今になってなぜ、日本の自然主義文学の大作を、と思われるかもしれませんが、1年がかりで読み終えました(岩波文庫 全4冊)。
ちょっと古くなりますが、文芸評論家の篠田一士が『二十世紀の十大小説』というものを書きました。S・モームの『世界の十大小説』の20世紀文学版です(ちなみにモームの十大小説は19世紀小説で、作家はドストエフスキー、トルストイ、バルザック、スタンダール、フローベール、ディケンズ、フィールディング、E・ブロンテ、オースティン、メルヴィルです)。『二十世紀の十大小説』の中には、ジョイス、プルースト、カフカ、フォークナー、ドス・パソス、マルケス、ムジールなどノーベル文学賞級の大作家がずらり並ぶ中で、島崎藤村の名がありました。
世界文学のそうそうたる作家の中に藤村の名があり、『夜明け前』があります。たかだか一評論家の本に入っていたといえばそれまでですが、どうも私は「十大○○」とか、「三大△△」「五大□□」というブランドに弱いようです。いずれ、19世紀と20世紀のそれぞれの十大作品を読みつくそうとは思っていますが、何しろ「大」小説なので、一つの作品が数冊もある長編ばかりで、なかなか取り組めません。
『夜明け前』。これはこれで、今さら私が言うまでもなくたいした作品です。ちょっと読むのに疲れましたけど・・・。小説というには歴史書に近く、歴史小説かというと叙事的でかなり読みにくいものでした。最後の100ページくらいは、ようやく普通の小説らしく読めました。登場人物の内部まで入っていけたからです。
途中までは、なかなか主人公青山半蔵の内部に入っていけません。だからといって、それでだめだというのではありません。好き嫌いは別にして、最初の出だし、有名な「木曽路はすべて山の中である。・・・」という1行を読んだ時から、これがただならぬ小説であることは感じられました。だからこそ、骨折りながらも2500枚もの枚数が読めたのです。
そもそも、『夜明け前』を1年前から読み始めたのは、「十大小説」であることもさることながら、学生の頃から、これはたいした作品だということをいろいろきかされていたからです。何がたいしたものなのか。この作品は、それまでの二葉亭四迷、田山花袋、森鴎外などとは全く異質な、というよりまったく欧米小説的な本格小説だからです。あの時代に、この小説が生まれたこと自体、奇跡に近いのではないでしょうか。
日本ではまだ、バルザック、スタンダール、フロベールなどのような本格的な長編小説が出現していない時期に、私小説的な域をはるかに超えた歴史叙事的小説が出現したのです。おそらく、トルストイの『戦争と平和』に並ぶと言われても大げさではないでしょう(実際、そのように批評している評論家がいます)。
前期作品の『破戒』にしても、現代小説であるといえるほど長編小説として完成していました。『破戒』でも、人物の中に入ってさらりとその精神的なものを描くという才能は相当なものです。
長い長い、叙事的な部分も藤村ならではの文章ですが、最終章に近いところから、主人公半蔵が狂気に取りつかれていくところは、その数十ページだけでも一編の名作となるでしょう。半蔵は発狂したことになっていますが、正気とのはざまのうちに座敷牢に幽閉されてしまったら、半蔵でなくても精神は狂気と化してしまうでしょう。現代人の精神状況を考えると、狂気とはどのようにつくられるか、かなりぞっとします。
もちろん、『夜明け前』のテーマは青山半蔵が狂気になることではありません。明治維新という時代の大変革の中で、世の中が、人の心がどのようにかかわっていくか、その希望と失望を描いています。主人公1人の発狂は、それが反映した1つの事象でしかありません。
島崎藤村は、大変なものを書いたものです。