FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

島村『夜明け前』 ~ 「夜明け」の前と後で  

2011-05-29 00:33:29 | 文学・絵画・芸術

今になってなぜ、日本の自然主義文学の大作を、と思われるかもしれませんが、1年がかりで読み終えました(岩波文庫 全4冊)。

 

ちょっと古くなりますが、文芸評論家の篠田一士が『二十世紀の十大小説』というものを書きました。S・モームの『世界の十大小説』の20世紀文学版です(ちなみにモームの十大小説は19世紀小説で、作家はドストエフスキー、トルストイ、バルザック、スタンダール、フローベール、ディケンズ、フィールディング、E・ブロンテ、オースティン、メルヴィルです)。『二十世紀の十大小説』の中には、ジョイス、プルースト、カフカ、フォークナー、ドス・パソス、マルケス、ムジールなどノーベル文学賞級の大作家がずらり並ぶ中で、島崎藤村の名がありました。

 

世界文学のそうそうたる作家の中に藤村の名があり、『夜明け前』があります。たかだか一評論家の本に入っていたといえばそれまでですが、どうも私は「十大○○」とか、「三大△△」「五大□□」というブランドに弱いようです。いずれ、19世紀と20世紀のそれぞれの十大作品を読みつくそうとは思っていますが、何しろ「大」小説なので、一つの作品が数冊もある長編ばかりで、なかなか取り組めません。

 

『夜明け前』。これはこれで、今さら私が言うまでもなくたいした作品です。ちょっと読むのに疲れましたけど・・・。小説というには歴史書に近く、歴史小説かというと叙事的でかなり読みにくいものでした。最後の100ページくらいは、ようやく普通の小説らしく読めました。登場人物の内部まで入っていけたからです。

 

途中までは、なかなか主人公青山半蔵の内部に入っていけません。だからといって、それでだめだというのではありません。好き嫌いは別にして、最初の出だし、有名な「木曽路はすべて山の中である。・・・」という1行を読んだ時から、これがただならぬ小説であることは感じられました。だからこそ、骨折りながらも2500枚もの枚数が読めたのです。

 

そもそも、『夜明け前』を1年前から読み始めたのは、「十大小説」であることもさることながら、学生の頃から、これはたいした作品だということをいろいろきかされていたからです。何がたいしたものなのか。この作品は、それまでの二葉亭四迷、田山花袋、森鴎外などとは全く異質な、というよりまったく欧米小説的な本格小説だからです。あの時代に、この小説が生まれたこと自体、奇跡に近いのではないでしょうか。

 

 日本ではまだ、バルザック、スタンダール、フロベールなどのような本格的な長編小説が出現していない時期に、私小説的な域をはるかに超えた歴史叙事的小説が出現したのです。おそらく、トルストイの『戦争と平和』に並ぶと言われても大げさではないでしょう(実際、そのように批評している評論家がいます)。

 

前期作品の『破戒』にしても、現代小説であるといえるほど長編小説として完成していました。『破戒』でも、人物の中に入ってさらりとその精神的なものを描くという才能は相当なものです。

 

長い長い、叙事的な部分も藤村ならではの文章ですが、最終章に近いところから、主人公半蔵が狂気に取りつかれていくところは、その数十ページだけでも一編の名作となるでしょう。半蔵は発狂したことになっていますが、正気とのはざまのうちに座敷牢に幽閉されてしまったら、半蔵でなくても精神は狂気と化してしまうでしょう。現代人の精神状況を考えると、狂気とはどのようにつくられるか、かなりぞっとします。

 

もちろん、『夜明け前』のテーマは青山半蔵が狂気になることではありません。明治維新という時代の大変革の中で、世の中が、人の心がどのようにかかわっていくか、その希望と失望を描いています。主人公1人の発狂は、それが反映した1つの事象でしかありません。

 

島崎藤村は、大変なものを書いたものです。

 

 


江の島「八方睨みの亀」 ~ 酒井抱一 八方開きの作     

2011-05-08 08:35:47 | 文学・絵画・芸術

  江の島 「八方睨みの亀」酒井抱一 作

 

江の島へは、よく行きます。今回はじめて知ってちょっとした驚きがありました。

江の島には、八方睨みの亀、亀石、亀岩と、カメの名がつくもののゆかりがあります。その中で「八方睨みの亀」は、神社の天井に張り付いている亀で、下から見ると、こちらの身体をどう動かそうとも、この亀に正面から睨まれてしまうものです。もっともこれには種明かしがあり、写真でも絵でも被写体の視線が正面にあるものは、見る者の視線がどう動こうとも正面から見つめられるようになります(試しに、誰かの正面を向いた写真でやってみてください)。

 

さて、小さな驚きはそういうことではなく、この作者です。賽銭を入れて掌を合わせ、天井を見る。四角い格子のある海の中を、とぼけた顔をしてゆうゆうと泳いでいる。海を泳いでいるのか天を泳いでいるのか。この発想は、思えば奇抜で素晴らしいものです。作者は、あの酒井抱一です。

 

今までも訪れているのに、うかつにも気が付きませんでした。ちゃんと亀の横に「抱一作」とあるではないか。酒井抱一といえば、あの「風神雷神」を描いた三大絵師の一人です。俵屋宗達が「風神雷神」を創り出し、あとを継いで尾形光琳が描き、酒井抱一は直接には宗達の「風神雷神」図を見ていないので、光琳の絵を見て模写したと言われています。この三絵師の「風神雷神」を見比べると、やはり最初に描いた宗達のものが圧巻です。実物を見ていて、飽きがくることがありません。光琳、抱一に下ってくるに従って戯画化し、コミック化してきます。神格から人、動物化してきます。

 

どうも愛嬌のある亀で、睨まれている気がしません。神格化から動物化して、むしろペットに思えます。ゆったりゆったり、宙を泳ぐさまは、まあ、ゆっくり生きましょうやと、ほっとさせるものがあります。亀は万年生きるそうですから、私たち人間とは、呼吸数が違うのでしょうね。