宇宙飛行士 若田光一さんがスペースシャトル「ディスカバリー」で宇宙に飛び立ちました。宇宙ステーションに3ヵ月半、滞在します。
私などは、肉体的にもそうですが、精神的な負担はどうなのだろうかと素人ながら心配してしまいます。事実、宇宙に長期滞在して、精神的ストレスからうつ状態になってしまい、地球との連絡ボタンを切ってしまった宇宙飛行士もいるそうです。ジャンボ機程度の空間で、わずか数人だけの日常、しかも失敗が許されない過酷な任務。地上にいてもストレスで潰れそうなのに、今のところ若田さんは「毎日が楽しい」と報告しています。
自由度の大きさが精神的ストレスを救う
密閉空間で、人間がどれだけ精神的に耐えられるか ―。それは、自由度に大きく左右されます。私は比較的、狭くて密閉された空間に何時間いても平気なほうです。ただし、条件があります。その気になれば、いつでもその空間を自由に出入りできるということです。
日常の例では、朝、通勤の満員電車、突然の事故で停止してしまったという経験があると思います。私は数秒で心理的なパニック状態に陥りそうになります(実際は耐えますが)。身動きできない状態で、いつ動くのか、いつまで止まっているのか、さらにその放送(情報)すらないと、心理状態はかなり危なくなります(実際は耐えますが)。
いざとなれば、非常用コックでドアを開け、外に飛び出す究極的な自由度はありますが、そうそう、その自由を行使できません。自由度のない密閉空間は、閉塞空間となります。あのまま、数十分も社内放送がないと、乗客の何人かは明らかに半狂乱になるでしょう。
若田さんの場合、今回の宇宙滞在は密閉空間といえども、ステーション内は任務の制約内で自由に移動できる、NASAとは常時連絡が取れる、いつまでの滞在期間か決まっている、業務時間外は家族や友人とプライベートのメール通信ができる、任務にはルールがあっても全面的な裁量が与えられている、何より名誉かつ好きなことをやれる、などかなり自由度があるといえます。
宇宙飛行士の資質
先日、NHKで、日本人宇宙飛行士を選考する試験の模様をやっていました。千人近い候補者の中から最終選好に10人が選ばれました。ここからさらに、3人を選びます。応募者はいずれもその道のプロ、専門知識と高いレベルの経験を持つ人たちばかりです。3人が選ばれる基準はどこにあるのでしょうか。
優秀な技術と専門知識と経験、最終段階ではそうしたものは決め手になりません。それは全員が備えているからです。黙々と何時間も折鶴を折らされる忍耐力、急変時に短時間でロボットを改造するとっさの対応力、仲間を和ませるコミュニケーション力、プロジェクトが行き詰った時のリーダーシップ、などが隔離施設で試されていました。最後に選ばれるための資質は、結局、“自由を尊重した人間性”という単純なものです。単純であるけれど、もっとも難しく高い基準なのです。
宇宙飛行士となっても、このような高い資質を維持するための訓練が続くのだと思います。私たちが、密閉空間や閉塞空間の中、自由度が低い状況で精神的ストレスを感じるのとはかなり次元が違うのでしょう。
富岡八幡宮に伊能忠敬が歩いている―。
伊能忠敬像(富岡八幡・江東区)2009.03.10
伊能忠敬は、教科書で誰もが知っている。日本地図を作った人です。受験勉強なら、ここまでの知識で十分でしょう。私もその程度で、ほとんど興味のない歴史上の人物でした。井上ひさしの小説に『四千万歩の男』というのがあります。伊能忠敬のことを書いたもので、文庫本600~700ページで5巻分もあります。今はとても読む時間がありません。
この人物が、俄然、私の前に占拠してきました。
日ごろ、運動不足で体重が気になっていたところ、メタボ検診で、例のBMI(肥満度)がわずか「0.5ポイント」オーバー。腹囲は85cm以下なので、肥満ではありませんが、BMIの規定値をわずかでも超えたのが自分でも気に入らないのです。
女性のメタボ相談員からは、毎日のお酒を控えたら、と言われました。「お酒はカロリーが高いので」、と。
― ちょっと、待ってください! 毎日のお酒といっても、夕飯前のコップ3分の1の日本酒ですよ。こんなのは、食前酒であって、一日の疲れを取るのと食欲を増す程度のものなんです。毎晩、外で飲み歩いて酔って帰るのとわけが違います。そのアルコールをやめろというなら、一日何のために働いているのやら・・・。
と、抗議にならない意見をやんわり言ってやりました。彼女は、おそらく数字上だけのカロリー計算で言っていたのでしょう。
― ま、まあ、そうですね。それくらいのお酒は、一日働いたご褒美ですものね。では、毎日、一万歩歩きましょう。
かくして、万歩計を持ち歩くことになりました。
彼女がというより、そんなこと言われた自分が癪に障ったのです。以来、毎日歩いています。今の通勤経路では、あまり歩かないですんでしまいます。だから一駅分、朝の片道と昼休みの往復を歩いています。これでも、一万歩にはなかなかなりません。
ひたすら歩く男
そんな折り、伊能さんの像を見つけたのです。見よ、この歩きっぷり。初めの一歩。伊能さんが日本地図を作るために、ここ富岡八幡を起点に測量に発ったのは、56歳だそうです。以後、17年かけて、現在の地図と比べても遜色ない地図を作り上げました。当時は、精巧な道具などなく、ただ歩幅を一定に保って、野や山はもちろん、海岸など道なき道を歩き続けたのです。眼前に崖があろうと、滝があろうが、河があろうが、ただ突っ切って行くしかなかった(?)のです。
もともと伊能さんは大変な努力家で、それまでも商売をしながら独学で天文学などを修めていました。50歳すぎて商家を隠居してから、本格的に星学暦学の勉強を始めたといいます。
人生50年と言われていた時代に、そこから世に残る大仕事を成し遂げたのです。しかも、江戸時代、正確な日本地図を作ることは幕府の一大国家プロジェクトだったはずです。にもかかわらず、資金はすべて自腹。商売で成功した人だからこそできたわけです。
さて、私が驚嘆したのは、日本地図の偉業もさることながら、その健脚ぶりです。ひたすら歩くこと35,000キロ、およそ四千万歩。伊能忠敬の銅像に触発されて、毎日昼休みと言わず、一定の歩幅で颯爽と歩いていきます。おかげで、一万歩を超える日もたまにあります。それにしても、最近、靴底の減り方が気になります。外縁が減っていくのが分かります。そういえば、伊能さんは、いったい何足の草鞋を履きつぶしたことでしょう。
『蟹工船』が相変わらず売れているようです。昨年暮までに40~50万部は売れ、その後も部数を伸ばしています。先日も地元の書店で、『蟹工船』の文庫本が平積みになっていました。あのごつい、ちょっと戦慄の走る、暗い鋭利的な感覚のする赤と黒の表紙です。どす黒い時代を反映した古い白黒映画を思わせる表紙・・・、なのに現代版として映画も蘇るようです。
私が読んだのは、20代終わり頃でした。ディテールは覚えていません。プロレタリ文学の代表作として、読んでおかなければならないと思ったのです。最初は肩を張って読み始めましたが、意外と面白くてすんなり入っていった記憶があります。“面白い”というのは、小説として面白いという意味です。中身は、悲惨な労働者階級、資本主義的な用語で言えば、被搾取者階級の過酷な労働を描いたものです。小林多喜二は、この作品で当時の特高警察の目が厳しくなり、捕らえられて酷いリンチを受け、死に至らされました。作者多喜二は、資本主義の矛盾を描くことに、当初から死を覚悟していました。
この小説がこれほどまでに売れているのは、昨年来から特に問題になっている非正規労働者と正規労働者の「格差」が顕わになってきているからということで、若者たちの間でも共感を呼んでいるようです。
マルクスが『資本論』で予言したとされる共産主義国家は、ロシア、中国など一部の国で実現しました。しかし、資本主義経済が発展して国家全体が豊かになると、被搾取者階級である労働者(労働者という言葉が重ければ勤労者)も、そこそこ個人としての豊かさを味わえるようになり、「搾取されている」という意識は衰退してしまいました。
特に景気が一気に悪くなった昨年後半から、労働者が搾取されているという考えよりも、労働者そのものが労働者の間で差別されているという考えに変わってきました。非正規と正規では、給与の額も雇用の形態も、社会保障の扱いも「格差」と言われる差別があるのです。
能力のない者が「蟹工船」に乗るという意識構造
たとえば、賃金だけで見ると、男性の「正社員・正職員」の賃金ピークは、
月額43万2800円(50~54歳)
「正社員以外・正職員以外」の賃金ピークは、
月額24万7200円(55~59歳)
その差は18万円以上もあります。働き盛りの正規労働者の賃金100%に対して、非正規労働者は57%ほどの賃金にしかならないのです(厚生労働省の平成19年「賃金構造基本統計調査(全国)結果の概況」より)。
しかも、厚生年金の加入対象や退職金支給基準に該当しない場合も多く、賃金、退職金、厚生年金を総合すると、生涯に受取るお金の格差は相当な開きとなるでしょう。それでも、好景気の間は働き方の多様性としてフリーターや派遣もひとつの生き方で通っていました。もちろん、自由に生きるということと、いつでも自由を切られるという矛盾ある狭間での生き方ではありましたが・・・。
先ほどの数字から見て、最近話題なっているワークシェアリングを行うとなると、どのように賃金を振り分けるのでしょうか。明らかなことは、今の不況下では非正規・正規とも今より賃金が低下することは避けられないということです。ただ、非正規雇用者の賃金をこれ以上下げすぎると、最低賃金法もさることながら、生活そのものが苦しくなってやっていけなくなるでしょう。そうなると、正規雇用者の賃金をもっと下げるしかありません。今の正規雇用者が、その低下にどこまで耐えられる意識があるかということが問題になってきます。
― 「正規」というのは、先に取った者の権利だ。先に取った権利者が、自分の立場を悪くしてまで「非正規」のために犠牲になれるか。
という言い方まで出てきます。
― そんなことを言ったって、会社全体が潰れたら意味がないではないか。
という声もあります。
問題の難所は、意外とこのあたりにあるのかもしれません。「非正規」になったのは本人に能力がないからだ、怠慢だからだ、運が悪いからだ・・・、理由はいくらでも付けられます。
被搾取者階級の人間がそういう階級に生まれたのは、能力がないから、努力しないから、そういう身分に生まれたからであって、そういう人間たちが「蟹工船」に乗り込まされたのだ―。こういう考え方は、まさに体制側の考え方です。そういう考え方を持たされている人は、いつ自分が「蟹工船」に乗らされることになるか、わかっていないのかもしれません。
つねづね思うのですが、日本の政治家も、自分が役者になったつもりで真剣に“政治家”を演じるべきではないかと思います。少なくとも、数十分の演説の最中に原稿をあまり見ないで丸暗記してでも喋ってほしい。その場は役者としての政治家の独壇場なのだから。そう思いながらも、やはり日本の政治家がオバマ大統領のようにやったら、かえって嫌ったらしいし、気持ち悪いでしょう。やっぱり、役人が書いた原稿を丸読みするしかないか、と諦めることにします。
今回の議会演説の内容は厳しい問いかけであり、アメリカ経済を立て直すのは大変なことだと分かります。ただ、それなりに国民に訴えるべきことは訴えることが必要です。日本の政治家は、そこが足りないようです。
もっとも、再三書くようになりますが、米国ではプロのスピーチライターという職業があり、実際にインターネットのサイトでも公に政治家、経営者付きのライター専門職が募集されています。オバマ大統領の専属スピーチライターとしてすでに有名になっているJ・ファブロウ氏のように、大統領候補クラスの国会議員付きライターとなることは超狭き門です。日本でもこうした専門職業として、政治家のみならず上場企業経営者の専属スポークスマンとなるべきスピーチライターを付けることは雇用を広げる意味でもいいのではないでしょうか。
・・・と、思いつつ、そうすると、今ののらりくらりの曖昧調、晦渋調、だんまり調、いばり調、空とぼけ調、泥酔調、記憶喪失調に代わって、不祥事をいかにうまく言いくるめるかという変な美文調、弁明調、漢語調、外国語調、法律調、論文調、引用調、数学調などが居並んだ“名文(迷文)”が横行し、聴き手(読み手)をよけいにくらましてしまうのでしょうか・・・。
さて、ともかく、先の議会演説をまたじっくり読んでみました。政策的な意味は専門家にお任せします。例のごとく、国民(聴き手、読み手)を意識した、人の心をつかむ文章をちょっと長いですが、最後段から引用してみます。
演説文に、果たして文学調が必要かどうかは、読者自身が判断してください。
(『オバマ大統領の言葉を書いた男 ― 世界を動かす「文章学」』)
(『オバマ氏勝利演説 ― 人の心を動かす「文章学」』)
(米国大統領の議会演説より)
― そして私はかつて訪れたサウスカロライナ州ディロンの学校に通う少女、ティシェーマ・ベシアさんを思う。同校は天井から水が漏れ、壁のペンキははがれ落ち、電車が猛スピードで教室の横を通るため1日6回も授業を中断しなければならない。
― 人々は彼女に学校は救いようがないと言うが、ある日の放課後、彼女は公共図書館に行き、この議事堂に座る人々にタイプで手紙を打った。手紙を送る切手代は校長先生に頼みに行った。手紙は我々に支援を求め、こう書いてある。「私たちは弁護士や医者、あなた方のような議員、そしていつの日か大統領になろうとしている学生です。私たちはサウスカロライナ州だけでなく、世界を変革することができるのです。我々は簡単にあきらめる人間ではありません」
― 我々は簡単にあきらめる人間ではない。
― これらの言葉や話は、私たちをここ(ワシントン)に送り込んだ人々(有権者)の精神について何かを語っている。苦しい時でも最も困難な状況でも、柔軟さ、上品さ、忍耐、将来や繁栄に責任を持とうとする意志があるということを教えてくれる。
(日経新聞の翻訳文による)
『響きと怒り』も、けっこうかったるい。もしこれから読もうという人がいたら、少し意気込んで読んでほしいと思います。結局、読み終わってから、もう一度読んでみようと思う作家なのです。じつはそれも、1回くらい読んでもよくわからないからです。
『アブサロム、アブサロム!』もそうでしたが、あらすじを楽しむ小説ではありません。あらすじをここで書いても、ほとんど意味がありません。人間をどのように捉えて描いているかという作品なのです。前にも書きましたが、20世紀文学の大きな流れとして「時間と意識」の捉え方があります。ジョイス、プルーストという巨大な流れを汲むフォークナーもまた「時間と意識」の捉え方に凝っています。(フォークナーの読み方 『アブサロム、アブサロム!』)
人間の意識の層を時間によってずらしたり、何層にも重ねたり、それはあたかも段違いになった平行棒ならぬ、段違いの層に折り重なった意識の石畳といえるでしょう。そのいくつもの意識の層を、読者に断りもなく、改行もせず行ったり来たり、あちこち渡り歩いたりするものですから、読むほうはたまったものじゃありません。「今のせりふは誰が言ったのだ?」と思うのはしょっちゅうです。ちょっと、フォークナーさん、それって反則じゃない?
ただ、分かりにくいなりに、話が進むので読んでいきます。人物の意識がたびたびフラッシュバックするのが分かります。現在から突如過去へ、過去から違う過去へ、この場所からあの場所へ、そしていつの間に現在へ、と同じセンテンスの中で、ぱっ、ぱっ、ぱっ、と光が点滅、反射するように時間と意識と空間が人物のせりふや描写と共に移り変わるのは今で言う映画的手法です。さすがフォークナーと言うべきところです(ちなみにノーベル賞作家です)。
確かに人間の意識は、フォークナーが捉えたような構造になっているかもしれません。これは、やはり20世紀哲学の存在論的な命題(サルトル)、現象学的方法としての課題(フッサール)、そして精神分析学的な解明(フロイト)でもありました。夢が映像化されるように(『睡眠中の夢が映像で見られる』)、人間の意識が映像化されると、この作品はもっとわかりやすくなるでしょう。
それにしても、『響きと怒り』という作品は、それぞれの意識の石畳に色分けがしてあったら(作者自身が望んでいました)、ずっと楽しめたと思うのに・・・、それが残念です。
その後も、村上氏の作品はいくつも話題になり、そのたびに書店で立ち読みするのですが、どの作品も最初の1ページを読みきることができません。おそらく、作品の評価は別として、私には文体そのものが体質的に受け入れられない作家なのだと思っています。この作家とは、たぶん一生縁がないのかも知れないと諦めています。職業として作品論を書く義務があるわけではないので、それはそれでいいと思っています。
ですから、私は村上氏の作品に対して、どうこう言う資格はまったくありませんし、ここで作品について何か書こうというつもりはありません。
その村上春樹氏がイスラエル最高のエルサレム賞を受賞しました。村上氏はこれまでも日本の文学賞や海外のカフカ賞を受賞しており、今の日本でノーベル文学賞に一番近い作家であると言われています。村上氏は、周囲の反対を押し切って、あえて授賞式に出たとスピーチで言っています。イスラエル軍のガザ侵攻に賛同する立場であると誤解される恐れがあるにもかかわらず。
受賞スピーチは、テレビでも放映され、スピーチの英語はわかりやすいものでした。私は、インターネットで翻訳全文を読んでみました。村上氏の生の日本語ではないのですが、ひじょうにわかりやすく、翻訳とはいえ、村上氏の文章をこれだけ長く読んだのは『風の歌を聴け』以来でした。
壁と卵の比喩
スピーチの中で、壁と卵を比喩として、「たとえ壁が正しく、卵が間違っていたとしても、私は卵の側につく」という意味のことを言っていました。私はこれを聞いた時、一瞬ちょっと違和感を覚えました。「たとえ壁が正しくても」、自分は「反対側の間違った卵の立場に立つ」という意味についてです。これはどういうことでしょうか。村上氏の作品は簡単な文章の中に暗喩がよく散りばめられていると言われます。
なぜ、わざわざ間違っていると分かっている側につくのか。これがずっと気になっていました。「壁」は明らかに体制側です。「卵」は民衆側です。確かに、体制と民衆であれば、作家は常に民衆の側につくでしょう。ただ、その卵の立場が間違っていたとしても?
ここには、ずいぶん深い意味が込められているようです。体制は、つねに強い立場にあります。権力です。体制と権力は、たとえ正しい時があったとしても、正しい論理の元に民衆をつぶすことが可能です。まして、間違っていたとしても、権力によって正しい論理であるとして見せ付けるでしょう。卵は弱い。弱いからこそ誤っていることもあろう。その誤りは、弱さそのものであり、人間そのものだからです。体制である「壁」が、もろい人間である「卵」を踏み潰すことはいともたやすい。
弱いから、過ちを犯すから、作家は民衆の側に立つ―。
村上氏の発言の主旨は、そこにあるのだと思います。作家が公の前で、政治的発言をするのを久しく見ていません。作家は必ずしも政治的、社会的発言をすべきだとは思いませんが、これが作品の影響力ある作家の発言だなと思いました。
最近は石原都知事や田中元長野県知事のように作家が政治家になっているケースもあります。しかし、あれは政治家として発言しているのであって、作家として発言しているのではありません。なぜなら、作家が政治家になったら、それはどんなに正しくても「壁」の側に立つことになるからです。
ある外国銀行日本支店の外貨定期預金のキャンペーン広告です。
「○○外貨ドル年利 1ヵ月 12%」
とあります。
紙面では、「1ヵ月」という小さい文字の横に、大きな文字で「12%」と出ています。これを見た人は、どう思うでしょうか。普通、
「1ヵ月で12%の利息がつく」
と思うでしょう。これは
「年利で12%、1ヵ月当たり1%」
のことです。
それでも、年利12%になるならすごいじゃないか、と思うでしょうか。広告の中で
「キャンペーン期間○月○日~○月○日」(1ヵ月間と書いてないが、実質1ヵ月間)
とあります。それで解釈すると、
「1ヵ月の間だけ1%の金利がつく」
という意味のようです。
満期期間が書いてないので、2ヵ月目からは通常金利に戻る、そう読めます。それでも1ヵ月だけ利息が1%つくなら、100万円が1ヵ月で1万円(税金でさらに20%引かれる)でOKとすべしか・・・。
外貨預金については、こういう広告表示は、すでに数年前に流行ったものです。今さら、こういうコメントを書くこと自体すたれていたものですが、「まだこういう表示をしているのか」と驚いてしまいました。金融商品取引法上、さすがに下のほうに小さい文字で利息の計算具体例を示しています。だったら、最初から誤解させないように正しい金利表示をしたほうがよほど親切なのにと思います。
また、円定期預金の広告にも誤りが見られます。別の銀行ですが、
「5年半年複利型 年1.5%(税引後年平均利回り 1.242%)」
とあり、300万円預け入れた場合の計算例が載っています。丁寧に利息の計算例を載せてくれてありがたいのですが、正しく表示されていません。この金利は、半年複利型なので、半年ごとに複利計算されなければならないのです。
計算が細かくなるので省きますが、半年複利とは、半年ごとに元金に利息が重なっていく「半年ごと雪だるま式利息」です。実際に載っている計算例は「1年ごと雪だるま式利息」です。掲載には、「年平均利回りに年数を乗じた単純計算です」と断り書きがしてありますので、銀行側もわかっているはずです。どっちが得かといえば、半年複利型です。実際には、掲載された計算例より多くもらえるので、騙されたというより、得した気分になるかもしれません。でも、正しい計算事例が載っていないと、大丈夫なのかなあ、と思ったりしてきます。
まあまあ、あんまり細かいこと言わないで、預ける金額が多ければ利息も多いのだから、計算上の少しくらいの誤差は気にしないさ・・・、と言うなら、それまでです。
それにしても、キャンペーン期間中に○○万円以上預け入れると、「□□円商品券プレゼント」とか、「△△の動物ぬいぐるみプレゼント」とか・・・、もう、そういうのは、やめようよ、それよりも分かりやすい広告で、少しでも有利な金利を付けて、と言いたくなります。
※このブログは、金融機関とは直接関係を持っていません。あくまで自由に私見を書いています。金融商品の判断はご自身でなさってください。