『1Q84』の中にはいくつかの有名な文学作品が出てきます。『1984』(オーウェル)そのまま、カフカの『変身』、プルーストの『失われた時を求めて』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、ほかにも『グレート・ギャッツビー』やプーシキンの作品、ヘミングウェイなど。ちょっと思い出しただけでも、これだけあります。タイトルや作家名が出ていない作品はもっと出ているのではないかと思います。
中でも「おやおや」と思ったのは、主人公の青豆が、潜伏しているマンションで時間つぶし(これも日課なのだが)のためにプルーストの『失われた時を求めて』を与えられるところがあります。渡す方も渡す方ですが、確かに、この作品は時間がたっぷりないと読めない代物です。しかし、この作品ほど時間がたっぷりあっても読めない作品はほかにありません。いくら読む時間があり余っていても、せいぜい1時間に20~30ページしか読み進めないのです。青豆も同じようなことを言っています。決して難しいことを書いてあるわけではないけれど、かなり濃密な時間が必要で、30分~1時間程度しか気力が持たないのです。
ある女流作家がデビューする前(ヴァージニア・ウルフだったか?)、作家になることを決意して、会社勤め中に2週間の休暇を取ってこの長大な作品を夜も昼も読み続けたと言います。おかげで、会社はクビになってしまったけれど、彼女はその後著名な小説家として活躍するわけです。
かように、目的意識を持って全神経を注がないとなかなか読めるものではないと思います(私は読んだけどね)。長さから行くと、この『1Q84』も長いけれど、これの3~4倍はあるでしょう。しかも、会話文が少なく、改行なしの文章が延々と続くのです。そんな長くてかったるい小説なんか読まなければいいのに、と思うでしょうか。でも、なかなかこれが味わい深くて、時間さえ許されればもう一度読みたい作品のナンバーワンなのです。
前置きがかなり長くなってしまいましたけれど、今回は『1Q84』の話です。村上作品は、長い作品でも、文章がすいすいと進み、あまり苦にはなりません。仮に『失われた時』と同じくらいの分量であっても、たいして苦にならずにあっという間に読んでしまうでしょう。文章がそのように書かれているからです。これは村上春樹の独特の文体であって、作者の意図するところ、あるいは作者の文格(人に性格があるように、文にも性格があれば)なのでしょう。
村上作品は、読みやすいと同時に面白い。ストーリーの展開は必ずしも速いとは言えないけれど、文章の展開が速い。だから、文章のスピードに読者が乗ってしまい、小説作品の先へ先へと身を乗り出して読み進めてしまいます。物語が次々に展開するというよりは、文章が回転しているからです。1つの事柄しか展開していなくても、文章の方が作品の中の時間より速く進んでいく。だから、読者はスムーズに読んでいけるのです。1つの事態についてさまざまな説明、叙述、想いが入ります。
20世紀文学の1つの特徴である「意識」の文学も、時間を無視して延々と描写がつながります。ただ、村上春樹の文章では、周りの事柄がくるくる変化していくのです。たとえば、手元のペンやカップ、着ているもの、飲んでいるアルコールやかかっている音楽、目の前にある料理など、感覚に入っているものが次々と描写されていく。だから、苦もなく読んでいける。その間、小説の事態はあまり変化がなくても。1つの事態が展開していくのに、これだけ事物が感覚に入ってくるので、読者は飽きずに、作中に引き込まれていくことになります。
しかし、ところどころで引っ掛りがある。それは何かというと、小説のリアリティというものです。小説というものは、虚構なので何をどのように書いてもかまいません。この世にありえないはずのことを書いても、それは何らとがめられるものではありません。なにせ、小説は「嘘」ですから。「嘘」であり「つくりごと」であり、「いかに読者を騙してつくりごとの世界へと引きずり込むか」というものです。でも、じゃあ、何でもかんでも書いていいかというとそうではありません。
そこにリアリティがなければなりません。そうでないと、読者は急に自分とは関係のないこととして読むのをやめてしまうでしょう。途中まで読んでいて、時々、作者に対して「この落とし前をどうつけてくれるんだ」と思えることがあります。落とし前というのは、小説のプロット(筋)の論理性というか、つじつまというものです。
たとえば、青豆と天吾が10歳の時に一度手を握り合っただけでほとんど口もきいたこともないのに、その後20年も離れ離れにありながら互いを想い続け、相手を求め、伴侶として探し続けるというのは、少々「純愛ものか」と思わないにしても、ストーリーの芯となるからとはいえ、セックスもしていないのに妊娠するとなると、ちょっとなあ、と思ってしまいます。そこに「処女懐胎」という深い意味があるのか、あるいはカフカ的に、とにかく眼の前に起きていることを受け入れるしかない、ということでしょうか。
空気さなぎ、リトル・ピープル、新興集団の実態など、明かされない部分がかなりあります。だいたい、教団リーダーの娘ふかえりが、なぜ教団を脱出したのか、何のために『空気さなぎ』を口述し、それをまた戎野先生の娘に作品化させ、小説の新人賞に応募させたのか。やたらわめくNHKの集金人は誰だ、ということを考えてしまいます。(ただ、この集金人はやたらリアリティがある喚き方をしていて、思わずこちらも我慢しきれずにドアをあけて「うるさい!」と怒鳴りつけてしまいそうになります。)
いろいろ解明されないことがたくさんあります。最後のところで青豆と天吾が首都高で現実の世界(月が1つの世界)に戻った時、月が2つの世界で孕んだ胎児は、「向こう」の世界でつくられたものだから、「こちら」の世界では消滅してしまうのではないか・・・、などなど、難癖をつけようものならいくらでもあります。まあ、作者はおそらく、そんなのは先刻承知しており、あえて解答を出さずにいるのかもしれません。カフカのごとく。
小説というのは、面白ければいいわけですし、なんら教訓めいたことは必要ないわけです。ただ、その面白さが気を引くだけでのものではだめなのです。路地の塀に「→」が描いてあって、気になってその方向に行くとまた「→」があって、「→」の方向へどんどん進んでいくと、最後に来たところで「へのへのもへじ」がアッカンベーしているというのがあります。もちろん、『1Q84』がそうだとは言いませんが、途中まで読んでいくうちに、最後は「へのへのもへじ」じゃないだろうなと思ってしまいそうなことが何回かありました。
小説は、いろいろな読み方があるので、もっと意味深い内容がこの作品にはあるのでしょうが、まだ、この作品がベストセラーとなるほどに売れる作品なのか、今のところ整理がつかないところです。
確かに面白くて、一気に読んでしまいましたが・・・。