がしぼんでいっているように見えます。

この迷走ぶりの根本にあるのは、国民を皆、一律として考えていることです。そう考えること自体、政治上、間違ってはいません。しかし、人は、それぞれライフプランがあり、家庭の事情はそれぞれなので、その事情に任せればいいのではないでしょうか。所得の数字に比例して楽な生活をしている、と決め付けるのは早計です。お金があっても貯蓄ができなかった人、事業で借金がかさんでいる人(こういう人に1回こっきりの1~2万円のお金がどれだけ役に立つかわかりませんが)、介護など何らかの事情で毎月の費用がかかる人、さまざまです。逆に年収が低くても資産が多くて、裕福に暮らしている人もいます。つまり、「辞退」ということを制度に盛り込もうとしたことに無理があったのです。

一律全員に、というのが政府としては国民に対して平等であるということなのでしょう。しかし、ライフプランでは「一律」とか、「平均」という概念はありません。全国民が皆「それぞれ」なのです(小泉元首相はこの点、「人生いろいろ」と言ってましたから、まだ理解していたようです)。ライフプラン設計の便宜上、年収、生活費、教育費や老後資金などのデータを使う時には一律に全国平均を引っ張ってきますが、人の生活は全国民一律であるはずがありません。ここを誤ると、たとえば「老後資金が平均よりいくら足りない」と、いたずらに不安に陥ってしまい、そればかりにとらわれて、暗い人生を送ってしまいがちです。

話を元に戻しますと、お金が不要な人はわざわざ国(判断は市区町村がするそうですが)に言われるまでもなく給付金をもらうのを辞退する(もらいに行かない)でしょうし、反対にお金持ちでも欲しい人はもらいに行くでしょう。辞退するとかしないとか、あまり国が言うことではないような気がします。

年に数千万円や億ももらっている人が、平日の昼間に市役所の窓口に引換券を片手に並ぶかというと、とうてい想像しにくいのです。そういう人たちは経営者や会社役員や専門職、スポーツ・芸能など本業で忙しい人たちだと思います。辞退というよりもらいに行く暇がないでしょう(もらいに行くなと言っているわけではありません。それでもその人の家族が代わりに窓口に並ぶかというと、それも、どうも考えにくいのです)。

そもそも、この給付金制度そのものが愚策と言われているのですが、国が「全国民が平等に」という、その意味の根本が違っているように思えるのです。


風神・雷神 ~ 大琳派展

2008-11-13 01:01:02 | 文学・絵画・芸術

 風神・雷神(俵屋宗達)

東京国立博物館で「大琳派展 継承と変奏」をやっています。

先日、見に行ってきました。
これは、一見の価値があると思います。私は、時々展覧会や絵画展などに行きますが、一つ一つの作品を満遍なく丁寧に見るというより、お目当ての1点か2点しかじっくり見ません。ほかのものは、ほとんど早足で駆け抜けてしまいます。ですから、一緒に行く人(たいてい妻ですが)を置き去りにして出口で待っています。そのかわり、お目当ての作品の前で長いこと陣取ったり、出口の手前まで来て、また人ごみを逆流してその作品のところに2~3回戻ったリ、かなりほかの人に迷惑な行動をしているのではないかと反省しています。が、こればかりは仕方ありません。

ところで、この展覧会のお目当ては「風神・雷神」図です。今から行かれる人は、これだけ見るだけでも1,500円払う価値があると思います。入ってしばらく歩くと、その一角だけ別次元となっていて「風神・雷神」だけの世界が一堂に繰り広げられます。俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一、この4人の作家の屏風絵、襖絵が金箔を背景にして浮かび上がってくるのです。

今回の主役は琳派の創始者、尾形光琳となっていますが、「風神・雷神」に関して言えば、圧倒的に俵屋宗達のものが迫力あります。ほかの三者の絵は宗達の模写ですからやむをえないと言えばそうですが。どこが違うか、というと宗達の「神」は、今にも前に踊り出してきそうなのです。同じ構図、絵なのに何が違うのか。

解説書を見たり、この四者の「風神・雷神」図の絵葉書を4組買って、並べて見比べると、非常に興味深く、何分も見入ってしまいました。どこが違うか? 構図の選び方、描線のタッチ、眼つき、耳、手や足の形など専門家によると微妙に違うことが指摘されています。それは別として、全体で受ける感じ方の違いは「神らしさ」―、ではないかと私は思います。宗達の絵には、「超常的な動物神」の神々しさがあるのです。「超常的な動物神」というのは、たとえば架空のものでいえば龍であるとか、あるいは現実のものでいえば(私は現実に見ていませんが)眼の前の巨大な鯨であるとか、一種、見るだけで身震いする「ぞっとするような超快感」を感じさせるものです。

ところが、光琳、抱一、其一、と時代が下ってくるにしたがって、俗神、あるいは人間っぽくなっていき、極端に言うとコミック画のように感じられてしまいます。「超常的な動物神」というのは、微妙な違いで「現世的な俗物神」に変わってしまうのでしょうか(実際、風神・雷神の顔はイノシシかブタに似ています)。これについては、神が人間界に降りてくるという当時の時代の世相があるのかもしれません。こうした違いは、4つの図を同時に見るからこそ感じられるのであって、一つ一つを見ていたら、やはり、眼の前の「この一枚」が素晴らしいと思ってしまうでしょう。

光琳、抱一、其一の描くものが「俗」だなんて書くと、専門家や愛好家から大目玉をくらいそうなので、これはあくまで素人の感じ方だと言っておきます。光琳の偉大さは、「風神・雷神」図よりも、むしろその後発展させた独特の文様芸術の創出にあると付け加えておきます。

(京都三十三間堂に彫刻の「風神・雷神」像があるので、それと比較してみるのも楽しいものです。)





『百年の孤独』 ~ 小説とライフプランニング  

2008-11-10 02:59:58 | 文学・絵画・芸術

ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読み終えました。
こういう小説の書き方があるのかと、感心しました。時間を圧縮した叙述、とめどなく溢れてくる語りの密度と連続性と豊饒性、とてもこういうふうには書けないなあと、舌を巻いていました。ただ、登場人物の焦点がくるくる変わり、なかなか感情移入ができないところがあり、苦労したのも事実。

『百年の孤独』は、20世紀文学の最高峰に近い小説と言われています。ジョイス、プルーストという20世紀最大の小説家の系譜とはまた違った方法論(民話的方法と言われています)で書かれています。民話的というのは、ドキュメント的とは明らかに違います。時間を圧縮しながらも、ある特定の「土地=場」を固定して動かさず、時間を速くしたり遅くしたり、また人物の内部には極力視点を注がないようにしながらも、その人物の存在の特質をキチンと描いていきます。ドキュメントは、事件を軸に時と場と人物が動いていきます。

こんな感じで今、経済・金融関連の仕事の本と、文学関連の本と半々ぐらいに読んでいます。このブログもおそらく両方を関連付けて半々ぐらいに書いていくと思います。

ファイナンシャル・プランニング(FP)というのは、人生そのものを全体で捉えるものです。金融や保険や不動産、相続など、それぞれの道にそれぞれの専門家がいますが、それらをトータルにプランニングする専門家はFP以外にあまりいません。どこか小説に似ているのです。

小説家は、経済や法律や犯罪や医学などをテーマに創作したりしますが、それぞれの道の専門家ではありません。人生を全体的に捉えて描く専門家です。そこにライフプランニングとのつながりがあるのです。

小説家とファイナンシャル・プランナー、奇妙な組合わせかと思われるかもしれませんが、このつながりをいつか人に生かせるようにするのが今の目標です。