FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

サルトル - 『自由への道』への不自由

2011-02-27 21:28:25 | 文学・絵画・芸術

村上春樹が『海辺のカフカ』や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などの作品で使っている、2つのストーリーをパラレルに進行させる手法は、今では小説の書き手(あるいは読み手)には、スタンダードになっているのかもしれません。私がこうした手法を外国小説で初めて見たのは、サルトルの『自由への道』です。

岩波文庫では、一昨年からサルトルの『自由への道』が刊行されています。この作品は、人文書院の全集で2回読みました。長い小説で、厚い文庫本で6巻分(しかも未完)あります。面白くて2回読んだわけではなく、よくわからなかったから読み返したわけです。この小説は、いわゆる「全体小説」と言われるもので、人間存在をあらゆる要素から全体的にとらえて描写するという考えからきています。

人間を全体的にとらえるとはどういうことかというと、心理的、生理的、社会的にその存在をとらえて描写することです。といっても、何のことかさっぱりわからないかと思います。これは実際に、サルトルや野間宏(『青年の環』)などを読んでみないとなかなか理解できないでしょう。

たとえば、人物が何を考えているか。その意識の中はどうなっているか。恋する相手に対しての性感覚はどうか、経済的な環境はどうなのか、その時の社会や政治はどうなっているか、ということを人物に絡めて細かく書いていくわけです。ですから、どうしても小説は長くなります。当初、私はこの小説作法に感銘していましたので、長大な『青年の環』(8000枚)を苦もなく読めました。もっとも今では、果たして人間を全体的にとらえて描く必要があるのか、いやそんなことができるのかと、いくらか疑問には思っていますが。

サルトルについては、哲学書の方が面白い(「哲学的存在論とやわ肌の熱き血潮~サルトルと与謝野晶子」)。面白いといっても、すらすら小説を読むように読めるかということではなく、思想が面白いのです。サルトル自身も根っから哲学者なのに、なまじ文学的才能もあったため自分の哲学を小説用に書き直したところがあります。特に、初期の傑作と言われる『嘔吐』などには、それが言えます(これもよくわからないので、2回読みました)。画期的な小説と言えば画期的です。

自分の存在が、あるがままの存在であることに気づき、吐き気(心理的嘔吐)を感じるというものです。これはまさに、彼の哲学的大著『存在と無』の方法論を小説で具現化したものでしょう。ちなみに私は、タイトルの「嘔吐」がどうも気分悪く気に入りません。もう少し文学的表現はなかったのでしょうか。

『自由への道』では、登場人物の存在と歴史的事実がフラッシュバックされるという映画的手法をとっていました。主人公の意識と、ヒトラーの歴史的行為、世界大戦への情勢が映画のように、文1行ごとにパッ、パッ、パッ、と変わっていくのです。最初はそれこそフラッシュを当てられ目くらましにあったように、何だかわかりませんでした。これは、ドス・パソスが『USA』でやったもので、サルトルはそれを絶賛していたので、自分も真似したかったのでしょう。

文庫で新しく出ると、つい読み返してみたいというささやかな衝動が起こり、手に取ってしまいます。読み始めるとこれに没頭しなければなりませんので、忙しいとなかなかふんぎりがつきません。長い小説もちょっと罪つくりなものです。


村上春樹 ー 『海辺のカフカ』のカフカ

2011-02-15 01:23:25 | 文学・絵画・芸術
戦後派文学に夢中になった者としては、村上春樹の文章にはなかなか入れなかった(「村上春樹氏の声を聴け」)。無国籍(どちらかというとアメリカ小説翻訳調)的な文章は、1ページも進まないうちに跳ね返されそうな感じで読んでいけなかった。

それが、つい読み始めたら一気に読んでしまった。村上春樹の文章は、軽くすらすら読めるが、文体を持っている。大江健三郎の文章に似ているところがある。国籍がない。舞台は日本だが、日本的な文体ではない。これも、世界中で読まれやすいところかもしれない。

『海辺のカフカ』は不思議な小説ではある。二つの物語がパラレルに進んでいき、やがて交錯するというのは、ドス・パトスが『U・S・A』で最初にやっており、サルトルやフォークナー、また日本の作家でも同じ手法を使っているので珍しくない(サルトルの『自由への道』でこれを見たときは戸惑ったけど)。父殺しのテーマといっても、ドストエフスキー的な、何かに根ざしたものがあるのか、何が理由かよくわからない。

「カラスという少年」は、主人公カフカの自我のもう一つの形であると思われる。ナカタ老人は、カフカ少年の肉体的分身ともいえる。現実世界での分身であるが、それを生々しく体現させないためにナカタ老人を非現実的な存在とさせている(ネコと話ができたり、少年時にいっさいの記憶を喪失させたり、予知能力があったり・・・)。
夢と無意識と幻想が現実と交錯し、ストーリーを進展させていく、そこに性愛感情が絡むというところなどは、まま、小説家がよく使う手だと思う。全体的にはうまくまとまっている。

ただ、ナカタ老人がネコと話せるというのは小説世界ではどうということはないとして、イワシやヒルを空から降らせたり、大きな石を見つけて異次元の世界を開くとかというところになると、あるいはまたジョニー・ウォーカーというカフカ少年の父親らしき人物がネコの脳みそを食べているうちにナカタ老人に刺殺されるとなると、「おいおい、このオトシマエはどうつけるの?」(つまり、小説的にどのように結末に落としていくの?)と、作者に問いたくなったりする。

虚構の世界でも、ちゃんと筋が通っていないと、小説世界での現実性がなくなってしまう。面白く読んだけれど、なんだか、後味がいまひとつ。でも、若い人たちによく読まれている理由も少しわかった気がする。

毎年、ノーベル文学賞候補になっているということだけど、どうだろうか。無国籍的というのはグローバル的とも言えるし、強みといえば強みだ。かつて川端康成が受賞したような日本的美の情緒がなければならないというものではもはやない。世界で今、最も多く読まれている作家のひとりの作品を、もう少し読んでみようかと思う。・・・ところで、カフカというのは、まさしくあのフランツ・カフカですよね。作者もカフカの影響を大きく受けてるという。あのカフカの小説もよくわからないし、不思議といえば不思議な作品ばかりだった。(「城の夢 ― カフカにとりつかれて」)

プルースト『失われた時を求めて』 ~ 電子書籍でも読む?

2011-02-06 02:24:38 | 文学・絵画・芸術

 ―― 長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどするともう眠らなくてはならない時間だという考に目がさめるのであった、・・・・

唐突ですが、『失われた時を求めて』(井上究一郎訳 筑摩文庫)の冒頭部分です。長い長い小説がここから始まるのです。どれだけ長いかというと、純文学といわれる小説ではおそらく世界一ではないかと思います。それでもぴんとこない方は、文庫本700ページくらいで10巻分の長さだと考えてください。しかも、かなり小さい文字で、会話文は1ページに1~2行ある程度ですから、文字がびっしり埋まっています。文字が大きく行間が空いていて、会話文が多くスカスカの空間がある小説と比べると、おそらく同じ1冊でも2倍の文字量でしょう。

何も、長さを誇るだけの小説ではありません。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と並んで、20世紀文学の最高峰にあるマルセル・プルーストの作品です。文学部の学生の頃、全訳の文庫本が絶版になっていて、時間がたっぷりあったのに読めませんでした。主人公が無意識の深層に入ってゆく小説全巻の出だしにあたる文章に魅惑され、何度読みたいと思ったことか。

そのうち、第1巻だけ井上究一郎訳が筑摩書房で出ましたが、読むなら全巻一気に読みたくて、その時は読みませんでした。冒頭の有名な数行だけを読んでは、もったいなく思って本を閉じていました。1巻を読み終えて次の巻が刊行されていないと、続きを読みたくても読めない、いつ出るかわからないもどかしさに耐えるのは嫌だと思ったからです。

社会人になると、あんな膨大な量の本を読んでいられるほどまとまった時間はなくなりました。そのまま長い時がたち、井上究一郎個人訳の全巻がそろい、文庫本でも手に入るようになりました。数年前、ある日私はこの長大な小説を読破しようと思い立ち、仕事の合間のとぎれとぎれに、2年くらいかけて全巻読んだのです。青春時代にやり残したことを、ずっと気になっていて、中年になったある時急に(じつはいつかやり遂げようとずっと思っていて)、とうとう決意して断行する、ということが一つや二つあるでしょう。私の場合、それがプルーストだったのです。

『失われた時を求めて』というと、プロの文学者や作家でも全巻読み通した人は、そうそういないようです。最初の巻だけは読んだという人はいるでしょう。また、本場フランスでも、全巻読んだという人は小説家志望でもあまりいないらしい。ちょうど世界文学でも評価の高い『源氏物語』を、日本人で全巻(現代語訳でも)読んだ人がそれほどいないのと同じようです(私は、両方とも読みましたけどね)。

もちろん、小説なんか長けりゃいい、読んだだけでいいというものじゃありません。サムセット・モームなどは『世界の十大小説』の中で「くだらない小説を読むくらいなら、『失われた時を求めて』を読んで退屈していたほうがよほどまし」とまで言っています。あれだけ長いのですから退屈な箇所はところどころあります。モームに言わせれば、その退屈さも味わいがあるということなのです。確かに退屈な部分はありましたが、読み終えた今でも、もし時間がたっぷりあったらじっくり読み直してみたい名作です。

『失われた時を求めて』は、個人全訳ではほかに鈴木道彦(集英社文庫)のものがあり、その前には作家丸谷才一ほか分担役のものがあります。最近うれしいというか驚いたことに、岩波文庫で新しく個人訳のものが刊行され始めたのです(訳者名は覚えていません)。個人的には読む時間があるかどうかは別として、新しい訳が出ることはうれしいのですが、よく出したなあと思いました。この手の本は、よほどの小説好き(あるいは専門家)でない限り読まれないじゃないかということです。すでに2つの個人全訳が文庫で出ているところへ、商売的に採算が合うのか、余計な心配をしています。運よく最初の巻が売れても、最後の巻までたどり着ける人がどれだけいるか。いや、第2巻まで続く読者がどれだけいるか・・・・。

こういう本は、評価は別にして、そうそう売れるものではないし、売れなければ書店の本棚から消えていくしかない。書店の棚にはスペースに限りがあるので致し方ない。一度棚から消えてしまった本は、たいてい2度とその棚に戻ってこられない。どうしても読みたい時は図書館で読むしかない。これは、宿命なのです・・・・。

・・・と、こういう問題が解決できるのが、電子出版というものなのでしょう。電子書籍なら、書店のスペース、売れ行きに関係なく、いつでも在庫をデータから持ってこられる。売れない名作、良書をいつでも読むことができる、ということになるらしい。これはこれで、きっと素晴らしいことに違いない。・・・でも、『失われた時を求めて』のような小説は、電子版のタッチパネルでページめくりするよりは本棚にいつでも積んでおいて、さあ、その時が来た、という自然な気が起きて読み始め、一ページ一ページ、じっくり指の先で紙をめくっていくことが、きっと似合うというか、落ち着くという感じがするのですが・・・。