FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

カーネマン “Fast & Slow”~ 新しい投資家心理教育を

2014-09-30 12:38:19 | 経済・金融・ビジネス

 ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』“Thinking, Fast, and Slow”は、面白い本だ。ある評ではフロイトの「精神分析入門」に匹敵するほどの画期的な本だという。ある意味、これまでの経済学の考え方を変えてしまうほどの力のある本と言えるかもしれない。カーネマンは2002年に行動経済学の学説でノーベル経済学賞を受賞している。共同研究者のエイモス・トヴェルスキーが存命していれば同時受賞していたと言われている。 

 確かに読んでいて興味深い。特に経済学が苦手(というより学ぶのが苦痛)な文学系出身者にとって、心理学が絡んでくると、俄然興味が湧いてくる。行動経済学自体はまだ新しい学問なので、標準的経済学(伝統的経済学)を脅かす学説というよりは、まだまだ経済学説主流の一派にすぎないとか、今は流行しているが、いずれ廃れる「人気タレント」的な学説のように見られている節がある。人間の行動心理や認知方法を探るものだから、まだ曖昧なところがあるような気もするが、それは標準的経済学とて同じである。 

 今までの経済学は市場を十把一絡げにとらえて分析するので、いちいち個々の人間の心理なんて対象になどしていられない。そんなことをしていたら、経済政策などとることができない。そういう意味では、人間を合理的経済人「エコン」と捉えるのは間違っていない。間違ってはいないが、すべて正しいとは言えない。 

 そこで心理学の立場から(カーネマンは経済学者ではない、認知心理学者である)個人の心理まで分析して経済を分析する手法が現れたのは必然である。このような個人の経済人を「ヒューマン」と呼んでいる。「ヒューマン」は、合理的経済行動をとる「エコン」に比べて、不合理ともとれる行動をしばしばとる。それはバイアス(認知的錯覚)からくるものである。その数々の例は、この本に書かれている。これらの分析結果は、米国政府の政策にも取り入れられているという。そういう意味では、一時的な流行学説で終わるものではないと思う。 

 特に金融分野では、これまで説明つかない投資家行動が説明されることにより(というよりすでに金融機関によって投資家心理を応用した商品が開発されてきた=毎月分配型投資信託など)、投資家教育もより前に進んでいくと思われる。 

 ところで、一般に行動経済学が伝統的経済学(標準的経済学)にとって代わると言われるのは大げさであると思う。そんなことは、カーネマンはじめ行動経済学者は誰も言ってないし、双方に長所と欠点、限界があるので相互に補っていくべきものと思われる。(ちなみに、昨年(2013年)のノーベル経済学賞は、行動経済学者と伝統的経済学者の2人が同時受賞。)

 


三島由紀夫『豊饒の海』 ~ 最近の脳科学と唯識思想

2014-09-28 23:51:18 | 文学・絵画・芸術

 三島由紀夫の代表作は、今でも『仮面の告白』と『金閣寺』(三島由紀夫と金閣寺~永遠なる「美の鳥」鳳凰)だと思っている。それに加えて『春の海』(『豊饒の海』4部作の第1部)。 

 『豊饒の海』第4部『天人五衰』における最終場面で、僕はこれまで大きな勘違いをしてきたのではないかと思うようになった。あのような終わり方で、それまでの現実(虚構内での事実)を簡単にすべてを否定してしまったことについて、三島由紀夫への落胆というか、なかば怒りのようなものを感じたことがある。 

 それは1回目に読んだ時も、2回目に読んだ時も変わらなかった。本多繁邦は、最後の最後で青年時代に夭逝した親友、松枝清顕の恋人であった綾倉聡子(今は寺の門跡)に会いに行く。そして、かつての恋人、松枝清顕を知っているかと問う。門跡となっている聡子は、松枝という人は知らないと答える。事実からすれば、それはありえない。なぜなら、清顕と聡子は、大恋愛をしたのち、その恋愛が破れて令嬢聡子は若くして仏門に入ったのだから。 

 事実としては、確かに2人の関係はあったのだ。そこから輪廻転生の長い物語が始まっていくのだから。しかし、最終に来て、読者の期待は裏切られる。聡子の口からは、いや記憶からは、そのような事実がないということになる。これは仏教でいう「空」(唯識)の思想を思わせる。「色即是空」「空即是色」。この世の現実界はすべて実体がなく、実体がないことがこの世の現実である。門跡はその思想を現すため、あえて過去の事実を否定したのか、あるいは本当に実体のない出来事だったのか、それを作者、三島由紀夫が書きたかったのか。 

 いずれにしても、ここまで長い小説を読んできて、「それはない」と思ったものである。いくら虚構とはいえ、虚構内での事実を積み上げてきたことが最後になって「これまでのことはなしよ」と言われても、なかなか納得がいくものではない。これは小説作法にも反する。どうも割り切れなさを感じたものである。 

 ところが、それもありうると思った。人間の意識というものは記憶自体を自己に都合よく、あたかも事実としてあったように、あるいは事実をなかったように作り変えてしまうという脳の働きがわかってきた。それを考えると、聡子が何十年も門跡として生きていくうちに、自分が生きる道にふさわしくない事実に関する記憶は常に作り変えられて来たということである。

 人間には「記憶違い」ということがよくある。誤った事実を正しい事実として記憶してしまう。最近の脳科学の面からすれば、「空」の思想を持ち出すまでもなく、存在していた事実は存在していなかった事実として記憶されることがある。もちろん、三島が書きたかったのは、そんな脳科学の話なんかではなく、この世の「空」と美意識を書きたかったのだ。 

 いま在る事象は、時間とともに転変変異し、実体を失くし過去への忘却として消滅していく。この世に実体はない。無いということが実体なのである。そのあるかないかの実体の中に美が存在する。・・・・と、書くと、何のことかさっぱりわからなくなるが、ストーリー自体は、さすが三島由紀夫の筆になると、1つの傑作として面白く読める。しかし、輪廻転生物語を現代に持ってきたところで、どうも、作品全体が軽くなってしまったような気がしてならない。もっとも、輪廻思想が作品全体の原動力だから、致し方ない。 

 本当は、三島由紀夫はもっともっと、深い芸術性と思想をこの作品にこめたかったのだと思う。しかし、死が、間近に迫った死の決行が、やはりそれを許さなかった。死を前にして書き急いだ感がぬぐえない。それが残念でならない。脱稿した原稿を編集者に渡した直後、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺した。この最後の作品と同様、三島自身もあるかなきかの美意識としてその存在を完結しようとしたのだ。

 

 


行動経済学と「シジフォスの神話」 ~ 採用結果を通知しない会社は求人する資格がない  

2014-09-28 01:29:00 | シニア&ライフプラン・資産設計

■ 「シジフォスの神話」にみる行動経済学 

 新卒ならずとも中高年、定年退職の再就職者にとって、結果が見えない活動が続くのはつらいものです。 

 学生時代、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を読んだ時、とてつもない絶望感と虚脱感を抱いたのを覚えています。ギリシャの神の怒りを買ったシジフォス(シーシュポス)は、冥界に堕とされて大岩を山頂へと押し上げていく作業を命じられます。頂上近くまでやっとの思いで行くと、頂きの一歩手前で大岩は転げ落ちていきます。大岩もろとも落ちたシジフォスは再び大岩を押し転がしていきます。苦労して頂上手前まで来るとまたも岩は落ちていきます。この作業を毎日毎日、幾月も幾年もただ果てしなく繰り返していくのです。 

 社会に出るということは、こういうことなのかと暗澹としました。仮に会社に就職できたとしても、延々と同じ繰り返しの日々が続いていく。ましてや、職にさえ就けないでいる人はなおさらだと思います。それでも新卒の人のように若くて将来があれば、まだ希望があります。しかし60歳前後ともなれば、再就職はかなり厳しいものです。何十通履歴書を送っても、面接までたどりつけない。書類選考なしに面接させてもらえば、自分の経歴や意欲や面接官との相性で何とか採用にこぎつけられた時代もありましたが、今はそうもいきません。これはなにも中高年だけでなく、30~40代の再就職にも言えるかもしれません。 

 行動経済学者、ダン・アリエリーは、その著書で「シジフォスの神話」にも触れていましたが、人は眼の前で自分の行った仕事を破棄されていくと、途端に労働意欲を失うという心理学実験を行っています(詳しくは『不合理だからうまくいく』)。同じ単純な作業でも、一人に付き添って作業した成果物を本人の眼の前に陳列していくのと、作ったそばから本人の眼の前で成果物を壊していくのとではその直後のモチベーションが格段に違うという実験結果を報告しています。また、破壊しないまでも、本人の成果物を無視して、1つ出来上がるごとに評価もせず本人の見えないところに仕舞ってしまうのも、目の前で破壊するのと同様にモチべーションの低下を招くという結果が出ています。 

 せっかく作ったものを眼の前で破壊されたり無視されたりしたら、心理学実験するまでもなく誰でもやる気をなくしてしまいます。しかし、これと同じようなことが日々、社会や会社の仕事でも起こっていないでしょうか。駄目なものは駄目だと結論付けてくれれば、確かにその時はショックですが、本人は納得できて、前に進めるものなのです。 

■ 不採用通知より結果が来ないほうが徒労感は大きい

 私も最近まで再就職活動をしていて、応募結果が来ないのは珍しくありませんでした。小さな会社だからということでもありません。従業員が数百人の会社でもそういうことがあります。応募して不採用通知を受け取るだけでも自己の人格を否定されたように思え、人間性に欠陥があるのかと一時的に卑下して落ち込むものです(書類だけで人間性の審査などできるはずはないと思いつつ)。それが会社から何の反応もないと、次第に腹立たしさと不信感を感じるようになります。不採用になるのは自分に何かが不足していたからと諦めもしますが、何の通知もないというのはどういうことでしょう。

  何週間もほったらかされると、「これは落ちたな」と割り切り、早く気持ちを切り替えて次の募集を探した方が賢明です。かつて、不採用を覚悟で応募先に電話で問い合わせてみたことがあります。こういうやりとりは、かなり心理的な負担があり、双方に気分の良いものではありません。案の定、先方もいろいろと取ってつけた理由(今回は応募が多数で・・・、とか)で不採用を告げました。 

 現在は個人情報保護の扱いから、不採用者の応募書類は求人側で責任破棄することをあらかじめ募集に記載できます。それは納得いきますが、だからといって合否の結果を通知しなくていいというわけではありません。現に、合否にかかわらず「面接後何日以内に結果通知」と記載があるのです。応募する側も不採用通知は受け取りたくないのは当然ですが、結果が来ない行動はそれより徒労感が残り、急速にモチベーションが落ちていきます。こういうことが続くと、つくづく「ああ、シジフォスだな」と思ってしまいます。 

 募集要項では、結果を通知してこない会社に限って「人を大切にする会社」などとあります。自分の会社に縁のないと決まった人は無視して放っておく、そのような会社が社員を大切に扱うとは思えません。「明るい職場です」とか、業務以外のことをアピールするより、応募者一人ひとりにきちんと対応することを考えるべきです。 

 今まさに求職活動中の人にとっては、つらい時期が果てもなく続くような気がするかもしれません。シジフォスは、永遠に岩を運び上げて行きます。頂上から何度も転げ落とされても。でも、あれは神話の世界です。人間の世界ではいつかは結末があります。よい結末を信じて、いまは耐えて行動するしかないのです。


教育費は削れないという「聖域」を取り外そう

2014-09-26 02:05:43 | シニア&ライフプラン・資産設計

  ライフプランで考えると、教育費は住宅取得費用と並んで大きな資金です。ファイナンシャル・プランナーが顧客のキャッシュフローを組む時、子ども別に進学進級ごとに教育資金を組み入れていきます。幼稚園(保育園)から小学校、中学、高校、大学(国公私大・文理系別)と全国平均値を入れていくのが通例となります。この教育費については、平均所得以上の世帯では将来のキャッシュフロー上の必須項目となっています。どんなに家計が苦しくても教育費だけは削れない「聖域」となっている家庭も見受けられます。

  私大文系で4年間の学費は約400万円、そのうち初年度に100万円以上かかります。これで子どもが2人、3人となると、親の家計は相当な負担のはずです。そのうえ住宅取得でローン返済を抱えているわけですから、所得がある程度あってもキャッシュフローは厳しく、結局貯金も貯まりません。 

 子どもに学費で苦労をかけたくないというのは親心として当然あると思います。教育費を削ってまで子どもに奨学金を受けさせるというのは、なかなか思いきれないかもしれません。しかし世帯の所得が少ないのに、あるいは所得の割に支出が多いのに無理に大学の教育費を出していては、親自身のライフプランが成り立たなくなります。家計が苦しくなるよりは、最初から奨学金を予定して考えることも家計見直しのひとつのプランです。

 子どもの大学4年間の教育費を見直すだけでキャッシュフローはだいぶ変わってきます。たとえば4年間のうちのどこか1年だけでも、あるいは学費のうちの何割かを削るだけで家計のキャッシュフローは変わります。「削る」というのは、親がかける教育費に上限を設け不足分は子どもに任せるのです。アルバイトや奨学金で何とかやりくりしてもらうということです。4年間すべての学費を子どもに負担させるということではないのです。

 実際に奨学金利用者を見ると、4年制大学の学生2人のうち1人が何らかの形で日本学生支援機構の奨学金を受けています。理想を言えば、今回発表された政府の奨学金拡充案をさらに広めて、奨学金の無利子貸与や減免枠をもっと増やすとともに返済条件を緩和してもらいたいところです。奨学金の返済は、まだ学生には負担となっています。奨学金利用が今より一般的になれば、親のライフプランはもっと建設的になると思うし、何よりも低所得世帯であるゆえに大学進学を諦める人も少なくなるでしょう。

 


シニアには労働的市場価値がないのだろうか

2014-09-25 00:23:21 | シニア&ライフプラン・資産設計

 60歳を過ぎると、本当に「労働力の市場価値」はないのだろうか? このことが前から疑問になっていました。
 
 
雇用でいえば、ただでさえ高齢者(この言葉は好きではありません)は年齢だけでふるいにかけられます。たとえば会社側で事務の仕事をハローワークの求人に出す場合、採用者の本音は30代の女性で、一般の事務(ずいぶんあいまいな言い方ですが、いわゆる経理や企画・法務など専門職ではないという意味で)をそつなくやってくれ、来客接待や電話応対、その他雑用をやってくれる人を望んでいる場合、60歳の事務的なキャリア(管理職など)のある人が応募してきても、年齢と経歴を見ただけで不採用にする意向が働くのは、当然かもしれません。

 第一、年齢が上だと使いにくいしプライドが高い。細かいことに意見を言ってくる、動作がのろい、無理に残業させられない、管理職までやった人にお茶出しまで頼みにくい、電話に出るにしても女性の声の方がいいし、女性の方が職場も明るくなる、などなど。結局、求人側の定型的な「検索」(年齢など)にひっかかって、シニアの人はまず先に「足切り」にあうわけです。

 いや、年齢ではなく個別の問題だと求人側は言ってくるでしょう。若い人を育て会社を支えていってもらいたい、そういう人を採用するのだと。しかし、若い人は会社とのミスマッチがあるとすぐに辞めてしまいがちです。逆に、高齢者は確かにこの先長い期間働けないかもしれませんが、それでも健康で意欲さえあれば65歳、70歳までは働くことが可能です。これまでのキャリアを活かせば、十分に後継者づくりにも事業発展にも貢献できるわけです。もちろん知識や経験、人脈などは若い人よりも豊富なはずです。どこに「市場価値」が劣っているのでしょう。

 問題は中途採用の場合、ハローワークなどの求人項目が画一化されてしまっていることです。1回の求人で何十通も応募がくると、それだけで小さな会社は事務処理や面接で大変なことは分かります。だから画一的な基準でふるいにかけていく方が無難なのです。

 しかし、これではシニアの再就職はほとんど望めないでしょう。法制度では希望すれば65歳まで再雇用が可能になったと言っても、それは余力のある大企業であって、小規模の会社は60歳以上の人を継続して雇用するほど体力がありません。この国は、これからは「高齢者をもっと活用すれば」年金財政も良くなるなどと、ずいぶん第三者的な言い方をしています。そんなことはとっくにわかっていることです。ではどうしたらいいでしょう。

 まずは、ハローワークや求人サイトなどシニア向け求人を充実することでしょう。シニア向け求人は確かにありますが、ほとんどが低賃金のパートで単純労働のものばかりです。これでは定年後5年でも10年でも働き続けたいという人の意欲をそぎます。定年退職したんだから(退職金も年金も入るんだから)、なにもそんなに働くことばかり考えなくても、と言うかもしれません。しかし、そうしないとやっていけない人がまだまだ多いのです。

 サイトなどで、求人側が求職する個人の特徴を検索できるような仕組みがもっと気軽にできればいいと思います。例えば、シニア向け「人材バンク」のようなものです。今でもあると思いますが、もっと敷居を低く利用しやすくし、シニアに向いた職種も幅広くする。そこでは働きたい人が積極的に自分をアピールし、経歴はもちろん、これからの生きがいや生き方、自分を生かしたい場などを求人側に対して気軽にサイトなどに登録します。個々のシニアの特性がわかれば、少しでも画一的な検索による「足切り」にあわずに済むかもしれません。

 労働力の市場価値が60歳になって急速に落ちるとは考えられません。これは求人側の意識も変わらなければならないと思います。定年後の求職活動が長引いて就職できない求職者は、自分を活かす場がなくなるから仕事を諦めざるを得なくなります。それだからこそ、その人の市場価値も下がってしまうのです。これは本人にとっても日本の将来にとっても、とてももったいない話です。


行動ファイナンス ~ カラマーゾフ的人間とゴルゴ的人間

2014-09-23 15:30:39 | 経済・金融・ビジネス

■ カラマーゾフ的人間とゴルゴ的人間 

 ここに2種の人間がいるとする。一つは「カラマーゾフ的人間」と言われる人間である。一つは「ゴルゴ的人間」と言われる人間である。前者は文学的人間、後者は経済的人間である。

 「カラマーゾフ」というのは、言うまでもなく19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーが創りだした『カラマーゾフの兄弟』の一族である。ドミートリー・カラマーゾフに代表されるように、きわめて不合理で不条理な人間、激情的で、短期的な視野の持ち主、浪費的で爆発的行動力を持つ投機的な人間である。この人物は、とてつもない潜在意識力によって衝動により行動する。

 「ゴルゴ」というのは、こちらも言うまでもなく日本現代の漫画作家さいとうたかを氏が生んだ完璧主義者にして超合理的な経済的人間、「超」が3つも付く一流スナイパー、「ゴルゴ13」である。この人物の典型は、合理的・条理的人間、効率的な考えを持ち、感情を排除し、かつ長期的な視野をもって行動する。経済的で、冷静冷徹、計画的な行動をとる人間である。この人物は、顕在的な、怜悧で明晰かつ精確な意識の下に行動する。

 カラマーゾフ的人間は、混沌としており、デモーニッシュ(悪魔的)で、「個」としての存在感が強い。これは行動経済学が暴きだした人間の極端な典型である。一方、ゴルゴ的人間は整然としており、日常的でかつ一分のすきもなく完璧で、存在自体がゆるぎなく、ゆえに「個」である同時に「集団」としても存在しうる。これは伝統的経済学が生んだ典型である。

 これから研究の対象となる人物的典型は、カラマーゾフ的人間である。現在は、ゴルゴ的人間の典型が集団をなして一つの巨大な経済的塊りをなしているが、新しい類型の人間が、徐々に台頭してきている。

(※「ゴルゴ」的人間とは、真鍋昭夫氏の著書よりヒントを得て命名したもの。)

 

 ■ なぜ行動経済学が必要か?

  伝統的経済学は、人間が合理的な存在であることを前提としている。しかし、人間が合理的でないということは誰でもわかっている。合理的な経済行動ができれば、今よりもっと豊かになっているかもしれないと思う人はいるはずだ。人間は不合理だから損をするのかもしれない。この合理性と非合理性の隙間に潜む人間の心理的特性を明らかにすることはできないものか。それができれば、その隙間に存在する一定の法則性がわかる。この法則性を解き明かすことで、新しい認識と行動が見えてくる。

 単に、認知上の錯覚(バイアス)を知るだけが目的ではない。ファイナンスについていえば、バイアスを明確にし、正しいファイナンス知識を身に付けることが、正しい投資行動につながる方法となる。行動経済学が、いまやその役目を果たしてくれるかもしれない。

 

 

 


ジャーナリズムの崩壊 ~ 朝日新聞の誤報問題

2014-09-22 01:19:04 | 政治・社会・歴史

  少し時間がたってしまいましたが、やはり書いておきたい。朝日新聞の責任は重大だと思います。

1つ目は、従軍慰安婦の「吉田証言」の誤った記事。

2つ目は、これをコラムとして批判した池上彰氏の記事を朝日新聞が掲載拒否した記事。

3つ目は、東電社員の「命令を無視して撤退した」という「吉田証言」の記事。

 どれも目を疑わざるをえないようなことです。ジャーナリストとしての責任と誇り、良心というものはないのでしょうか。

  1つ目については、事実的根拠に基づかない、「軍による強制連行」をあったとする証言をいとも簡単に容認し、何度も掲載してきたこと。国際世論は慰安婦の事実があったということが問題で、「強制か否か」には影響されないとしていますが(クマラスワミ報告)、そんなことはないと思います。この誤報記事によって河野談話を呼び、日韓の従軍慰安婦問題は大きくこじれ、長い間日本は恥知らずの国とされ、外国各地で慰安婦像設置という屈辱の根拠となっています。 

 2つ目については、池上彰氏が上記のことをジャーナリストの立場で、自分自身が連載している朝日新聞のコラムに載せようとしたところ掲載拒否されたということです。数日後に掲載されましたが、コラムを読む限り、池上氏の批判は当然のものであり、述べられている意見もすごく真っ当です。なぜ朝日は掲載拒否したのか。池上氏は毎回、このコラムでは複数紙を読み比べ第三者の立場で社会問題についてコメントしています。ところが、朝日にしてみれば、「朝日新聞に掲載してもらっている1ジャーナリストの分際で、朝日について口出しするとは何事だ」ということらしい。まったく呆れたものです。それで波紋が大きくなると、やっと掲載に踏み切りました。 

 こういった組織の構造は、ひじょうに気味悪いし、気分が悪い。このような構造は大企業に見られますが、朝日というのはただの会社ではありません。新聞社です。世の中の事実と真実を伝える使命があり、なにびとに対しても言論の自由を封じてはならない所のはずです。この新聞社は、ただのサラリーマンの集まりの会社でしかないのでしょうか。おそらく、こういった社風が朝日の中にも常にはびこっているのでしょう。しかも一部の編集幹部が他の編集員に有無を言わさぬ圧力を持っていると思わざるを得ません。 

 3つ目にしても、2週間ほど前の記者会見で朝日新聞社長が謝罪していましたが、事実を確認せずに報道してしまったということに呆れてしまいました。事実を事実として正確に確認できていないということ、確認できていないのに報道するということは、もはやジャーナリズムの責任を果たしていないということです。 

 たとえば、事実を巧みに隠ぺいする者がいて、事実を簡単に見破れなかったというならともかく、これら2つの「吉田証言」(同じ「吉田」で紛らわしいですが)は隠ぺいどころか本人により公開されたものです。公開されたものについて十分な検証ができないということは、むしろ事実を恣意的に曲げて解釈していたとしか思えません。

 いったい、朝日新聞は何を考えているのでしょう。その横暴さにいまだに腹が立ち、おさまりません。もはやジャーナリズムの崩壊集団、言論の権力集団と言っても言い過ぎではないと思います。

 


定年後の働き方はギア・チェンジが必要

2014-09-20 20:12:47 | シニア&ライフプラン・資産設計

 人はある一定の年齢が訪れたら自分の立場を知る必要があります。それは、とても重要なことです。おそらく、能力があって権力があった人ほど、それに気づかない。また、周りがすぐには気付かせてくれない。

 今は、「高年法」(高年齢雇用安定法)で60歳でいったん退職扱いとなっても、本人が望めば法令上は65歳まで働けるようになりました。もちろん、一度定年退職しているので退職金(退職年金)はもらえますが、給与体系も変更されて減額します。それは仕方ありません。問題は、意識面です。能力があると言われてきた人、自分でも能力があると自負してきた人ほどギア・チェンジができていません。頭でわかっていても、立場が変わったと理解していても、本人は納得していません。

 「俺はまだ一線でやれる」「なんでこいつの指示で動かなくちゃならんのだ」
 おそらく再雇用(再就職)された人は、心の中でそう叫んでいるんじゃないでしょうか。でも、それは仕方がないんです。一度は定年退職を迎えたのですから。たぶん本人が思う通り、仕事は人よりもできるだろうし、能力だってなまじ年下の部下たち(その中には今の上司となっている人もいる)に劣っているわけではないでしょう。しかし、もうその立場での存在としては必要とされていないのです。それは能力とは関係ありません。

 会社の中の環境がそのように求めているのです。「もう、お呼びでない」ということです。定年退職したら、あるいはこれから定年退職する人は、そのことに早く気付くべきです。それは、再雇用で会社に残ろうが、退職して違う会社に再就職しようが同じです。会社は、次の人に仕事と責任を任せていかなければならない。いつまでもリタイアした人に「そこ」に居てもらっては困るのです。「そこ」は、次の人の席なのですから。たぶん、このことを早く悟れない人ほど不幸になる確率が高くなるかもしれません。もっとも、遅かれ早かれ、周囲がその人をそれなりに扱うので、本人もやっと気づいてくれるものですが。

 これが大方の現実です。定年退職者をいたずらに貶めるつもりはありません。会社に頼らず、自分で仕事を見つけてきて自分でこなしてやっていける人は幸いです。そういう人たちは、たいがい「この日」のために何年かかけて準備してきた人です。

 60歳になったら、一度ギア・チェンジしなければなりません。それもギアをアップするのではなく、ギアをダウンしなければなりません。会社の中では、一定の役目を終えた人がいつまでもトップ・ギアでパタパタ動き回られては困るのです。「居て欲しくない」存在であることをわきまえなくてはなりません。なにも、自分を卑下しろなどと言うつもりはありません。会社での役割がそのようになっただけなのです。あとは仕事やお金のためだけでなく、自分の生きるテーマを追い求めるか、ボランティアに徹して歓びを感じる、あるいは趣味・娯楽に没頭するかです。

 「いや、自分はまだばりばり仕事して稼ぐんだ」と言うなら、自分で事業を起こすことです。自分が主役なのですから、誰もあなたを煙たがったり、追い出したりしません。なにしろ、あなたがいないとやっていけないのですから。今の会社にしがみつき年下の元部下に指示されるもよし、自分で必要とされる自分をつくっていくもよし。間違っても、今いる会社でギアをアップにテェンジしてはいけません。

 再就職するにしても、自分の能力なら今までと同じくらいの給料で仕事が探せるなどと思わわないほうがいいでしょう。それは能力の問題ではなく、会社の事情という問題なのです。考えてみてください。同じ仕事で同じ給料なら、誰が60歳過ぎの「おっさん」をわざわざ雇わなくてはならないのでしょうか。若い女性でできる仕事なら若い女性の方が社内が明るくなるし、若手の男性にできるものなら将来も任せていきたいと会社は考えます。

 だからといって、肩を落とすことはありません。とにかく、60歳まで一区切りつけて勤め上げてきたではないですか。それだけでも立派なことです。これからは、違う世界が見えてくるはずです。お金がないというならば、プライドなど捨てれば、給料が半分以下になろうともやれる仕事はありそうです。もっとも、お金のことを考えずに済むなら、本当にやりたいことをやるのがいちばんです。

 高齢者の活用が必要などと言われていますが、まだまだ現実は、自分で自分の道をかき分けていかなければならないようです。









 


「家族的」な会社の危ないところ ~ ホワイトに見えるブラックな部分

2014-09-18 01:02:41 | 経済・金融・ビジネス

 会社の求人募集欄を見ていると、たまに、小さな会社ほど「家族的な職場」であることを「売り」にしている会社があります。いつも険悪で今にも喧嘩が勃発しそうな、あるいは専制君主のような社長や上司のいる下でびくびくしながら働くよりも、家族的な雰囲気で働ける方がいいに決まっています。でも「家族的」ということが、働くうえでそんなにいいとも言えません。 

 小さな会社では、若くて体力のある人に無理してでも働いてもらいたい。体力のない高齢者を雇っている余裕はないともいえます。残業代も関係なく、とにかく死ぬ気で経営者と一緒に働いてくれる人を望みがちです。小さな会社の社長ほど、従業員に経営者と同じ気持ちで働いてもらおうという気持ちが湧いてくるのは仕方ありません。それでなければ、経営がやっていけないからです。 

 しかし、いくら社員が少なく家族的だと言っても、根本的に経営者と従業員はまったく違う存在なのです。経営者はいろいろなリスクを負っていますが、同時にそれに対する大きな見返りも可能です。高報酬、社会的地位、自由裁量、権限、これらは経営が成功すれば得られるオーナーのハイリターンの部分です。従業員の見返りと言ったところで、たかだかボーナスがいくらか増えたり、昇進して給料が増える程度です。それで満足であるという人はそれでいいですが、従業員にも自分の人生がある、自分の夢があります。その実現のために、なぜ見返りが大きくないのにリスク(倒産など)のある経営者と同じ意識で運命を共同にして働かなければならないのか。 

 こう言うと、仕事というのはそういうものじゃない、自分の能力を高めるため、経験を積むため、ひいてはそれが会社や顧客のためになるから働くのであって、金は二の次だという声が聞こえてきます。もっともです。仕事はいい加減にやっていればいいということではありません。徹夜してでもやらなくてはいけないときにはやるべきです。それを承知の上であえて、会社経営というリスクを経営者と一緒に負う必要はないし、経営者も従業員にそれを求めてはいけないと言いたいのです。経営者と従業員は、そのリスクもリターンも完全に別物なのに、従業員にも経営者と同じ意識を求めるのは経営者の一種の傲慢であると思います。 

 よく従業員も経営者と同じ視点、同じ意識で働くことが必要だと言われます。意識レベルではそれが必要だと思います。しかし実際には経営者レベルの意識になるには従業員は圧倒的に情報が足りません。会社の事情も分からないのに人事や財務の細かいことまで従業員みんながが知りたがったり口出ししたら、経営者は困るでしょう。そんなことよりも与えられた目の前の仕事をきちんとやっていてくれと経営者は思います。

 中小の会社はきれいごとを言っていたら潰れてしまう、とよく聞きます。青臭いこと言ってたら経営が成り立たない、と。でも、経営者自ら頑張っているのに、従業員も同じように頑張らないのはおかしいというのは、どこか間違っています。もちろん、従業員は従業員なりに、自分の持ち場で頑張らなくてはいけない。しかし、経営者と同じレベルで苦労して頑張れというのは、どだい無理な要求なのです。それは、経営者と従業員の立場をごっちゃにしているから言えることです。従業員も社長と同じ夢を見たいというならそういう道もありますが、同じリスクも負わなければなりません。 

 小さな会社で「家族的な職場」であることを強調したがる経営者がいます。従業員は、そんなことを求めてはいません。物理的にも精神的にも働きやすい職場環境と労働や能力に見合った給料、モチベーションが高められる会社を求めています。社内で昼食やおやつを一緒にとったり、会社みんなで飲み会に食事会、和気あいあいとプライベートも遠慮なく話し合って仕事をしていける――、もちろん、そうでないよりそのほうがいいに決まっています。しかし、それが低賃金、長時間労働、しかも残業代なし休日なしの代償であるなら、誰も家族的であることを望みたくありません。会社は家庭ではない、会社は働いて正当に報酬と休日をもらうところです。

 

 


トルストイ 『復活』 ~ 悲運の美女とわが悔悛の日々

2014-09-03 01:57:01 | 文学・絵画・芸術

 君は若い日に一度でも、悲運の境遇にある美しい女性を、自分の手で救ってやろうと思い抱いたことはなかったろうか。

 僕にはある。まるで、それが自分の使命であると感じ、そうすることで自分の正義なり思想が完結するとして、それでもう死んでもいいと思ったりした。自分がその女の救世主であるかと幻想したのだ。実際は人のために死んだりなんかできず、ただその女性と愛し合って一緒に生きていくことさえできればなあ、なんて考えていただけなのだ。しかもそんな悲運の美しき女性ですら、まだ見ぬ、自分がつくりだした幻影にすぎなかった。

 仮にそういう女性が現れたりしても、その悲惨な現実に押しつぶされ、何もできない自分がいただろう。

 トルストイは、『復活』一作を書いただけでも偉大な作家として名を残しただろう。トルストイといえば『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』の大作がある。『戦争と平和』は、就職前になんとか読み終えたが、長すぎて退屈したのを覚えている。『アンナ・カレーニナ』は3年ほど前に読んで、その面白さがやっとわかった。

 その点、『復活』はすぐに入り込めた。僕は自分が青年侯爵ネフリュードフとなり、悲運の美女カチューシャをずっと思い続け、やっと会えたという気がした。といっても、ネフリュードフのように、叔父夫婦の家にいた下女を誘惑して孕ませたということはない。でも不思議なことに、男はこういう話が出てくると、何か一つ駒の位置が違っただけで自分もそれを犯してしまったかもしれないという現実的な錯覚に陥る。

 カチューシャ(マースロワ)は、青年ネフリュードフの子を身ごもって女中として働けなくなり、ネフリュードフの叔父の家を追い出されて娼婦となる。数年後、身を持ち崩したカチューシャは事件に巻き込まれ殺人罪の宣告を受け、シベリア流刑となる。その裁判の陪審員席には、若き日にカチューシャ本人を一時は恋し誘惑したネフリュードフがいた。しかも彼自身が同席した裁判の判決は、手違いにより無罪の彼女を有罪と誤審したのだ。ネフリュードフは無実の罪を晴らし、カチューシャを救うことに生涯をかけると誓う――。こういう舞台がそろってしまうと、青白き文学青年でかつて恋愛に焦がれていた僕なんぞは、この歳ですっかりまいって、のめり込んでしまうのだ。

 それは、男のロマンティシズムである。しかし、女はリアリズムの中で生きている。だから、単なる純愛主義で彼女を救うなどというのは、女にとってこれほどうっとうしいものはない。女には、そんな男の性根がわかるのだ。

 カチューシャにとって、自分が生きる現実の世界はそんなに簡単に変えることはできない。ぎりぎりの現実の世界を生きている。ネフリュードフは生涯をかけて償いをする覚悟だが、それは彼自身を根本的に変えてしまうことになる。

 じつはこの物語自体、作者が実話を聞いて書いたものであるが、トルストイ自身が若き日にこの小説と同じ罪の体験をしたという告白がある。僕ら(読者)がこの小説に共感を覚えるのは、だれもが犯しやすい罪と、のちの人生にその被害者の運命を見た時の悔恨からくる贖罪感だと思う。

 このカチューシャの物語を通して、トルストイは当時の社会に対する批判をも描いている。それがカチューシャの不幸を現実感をもって浮き彫りにしている。カチューシャだけではない。低い階層と貧困というそれだけのために、同じ過ちであっても普通の階層の人より大きな罪として背負わされ、不幸の底に堕ちていく。僕らはそれが、今生きている現実の中で起きていて他人事でないような思いがしてくる。

 カチューシャは、ネフリュードフを今も愛していた。しかし、彼の申し出(罪人とされた彼女と結婚すること)を受け入れることはできない。彼の一生を台無しにしてしまう。それゆえ、彼への思いを断ち切って流刑地に向かう。結局ネフリュードフは、自分が彼女にとって必要でない存在と悟り、その事実を受け入れることで世の人々の苦しみに眼を向け始める。聖書マタイ伝に眼を開かれ、新しい行動に一生を捧げようと思う。「復活」とは、魂の救済のための新しい出発である。

 青春期にこれを読んでいたら、ネフリュードフとカチューシャの悲恋の物語として心に残っていたかもしれない。しかし今の僕の年齢で読むと、カチューシャの運命もそうだが、彼女を取り巻く、貧困ゆえに罪を犯さざるを得なかった善良な心を持つ人間たちの悲劇が身に沁みてくる。

 今の日本でも、ひとたび貧困に堕ちてしまうと、不運の中で一生を生きていきかねない。本当にそれで魂は救われるのだろうか。