ネット仮想空間としての「セカンドライフ」が世界中で話題になったのは、ほんの何年前でしょうか(以下、FPのセカンドライフと区別するため「仮想セカンドライフ」とします)。話題になった時は多少興味を持ちましたが、自分でやってみたわけでもないし、仕組みもよくわかりませんでした。
中学生の頃、「モノポリー」という、スゴロクと出世ゲームを合わせたような人生ゲームをやったことがあります。それのインターネット版かな、くらいしか分かりません(違っていたらごめんなさい)。要は、現実の世界とは別にある「もうひとつの」時間空間という意味です。仮想セカンドライフでは、仮想通貨で取引したり、その仮想通貨を現実界のお金に換えることもできるらしいです。
ファイナンシャル・プランニング(FP)でいうセカンドライフというのは老後設計のことです。会社(事業)を引退した後にどういう人生目標を描いているか、その目標をどうやって実現していくか。引退後の希望が実現し悠々自適で、のんびりした生活が思い描けるでしょうか。実際は、老後も夫婦で働かなければ生活していけない、病気したら一気に貯蓄がなくなる、家のローンが残っているのに定年前にリストラされた、定年時に貯蓄が残っていない、などなど、けっこう切実です。
仮想セカンドライフは、現実界とは別にある「もうひとつの(裏側の)」人生、FPのセカンドライフは現実界にある「第2の」人生という意味を持ちます。現実生活で切実な状況にある人が、まさか、「セカンドライフ」の意味を取り違えたりはしないだろうか・・・、と少し危惧していました。
仮想空間はなぜ終焉したのか
そんなことを思っている矢先に、仮想セカンドライフを運営しているベンチャー企業が次々と撤退、閉鎖、破綻という記事が出ました。仮想都市はゴーストタウンと化し、仮想通貨を持つ人は仮想破産、という事態が“あの中の世界”で起きているようです。リアル(現実)の世界では、このシステムを運営している企業の社員は実際に失業し、現実世界でも破産しかねません。誤算は、どこにあったのでしょう。
利用者の声を読むと、これだけネット世界が進化しているのに、この仮想空間は“リアル感”に欠け、システム作りの進化が遅れていたと言います。ネットに慣れきってしまったユーザーは、「ちゃちぃ」のがわかると、ひとつの仮想空間に居続けることに飽きて、さっさと出て行ってしまうということです。
最近、円天の詐欺問題や、天才女トレーダー投資詐欺事件など、相変わらず「うまい話」に騙される事件が相次いでます。円天などは、ネットの仮想空間ではありませんが、会員だけで流通する「円天通貨」やショッピングモール(商店)があります。会員は、年配者が多いと聞いています。結局、方法やシステムは違えど、現実界でセカンドライフを迎える人も、「仮想」という、何か誘惑的で閉ざされた、独特の空間に居心地を求めているのでしょうか。
ネットの普及によって、「仮想」の世界は、これからも進化していくでしょう。ネット銀行、ネット証券、ネット保険、ネット商店・・・。しかし、仮想に浸りきると、リアルの世界で適応しにくくなるのではと案じています。サラリーマンが現役を終えた後に迎えるセカンドライフは、決して「仮想空間」ではありません。お金も身体も食べる物、住む所もすべてリアルな「現実空間」です。現実だからこそ、最終的に人と人の対面でのやりとりや取引、それに伴う中立な相談やコンサルティングが不可欠になってくるのだと思います。
「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが暮らしていました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。・・・・」
子どもに聞かせる昔話にはよく、おじいさんとおばあさんが登場します。これは、人間の潜在意識にあるもので、子どもと年寄りは、どちらも「あの世」に近い存在だからだそうです(梅原猛さんの著作にあったように記憶しています)。
子どもは「あの世」から「この世」に入ってきたばかりだし、年寄りは「この世」から「あの世」にもうすぐ出て行く。どちらも「あの世」に近いし、どちらも「この世」では両端っこ(誕生と死、始まりと終わり)にいる。だから、子どもと年寄りは意識が近く、どこかでつながっている。昔話を聞く子どもには、物語の最初に出てくる年寄りの存在が身近なのです。
冒頭の出だしを読んで、ほのぼのとした光景が浮かび上がってくる・・・だろうか。村上龍氏の『おじいさんは山へ金儲けに』を読むと、この本自体は、昔話をなぞりながら経済や投資の話を、その道の専門家と対談しています。これはこれで、なるほど、と思う内容です。
しかし、冒頭の情景を想い起こすと、けっこうぞっとします。じつに深刻な今の世相がダブって見えてきます。昔話は、大人になってから想い起こすと、たいてい怖い話が多い気がします。以下は、本の内容とは違う、私のイメージです。
昔話も今話も変わらない
まず、おじいさんは何しに山へ行ったのでしょうか。そうです、柴を刈り取りに。何のために? 家のかまどの薪にしようと。・・・いや、「金儲け」のためです。刈った柴を薪として売り、お金に換えて生計を立てるためです。でも、たぶん、枯れ木程度のものばかりで売り物にならず、持ち帰って家のかまどにくべるのでしょう。
おばあさんといえば、当時、クリーニング屋さんがあるとは思えませんし、あったとしても、人里離れた村では商売にならないでしょう。仕方なく、おじいさんと自分の着物を川で洗濯して、少しでも長持ちさせて着ようとします。
そもそも、おじいさんとおばあさんと二人きりなのでしょうか。子どもがいたとしても、町に出て行き、そこで妻子と暮らしているのかもしれません。働いて重い税金(年貢)を納めているのでしょう。あるいは戦(いくさ)に取られて、まさに少子なのかもしれません。年寄りを養う余裕はないのです。おじいさんとおばあさんは、村でひっそりと、一生働いて生きていかなければならないのです。雇用延長など最初から関係ありません。死ぬまで働くのです。病気になったら、・・・病気にもなれないのです。
貯蓄? あったら、さびしい村で暮らしてはいないし、腰が曲がっているのに柴刈りなど、行かないでしょう。この時代(『桃太郎』『竹取物語』などの考証からすると平安から室町の時代か?)、貴族ならいざしらず、庶民に年金制度はありません。今は、国民皆年金の制度がありますが、年金だけでは暮らしていけないとなると、昔話の年寄りとさして変わりません。朽ちかけた、リフォームもできない藁葺きのマイホームだけが頼りです。
さて、では、投資は? 投資や資産運用の概念もなかったでしょう。賭け事はあったかもしれません。株もある意味、博打ですから、そういう意味では共通してるかもしれません。(株式投資はれっきとした資産運用であって、博打ではないという“神聖な”意見があります。私も現代投資理論をかなり勉強しましたが、“神聖視”しすぎです。)
こうしてみると、昔も今も、たいして変わらないものだと思えてきます。
ひとつ違うところは、退職金をもらった多くの「年寄り」(昔話では60歳はれっきとした年寄りです)が、それなりのお金を持っていて、それをどうしていいかわからず、「山」ではなく「金融機関」へ、「柴刈りに」ではなく資産運用の「相談に」行くことでしょうか。
よもや金融機関は騙したりしないでしょうが、「なんとか団体」を名乗る儲け話が後を絶たないのが、今の時代の特徴です。
映画は年1回くらいしか観に行きません。正月などに、何を観に行くというより、行ったその場で上映している中から選びます。この間は、夫婦で休日が一緒になったので、今年2本目の映画を観てきました。『旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ』。
旭山動物園については、テレビでドラマ化されたり、ドキュメントや新聞・雑誌などでも取り上げられたりして、今さら言うことはありません。映画は、内容がどうのというより、家庭で観る感じで退屈しませんでした。ところどころで、ちょっとほろりとする場面もあります。
映画の中で、ちょっと気になったことがありました。動物愛護団体の女性メンバー(前田愛)が園長(西田敏行)に、「動物を檻に閉じ込めておいて、動物が不幸だと思わないのか、動物を虐待しているのではないか」というような抗議をしています(この女性は獣医でもあり、結局、園長の考えに共鳴して動物園の飼育員になります)。
この問いは、いつでも繰り返されてきたことです。これについて答えることは難しい。映画では、別の新人飼育員が「自然界では、絶滅する動物もいる。こうして、自然界の脅威に晒されずに安心して生きていけるよう、人間の手によって飼っていくことも大事だ」という意味を言ってました。その通りです。ただ、「自然界の脅威」のみによって絶滅が急速に進んでいるのではなく、人間の欲望や横暴、自然環境の破壊から多くの絶滅種が増えていると言われています。
先ほどの問いに対しては、明確な答えが出ません。「動物を飼ったり、見たりすることで、動物の生態を知り、命の大切さを知る」―、というような教科書的な答えでいいでしょうか。ただ、多くの子どもや大人は、そういうことを考えて動物園に行くわけではありません。動物を見るのが楽しいからだし、面白い、可愛い、飽きないからです。だから、自分たちも動物を飼っているのです。理屈ではなく、感情からでしょう。人間と動物の心が交流できれば、こんな素晴らしいことはありません。ペットを飼っている人は、多くがそれを実感しているのだと思います。
中には、人間とはどうしても生態、行動を相容れない生き物がいます。そちらのほうが圧倒的に多いでしょう。それは仕方ないことです。それでも動物は芸術品だと思います。神が自然界に贈ってくれた一級の芸術品です。ひとつひとつの個体が、その姿かたち、色、模様、生態、能力、どうしてこんなに何千万種もの異なる生き物が造成されたのかと驚きです。美しいものだけでなく、醜いもの、恐ろしいもの、奇妙なもの、猛毒を持つもの、すべて興味深く、それが面白く、いい歳をしてよく動物園に行きます(子連れではなく、夫婦大人同士で)。
動物管理センターに捨てられる(処分するよう預けられていく)ペットの収容費用がかさむので、「ペット税」を導入する、なんて記事が昨年末に出ていました。何か間違っています。必要な費用なら負担しなければなりません。でもその前に、一度飼ったら、死ぬまで付き合うのが飼い主の義務です。個人的な気持ちとしては、ペットを理由なく勝手に処分することを、罰則として厳しく取り締まってもいいような気がします。(『ペットのいるライフプラン』)
こう書くと、ごくありきたりになってしまいますが、勝利演説、就任演説ともよく読んでみると、やはり同一の人が書いている演説だな、と分かる気がします。
なんだ、当たり前のことじゃないか、勝利演説も就任演説も、オバマ氏が演説しているのだから―。そんな声が聞こえてきます。私が言っているのは、スピーチ・ライターのことです。選挙戦始まって以来、全米各地で行われたオバマ氏の演説は、一人の青年が草稿を書いてきました。ジョン(ジョナサン)・ファブロウ氏、27歳。
昨年の勝利演説を聴いた(読んだ)時、この原稿を書いた人間はどういう人物なのだろうと、ずっと気になっていました。ネットでちょっと調べれば、ファブロウ氏がオバマ氏の演説原稿をずっと書いてきたということはすぐわかります。もちろん、書いたといっても、オバマ氏の理念・思考を受けて、ファブロウ氏がそれを練り上げて文章化されるわけです。
卓越した文章力により作られた演説
私がこだわっているのは、その「文章学」というものです。勝利演説と就任演説の二つを読み比べると、ファブロウ氏の文章には明らかな特徴があります。それは、「目線を足元に落とす」ということです。どういうことかと言うと、厳しい現実に立ち向かう理想や夢、希望をうたい上げると同時に、その合間に、ふと足元の、“名もない人たちの、名もない行為”、“歴史からそのままでは消えうせてしまうかもしれない人たちの行為”を引き合いにして現すことです。それは、人々には知られていない勇気であったり、正義だったり、苦難や屈辱だったりします。ここに言葉が当てられるだけで、人々の心に光がさすのです。報われるのです。
―「彼らは私たちのために工場で汗を流して働き、西部を開拓し、むち打ちに耐え、硬い大地を耕してくれた。」
―「これらの男女は私たちがよりよい暮らしを送れるように何度も何度も苦闘し、犠牲を払い、手が腫れるまで働いてくれた。」
―「貧しい途上国の人々に言いたい。畑が豊かになり、きれいな水が流れるようになるようあなたがたとともに取り組んでいく。飢えた体を養い、向上心のある脳を満たしていく。」
―「堤防が崩れた時に見知らぬ人を受け入れる優しさ、友人が職を失うくらいなら自分の労働時間を短縮する無私の心が、暗黒の時に我々を支えてくれる。煙に満ちた階段を駆け上る消防士の勇気、そして子供を育てる親たちの意欲が最終的に我々の運命を決める。」
―「これ(自由、信条)があるから60年前ならレストランで食事をすることもできなかったかもしれない父を持つ男が、最も神聖な宣誓を行うためにあなた方の前に立つことができるのだ。」
―「米国が生まれた年、最も寒い月に、愛国者の小さな集団がいてつく川沿いの消えかけたたき火に身を寄せ合った。」
―「子々孫々が今を振り返った時に、我々が試練の時に旅を終えることを拒否し、引き返すことも、たじろぐこともなかったということを語り継がせようではないか。」
(引用文は、日経新聞掲載の「オバマ米大統領の演説」日本語訳)
こうした引用は随所にあり、名演説といわれるケネディ大統領の演説には見られません。この書き方は、文学的表現の常道をいくものです。演説内容はオバマ大統領の意思が反映されているとはいえ、具体的な文章表現はファブロウ氏の手腕でしょう。ファブロウ氏は若くして秀才であり、政治・経済事情にもかなり精通しています。それ以上に、人をひきつける文章力、作家的素養も相当あるスピーチライターであると思います。政治のみならず、幅広い分野のジャーナリズムで今後活躍が期待される、ひじょうに楽しみな人です。
円定期預金の金利が良くなっています。つい何年か前までは金利が0.01%で、100万円を1年預けても100円しか利子が付かず、引き出し手数料のほうが高くついて元本割れしてしまうくらいでした。それが、この間までネット系では1%を超える金利も珍しくなくなりました。ネット系以外の銀行でもキャンペーン金利などで高めの金利が付いています。
これ自体は喜ばしいことですが、問題はこうした金融商品の広告です。真剣に身構えて読まないとどういう仕組みなのか分かりにくいし、じっくり読めば読むほど分からなくなってきます。実際に一般の人は分かるのでしょうか。「金利にプラス□%の上乗せ」という謳い文句だけで誘われると、どうなるか・・・。
今回は詳しく説明しませんが、中には「仕組み預金」もあり、預金と言いながら、市場金利によっては元金を割ってしまうものもあります。金融破綻で悪者扱いされているデリバティヴ(プットオプション)を仕組んだもので、償還条項に満期日を金融機関側で決めることができると定めてあるので注意が必要です。(デリバティヴそのものが悪いのではありません。)
ここでは、そういう金融工学を使ったものではない定期預金を見ています。A大手銀行の最近の新聞広告を見ると、退職時期に合わせて退職金運用向けのサポートプランが載っています。5段(新聞1頁のほぼ3分の1)のスペースに一目見ただけで、気持ちが悪くなるほど細かい数字でびっしり文章が書かれています。
まず、預けるお金は、退職金でなければだめです、ということです。わざわざ、退職金が振り込まれた口座の預金通帳や退職所得の源泉徴収票など、確かにあなたが退職金をもらったという証拠となるものを持ってきてくださいと、まるで税務署か何か、役所の手続きみたいに書かれています。要するに、既設口座からの振り替え預けでなく、新規でそれだけの大口なら、いい扱いをしてあげますよ、ということでしょう。
読みづらくてわかりにくい広告
問題は、預けるだけのメリットがあるかどうかです。1回通しで読み回しても、複雑な説明が多くてよくわかりません(私の頭が悪いのか、広告を書いた人が優秀なのか)―。預ける金額や期間によっていくつかプランがありますが、仕組みはほとんど同じです。あるプランでは退職金を預けるうちの50%以内を6ヵ月の円定期預金にする、その6ヵ月間は店頭表示金利にプラスして年3.5%(税引後年2.8%、6ヵ月だからこの半分)を上乗せするというプランです。同時に残りの50%以上は3年間の定期預金に預け入れることになる。この分は、店頭表示金利になります。
50%以内の6ヵ月円定期は自動更新されますが、自動更新後は店頭表示金利になり、6ヵ月の満期前に中途解約すると、中途解約利率がかかって受取利息が0円になることもある、とあります。ただ、こうした留意すべき点は、長くてたくさんある文章の中に埋もれて、なかなか見つかりません。ほかにも、びっしり説明文句や注意書きなども丁寧に書かれていますが、一般の人がとても読む気にはなれないでしょう(私は仕事柄、細かく読みますが最後まで読むにはけっこう意志が要ります)。
このプランが悪い商品というわけではありません。仕組み預金ではないので、中途解約しなければ元金保証で、預金保険制度対象にもなっています。6ヵ月分の円定期の利息は少し魅力ですが、恩恵は6ヵ月のみです。それに、退職金の残り50%以上を3年定期預金に預けるのなら、ほかに有利な金利があれば、わざわざ6ヵ月定期と3年定期に振り分ける必要もなく、退職金全額まとめてそちらの商品にしてもいいのではないでしょうか。
大口定期の店頭表示金利を見ると、6ヵ月では年利0.17%、3年では0.35%となっていますから、総額で比較してみると、退職金1000万円なら3年定期の金利がだいたい0.45%以上なら、いっぺんにそちらの商品に預けたほうが得になります。逆に0.45%以下なら、A銀行のプランが得になります。退職後の生活費として、6ヵ月後すぐに引き落として使う予定があるなら、このA銀行のプランで、6ヵ月定期の満期分は使いようがあるかもしれません。
このレベルの金融商品について、こと細かく書かれてあるのは、A銀行というより、金融商品取引法上の広告表示の規制があるからなのでしょう。必要なことはすべて書けという親切細かい説明はありがたくはありますが、無理して分かりにくい広告を出すほどなのか、逆効果のようにしか思えません。
※このブログは、金融機関とは直接関係を持っていません。あくまで自由に私見を書いています。金融商品の判断はご自身でなさってください。
「夢が、睡眠中に再現され、映像に映し出される」― 。
最近のニュースです。
夢は、昔から不思議なものでした。夢の中でインスピレーションを受けたり、宗教上の啓示を授かったり、そこでは物語が展開し、絵画が現れ、現世では聴けないような音楽が流れたり。その世界には悪魔がいて、神がいたり、地獄や天国が混在し、そこから偉大な宗教や芸術が生まれました。
シュルレアリスムの文学者は、夢を見ながら同時にその夢を文章に書き写していくということをしました。映画を観ながら、同時進行でその物語や光景を紙に書き写していくのと同じです。それがそのまま、詩や小説、文学となりました。
宗教家も同じように託宣を受けます。恍惚となって神のお告げを聞く姿は、夢をそのまま言葉に写しているのと同じ作業です。ひとつ違えば、それは霊媒師や潮来(いたこ)になります。
夢占いというものは、何千年も前からあったようですが、精神医学として解明しようとしたのがフロイトでした。フロイトの『夢判断』などは、読み物としてもかなり面白いものです。これに関連付けて『精神分析入門』も、夢中になって読んだりしました。精神分析は、精神医学はもちろん文学や芸術、思想に与えた影響は計り知れません。
夢の映像を保存しておく
・・・と、かなり前段が長くなりました。この夢の中身を、科学的に画像(静止画)や映像(動画)に映して、それを保存しておくことが将来できるようになるというのです。デジカメやビデオで撮ってパソコンに画像や動画を保存しておくように、近い将来(どれだけ近いのか)、自分のブログに「昨日はこんな夢を見ました」なんて公開できるかもしれません。
こういうことが100年前にできていたら、フロイトやユングなど、精神分析学者は泣いて歓喜したでしょう。ケネディやアインシュタイン、ドストエフスキーやモーツァルト、ダ・ヴィンチなど、天才の夢を上映する映画館には大行列ができるでしょう。でも、ちょっと不安でもあります。夢は、かなり個人情報的で、人間の心の奥底に眠る醜い部分、汚いもの、性的な部分まで吐き出してしまいます。それによって、精神医療などの分野では高い効果も望まれますが、もし犯罪などに使われたら・・・。
人間の心の奥底に眠る意識(無意識とか深層意識、仏教では阿頼耶識とか言われる)は、氷山に喩えられるように、海面に出ている表層部分はごく一部で、99パーセントは海面下に沈んでいます。海面下の意識をどのように使うかで、人間の意識は飛躍的に上昇すると言われています。しかし、この「夢」の奪い合い、特に偉大な科学者や芸術家、影響力のある政治家・指導者などの「夢」の情報が当の本人の生存中に奪い合いになると、世界は大混乱になるでしょう。
科学ミステリーとして書く分には、面白いでしょうが、ちょっと怖い気がします。画像・映像化される夢などは単純なものだけにして、フロイトやユングが研究対象としてきた意味深い夢の映像化は、来世紀、来々世紀になっても、まだ実現が叶わないように、神秘のまま残しておきたい心境です。