FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

「残業代ゼロ」のその先は ~ 「ホワイトカラー・エグゼンプション」は効率的選択か

2014-05-31 00:34:02 | 経済・金融・ビジネス

■ 低収入者は今も「残業代ゼロ」

 政府では今、「残業代ゼロ」の法制化(ホワイトカラー・エグゼンプション)の議論があるということです。推進派は、「効率的な働き方ができる」「柔軟な働き方の選択肢をつくる」などと言っています。これに反して反対派は、「長時間労働」を懸念して議論は平行線をたどっていますが、ほぼ法案化される見込みです。 

 そもそも、この議論をしている人たちは、労働の実態をどれだけ把握しているのでしょうか。推進派は企業の競争力を高めるためだと言っているようですが、何か違う気がします。 

 大企業の社員で福利厚生が充実し、退職金(企業年金)もそれなりにもらえて、平均より年収も高い人なら、成果重視で労働時間に縛られることなく「残業代ゼロ」でも頑張れるでしょう。それだけ働き方の選択肢も増えるでしょう。というか、実際に高収入の人たちは、今でも人に言われなくたって夜遅くまで仕事をしている人たちで、「時間」で仕事をしているわけではないのです。頑張るだけ頑張って、報酬もそれなりにもらって、あとはしっかり休暇も取れる人たちです。何をいまさら、と思います(というより、本当に残業代をもらっているのでしょうか?)。 

 ひとたび法として「残業代ゼロ」としてしまうと、それにならって大多数の中堅・中小企業、いや上場企業の社員でもそれほど高給でない社員は、長時間労働を半ば強いられるようになる懸念があります。 

 現状を言うと、中堅・中小企業でも、「年俸制」(欧米から入ってきた考え方でしょうか)と称して残業代、休日手当なしで社員に働かせているところがあります。そもそも「年俸制」というのは、ある程度の年収以上(平均よりかなり上)で、それなりに仕事に自己の裁量やインセンティブを与えられている人に当てはめる制度です。それを中小企業もまねて、社員に権限のない名目の肩書を与えて「年俸制」を都合よく解釈し、専門的な仕事だと言いくるめて、平均収入に満たない社員に残業代なしの長時間労働で働かざるを得ない状況に追いやっています。朝出勤して夜11時、12時の終電帰り、土日休日もたびたび出勤し、振替休日も取れる余裕もなく、有給休暇も十分取得できない状況です。 

 そういった会社がどれだけあるか、政府関係者は知っているのでしょうか。いや、そういう労働者まで今回の法を考えているわけではない、大企業の幹部クラスで年収900万円以上(1000万円、1200万円以上という案もある)で、本人の同意を前提にこの「残業代ゼロ」制度を導入したいのだ、と政府では言っています。本人の同意といっても、それを拒否すれば働く条件が悪くなるのがわかっていて同意しない人はいないでしょう。

■ 中小でも、なし崩し的長時間労働化

 私は何も、「残業代ゼロ」に何が何でも反対せよと言っているわけではありません。もともと高収入で優秀な社員は時間に拘束された仕事をしていません。自宅に帰っても、休みの日も、年がら年中仕事のことを考えています。それなりのモチベーションとインセンティブがあるからです。しかし、こういう社員は全国でも一握りです。これを法や制度で政府が決めることでしょうか。そんなのは会社と個人で決めればいいことです。ひとたび国が決めたことになると、「そりゃ、いい」と大多数の会社がそれに乗じて、低収入社員の長時間労働が常態化してしまいます。それこそ、うつ病や体調不良の人間が増え、効率的な働き方などできなくなるでしょう。 

 「働き方の柔軟化」とか、「効率性の良い働き方」を言うのであれば、全国民が安心できる安定収入と休暇、退職年金や福利厚生に与かれるような会社にするのが先決であろうと思います。それを行うのは個々の会社側の努力となりますが、十分に条件が整っていない労働者層までに、法令による「残業代ゼロ」化による低賃金・長時間労働化がなし崩し的に浸透してしまうのが恐ろしいのです。現に、厚労省側が「世界レベルの高度専門職」を対象者に考えているのに対して、民間議員側(経済同友会)では「年収条件をはずし、対象者の範囲を拡大する」案を出しています。これが法案化されてしまうと、低収入で残業代ゼロの人は、最後の砦、提訴による時間外手当の未払分請求の道もなくなってしまいます。 

 現在も低賃金・長時間労働で休暇も少なく、将来の生活に不安で怯えている人たちがどれだけいるかを考えてもらいたいと思います(無理だろうけど)。もっとも、たいした仕事もしていないし、責任も果たしていない人たちが、だらだら会社に居残り続けて、それでもって残業代や退職金をちゃんと貰えるシステムというのも、これはこれで大問題だと思います。もう一度言いますが、それは会社の経営問題であって、法令化の問題ではありません。


『塔の上のラプンツェル』 ~ 美少女の長い髪とユング的エロス

2014-05-25 01:01:16 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 『アナと雪の女王』が大ヒットしている(『アナと雪の女王』 雪と氷の世界へ ~ 愛の訣別と氷解)。このアニメ映画の少し前にディズニー長編アニメ50作目の『塔の上のラプンツェル』(原題: Tangled)が公開されている(2011年)。

 この作品の魅力は、何と言っても美少女ラプンツェルの長い髪だ。顔の表情も可愛いし、一瞬ごとに実物の人間の表情と同じように変化する目や口の動きが素晴らしい。この技術は、『アナと雪の女王』に引き継がれ、進化している。長い髪の少女の原型はグリム童話にあるが、髪の魅力を映像の中心に持ってきているのは、ディズニー(ピクサー)のロマンティシズムとリアリズムの結晶だと思う。

 20メートル以上もあると思われるラプンツェルの髪は、ひと筋ひと筋の流れや質感、輝きが現実以上に映し出されている。実物であれば、それほど長いと床や地面を引きずってしまい、埃まみれ、傷ついて枝毛だらけになってしまうだろうが、小荷物のように自分の髪を丸めて運んだり、タオルのように水を絞ったり、綱や毛布の代わりにしたりして、そんな恰好のコミカルさがこの映画の最大の魅力となっている。それに、ブロンドに輝く美しい髪そのものが、ストーリー以外のところで十分楽しませてくれる。

 女性の髪は、日本でも昔から「カミ=神」と言われるくらい神聖なものであったし、めったに切るものではなかった。といっても、毛髪はどんなに伸ばしっぱなしにしても、人の背丈より長くなると自然に抜け落ちるので、ラプンツェルのように異常なほど伸びることはない。20メートルもの髪の長さにしたのは、恋と冒険ファンタジーにしたてる重要なファクターとして必要だったからで、それだけに実物以上に描こうというアーティストの魂もあったのだろう。

 男が女の髪の美しさに魅力(一種のエロス)を感じるのは人間共通の潜在意識で、ユングの「元型」(アーキタイプ)とも言えるものだろう。美少女、長い髪、恋、魔法、魔女(悪魔)、王子と姫、こびとや妖精、城、森など、世界のどの人間もが持つ「集合的無意識」で、愛と夢のファンタジーに欠かせない重要なタームである。特に男にとって女の美しく長い髪は、ユングの「集合的無意識」として見ると、単なる美意識ではなく、セクシャルな意識を伴う。セクシャルなもの(エロス)は時にして、「魔力」を持つ。長い髪はそれだけ神秘で不思議な力を感じるものである。童話の世界にはそうした集合的無意識が隠されている。

  ラプンツェルの髪には魔力が宿っている。髪を切った途端に輝きを失い、不思議な力は失せてしまう。ラプンツェルの髪の魔力によって永遠の若さで生き永らえてきた母代りの魔女、彼女に「囚われ」の身となっていたと悟ったラプンツェルが「囚われ」から自由になるためには、自分の髪を切り落とさなければならない。呪縛の運命を断ち切ることが自由と愛を得る、その代償が長い髪を切ることなのだ。それゆえ、「恋人」の盗賊に肩から先の髪を切り落とされてしまう。ブロンドの髪はたちまち褐色に変わり、髪の魔力はなくなり、若い命から生命力を吸い取っていた魔女の命は萎み、息絶える。

 結局、魔女に命を奪われた恋人を蘇生させたのは髪の力ではなく、愛に目覚めたラプンツェルの涙であった。それは同時に髪の魔力から解き放たれた瞬間でもある(魔力から解き放たれる愛、このへんは、『アナと雪の女王』に共通するテーマ)。しかし、映画の魅力はこの時点で薄れてしまう。あとは、若い2人の結婚で幸福な終末を迎えることになる。ショートヘアのラプンツェルも可愛いらしく感じる人もいるだろうが、作品としての魅力はここで終わる。美と魔法と自由と冒険と愛、これらが「髪」を象徴として「絡み合った」(tangled)作品である。

  


夢野久作 『ドグラ・マグラ』 ~ 潜在意識の遺伝と死美女の犯し

2014-05-11 07:12:14 | 文学・絵画・芸術

 ●「奇書」のいわれ

 『ドグラ・マグラ』は、「一度読んだだけでは理解できない」、「一度でも読んだ者は精神に異常をきたす」と言われている奇書である。なるほどこのように言われると、ちょっと手が出ない。特に精神が落ち込んでいる時に読み始めると、本当にうつ状態か錯乱状態になるんじゃないかと思うと尻込みしてしまう。

 かく言う僕も、これを真に受けてできるだけ精神状態が正常か上向きの時に読もうと思っていた。もっとも、こんなのは編集者が本のPRのために書いた文なので、まったく当らないとわかっていたけど。というより、僕のように作品に興味あるのに尻込みして(?)本を買わない人が増えたんじゃ、PRが逆効果になってしまっているんじゃないかと思う。

 読んでみてわかる通り、僕は精神に異常をきたしていない(と思う)し、この程度の奇書は純文学と言われている中にもある。読者の理解力が足りないのか、著者の書き方が悪いのか(たぶん両方だと思う)、純文学的「名作」の中にも1回2回読んだだけでは理解不能、退屈で本を投げつけてわめきたくなるほど精神がおかしくなるようなものはいくらでもある・・・。

 「ドグラ・マグラ」とはよく言ったもので、その意味は「こんがらがっている」とか「堂々めぐり」ということらしい。話の最初と最後がつながっていて、円環状にぐるぐる廻り巡って終わりがない。とぐろを巻いた蛇が自分の尻尾を噛んでぐるぐる廻り続けているようなものだ。だいたい「ドグラ・マグラ」という音(おん)自体が、おどろおどろしく響く。

 テーマの1つが「夢」や「深層心理」にあるので、話そのものが現実のことではないように惑わされる(もちろん小説の中で起きている現実という意味で)。それが作者の狙いでもある。夢の中で起きた殺人だとか、夢遊中に潜在意識が勝手に犯した事件であるとか、そう言ってしまえばそれまでの話なのだ。あるいはまた、人間の心理が1000年もかけて遺伝して、その犯罪体質が人を殺したという、これまた荒唐無稽な話で、これはもう1回や2回読んだだけでは到底理解できないし、たとえ読み通したとしても確かに精神がおかしくなる代物である。

 この小説は、探偵小説、推理小説、ミステリー小説などに分類され、日本の3大奇書と言われているそうだ。あとの2つは『虚無への供物』(中井英夫)、『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)で、僕は『虚無への供物』は面白くて一気に読み通したことがある。こういう読み方ができる作品はめったになく、読者としては幸せでもある。『ドグラ・マグラ』はそこまでいかなくても、それなりに楽しく読み終えた。『虚無の供物』にしろ、『ドグラ・マグラ』にしろ、そもそも推理小説や何かなどというカテゴリーに入れるのがおかしい。これは純文学といえば純文学、大衆文学とかミステリーといえばそうと言える。 

●心理・生理遺伝と死美女

 『ドグラ・マグラ』の作中に、謎の絵巻物が出てくる。これこそ1000年もかけて「心理遺伝」して、青年主人公を狂わせて殺人に追いやったもととなる重大な「証拠物件」である。(作中では「心理遺伝」とあるが、性的なものの遺伝も考えると「心理・生理遺伝」がより正しいと思う。)その絵の描写に「死美人六変化(へんげ)」がある。死美女腐敗図というもので、仏教ではよく無常観を現すものとしてとりあげられる。浄土宗の『往生要集』(源信)という本にも事細かな描写がある。

 どれほどの絶世の美女であっても、人は必ず死に、その死体は最後には腐って骨だけになり、その骨さえもカラスにつつかれ、スカスカの枯木みたいになってしまう。そこまでが6段階で描かれている。死んだばかりの美女は、まだ生きているままに美しく、女の香りを漂わせていて、その死に顔に思わず頬ずりしてしまいたくなる。2段階目からは、美女の顔かたちが少しずつ崩れていき、異臭を放ち、髪が抜け始め、眼球はとろけて流れ出し、口は大きく裂けてただれた唇の間から歯がむき出しになる。髪や皮膚は脂っぽくべとべとになり、最後には腐った肉の塊りと骨になる。その段階を1段階ずつ細かに描写してあるのだ。この絵巻物を見た男は発狂して、1000年の遺伝の餌食となり殺人鬼となる。

 この小説の異常っぽいところは、1000年前にこれを描いた絵師が、美女の死体にある種、性欲を感じるところである。美女が刻々、醜く腐敗していく過程を凝視し、克明に描きつつ性的快感を味わう。それが心理・生理遺伝して、1000年後の青年が美しき許嫁(いいなずけ)を絞殺してしまう。そしてわが愛する死美女の肉体が腐乱していくのをじっと見つめ恍惚としている・・・。

 ここまで書くと、「なあんだ、やっぱり。こんな小説を読んでいるようじゃ、とうとうお前も頭がおかしくなったんじゃあないのか」と言われそうだ・・・。ただ、何度も言うようだが、この程度の「奇書」ぶりなら純文学の「傑作」にいくらでも見られる。そういう意味では、『ドグラ・マグラ』も純文学的名作に数えられそうだ。文体の百科展覧、精神病理学的解析、遺伝学的解釈、精神病概論、殺人心理及び殺人生理、深層心理学的解明、夢判断、法医学的解釈など、様々なテーマが複雑に絡んだ、ちょっと一筋縄ではいかない大胆な実験小説といえる。ある意味、学問的考察が必要ともいえる作品なのだ。

・・・・そういうわけで、しばらくしてもう1回読もうか、とは思っている(精神はいまだ侵されておらず・・・)。

 


漱石 『こころ』 ~ 新聞小説の味わい

2014-05-04 02:40:29 | 文学・絵画・芸術

 新聞小説というものは、これまで新聞を購読して何十年来(?)、読んだことがありませんでした。小説というのは、一冊の本というページの塊りの中にある文字をある程度まとめて読んでいくものだと思っていたからです。

 一気に何十ページ、気が乗れば100ページ、200ページくらいの文庫本ならぶっ続けで読んでしまいたいという欲求がいつもあります。残念ながら、そういうふうにして読み通せる作品はめったにありません。たいがいは名作とか好評と言われているものを、数ページ読んでは残りのページ数を気にかけつつ、読み始めたからには最後まで読まずには気が済まさないという意地みたいなもので読むのが常でした。

 それが、先月から朝日新聞に100年ぶりに、なんと夏目漱石の『こころ』が再連載されたのです。なんで今さら、と思いますが、いろいろ新聞社の思惑があるのかもしれません。100年前の同じ日付の新聞に連載を再現すること自体に意味があるようです。まだ10回くらいしか載っていませんが、新聞小説など目もくれなかった自分が、今では毎日楽しみながら読んでいる次第です。

 新聞連載はその日の分量しか文字が載っていませんから、それでかえって一語一語かみしめながら、じっくりと読む楽しみが出てきます。これほど落ち着いた読み方ができるのも、すでに一度読んだ小説であることと、夏目漱石という国民作家が書いた、近代小説の名作ということがあるのでしょう。本だと、後ろに未読のページがたっぷりあると、早く読了感を味わいたくて先へ先へと、つい粗っぽく読み進んでいってしまいます。文章を味わうとか読み返すなど、よほど気に入った作品でないとしません。

 『こころ』を読んだのは、30代前半の頃だったと思います。読むこと自体に苦労はなかったのですが、「先生」の生き方(死に方?)の理由がいまひとつ納得いかなかったように覚えています。細かいストーリーは覚えていませんが、あれから長い年月がたち、すっかりいい歳になった(?)自分が、一日の限られた小説の文章をじっくり味わいながら、あの時わからなかった人物の生き方の意味を読み返しています。

 考えてみると、僕が漱石の作品で理解しながら読めたのは『坊ちゃん』くらいかもしれません。中学入学したての時、こんなに面白い小説があるのかと一気に読んだ記憶があります。『坊ちゃん』は、読む楽しさと同時に書く楽しさを教えてくれました。あの時は痛快に感じましたが、中年になって読んでみると、あんなに活気があったように思えた「坊ちゃん」が、なんだか元気のない青年に思えてきました。疲れた「坊ちゃん」がそこにいました(「元気がなくなった『坊ちゃん』 ― 漱石ふたたび、みたび」)。純粋に読めば楽しい小説ですが、いろいろ世間の波をかぶっている時に読むと、ちょっと切ないところがところどころありました。そういえば、漱石自身もかなり神経を病んでいた時期が長かったのを思い出しました。

 良い作品は、読む年齢によって読み方も変わるのでしょう。『こころ』もまた、今の年齢になると一文ずつが、じわりじわりと僕の内に浸み込んできます。それにしても、100年前の小説、文章の力はまだまだ衰えているとは思えません。小説の言葉は、あなどれないものです。