FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

40年目のアリ・猪木戦 ~ 刃物のごとき拳に立ち向かう真剣蹴り

2016-07-08 01:17:22 | 芸能・映画・文化・スポーツ

モハメド・アリ氏が亡くなって1ヵ月ほどになる。僕は今でも、アリ氏死亡の特集番組「アリ・猪木戦」を思い出す。

僕自身は、「アリ・猪木戦」をリアルタイムで見た世代だ。当時、どんな決着になるか興奮して見ていたものだが、試合結果は「世紀の茶番」とか「世紀の凡戦」とか酷評されたように、僕ら自身も正直、落胆させられた。いくらプロレス技封じのがんじがらめのルールにしても、アントニオ猪木なら派手な決着を見せてくれるだろうと、みんなが期待していたのである。

「猪木はチキン(臆病者)だ」というのも、そうなのかとさえ思った。なにしろ、15ラウンド、ほとんど寝てばかりいたのだから。試合後、アリは猪木の何十発ものキックを脚に受けた影響で入院、ヘビー級世界タイトルマッチも延期せざるをえなかった。猪木もつま先の骨にヒビが入っていたということで、その真剣勝負らしさは知ったけど、あれから40年間、もどかしさが残っていた。

そして、1ヵ月前の録画試合である。録画を見だしているうち、僕は背筋が凍る思いがした。確かにルールの縛りがあったのは再確認できた。しかし、アリのグローブを見て仰天した。グローブが、拳より少し大きいだけだったのである。これは、リアルタイムの試合では気づかなかったことだ。

プロボクシングのグローブというのは、どの階級の選手も風船のように大きく膨らんだものをはめている。オンス(重量)が大きいほど、風船のように大きく、したがってそれだけグローブの中がクッションとなって、当たってもダメージが小さくなる。しかしアリはこの時、通常、ヘビー級の選手がはめる10オンスのグローブではなく、4オンスのものをはめていたのだ。

これもアリ側のゴリ押しのルールだったのだろう。あんなに小さなグローブでは、ほとんど生の拳並みの威力があるだろうし、さらに両拳をぎゅうぎゅうにバンテージで固めていたという。まさに鉄の塊の拳というより、真剣の刃だ。ヘビー級のボクサーがこんな拳で振り回したら、かすっただけでも一太刀で斬殺されるほどのダメージだろう。

実際、猪木自身の解説によると、額をかすっただけで、試合後大きなコブになっていたという。僕は、これを知って、この試合がとんでもない真剣勝負だと悟った。猪木はあの寝技戦法しかなかったろう。アリにしても、猪木の技を警戒したからこそ、深入りしなかった。まさに一触即発、アリのパンチか猪木の技か、勝負は瞬間に決まるはずだった。

そういう状況で見ると、ハラハラ、ドキドキの迫力は並大抵ではなかった。誰が「茶番」だ、「凡戦」だと言ったのか。まったく勝負のすごさをわからない大人たちだった。僕はまだ少年だったから、ドンパチ、バタンキューの派手なプロレスこそ真剣勝負だと疑わなかったのだが、40年後の時間を経て、真剣の勝負に酔っているところだ。本当の勝負というのは、決して派手なものではない。

総合格闘技が日本でも興り始めたころ、あまりの地味さに最初は見る気もしなかったが、真剣勝負であることがわかってくると、その迫力にハマってしまった。「アリ・猪木戦」も格闘技を見る目が肥えていないと、地味でつまらない「茶番」「凡戦」でしかない。しかし、40年前のあの勝負は、一流の格闘家であれば誰でも、試合のすごさを思い知ったのではないだろうか。

今では、この試合の「名誉回復」がすでになされていることだけが救いだが、今初めて録画を見た人が、表面的な動きだけを見て、やはり「茶番」「凡戦」だなどと思わないでほしいと思うばかりである。


誰の心の中にも、マーニーはいる ~深層心理にみる『思い出のマーニー』の世界~

2016-01-31 19:44:30 | 芸能・映画・文化・スポーツ

『思い出のマーニー』が今年度のアカデミー賞「長編アニメ賞」にノミネートされました。本稿はアニメ作品を昨年見て、いつか書こうと思っていたことをこの機会に書いたものです。文中には、結末を示唆するいわゆる「ネタバレ」があります。映画未鑑賞の場合はご了承ください。 

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●不思議な意識の物語 

『思い出のマーニー』は、不思議な物語である。 

この映画を見た時、これは心の物語だと思った。深層心理が現実へと現れたイメージの世界だと。こういうものを見ると人は、これは架空のものだから起こりえないと言うだろう(原作は児童小説)。あるいは、通常の意識では説明できないから、精神の一種の病からくる幻想だろうと思う。 

例えば、ドッペルゲンガ―というものがある。自分(私)とまったく同じなりをした人間が眼の前に現れ、自分と同じように歩き、友人と語り、飲み食いしたりする。相手はこちらに気が付かず、いかにも自分と同じことをしているのだ。 

―― あいつは、俺か?

その者は、ツケで飲んだり食ったり、賭け事をし、借金を重ねていく。そいつの後をつけて行くのだが、いつも姿を見失ってしまう。いつか正体をつかんでやろうと思えど、その自分の分身と目が合った瞬間から数日後に、本人(私)は死んでしまうという。これは、ドストエフスキーの作品『分身』にも出てくる。今では一種の精神現象としても扱われるが、「マーニー」の物語は最初、それを思わせる。 

マーニーと杏奈(アンナ)は同じ年頃の少女だが、外見は違う。顔も違うが、互いを大好きな友として必要とし、互いを生き写しの自分のように見ている。それは少女期に同性を愛し、自己と同一化(分身)する気持ちに通じる。でもマーニーは、現実の存在ではない。少なくとも、杏奈とともに過ごした金髪の美少女マーニーはその時、現実には存在していなかった。しかし、現実の物や建物、風景はそこにあった。 

現代の脳科学では、長い時間のうちに、人は自分の思い望むように意識や記憶をつくり変えていく機能があるそうだ。(「記憶にございません」と答弁する政治家は、それほど時間がたたないうちにその機能が都合よく働いているのかもしれない。) 

この作品で、杏奈が少女期に一緒に過ごしたマーニーは、幼少期(人の顔も覚えられないほどの幼児の頃)に自分を育ててくれた祖母であり、祖母のこころの語りが、杏奈の深層意識にマーニーという少女を育ませた、というのが順当の解釈であろう。簡単に言えば、杏奈は、自分の祖母(マーニー)が少女だった頃のイメージとひと夏の幻想世界を生きたのだ。 

ただ、こういう解釈だからといって、杏奈とマーニーの不思議な世界が解明されたわけではない。なぜ、杏奈はマーニーと現実世界のように生きることができたか。単なる幻想や想像の世界に、杏奈の意識が遊んでいたのか。 

●少年少女期に誰にも存在する「私」という友だち

ここで、深層心理や脳科学による解釈をこれ以上するつもりはない。先ほどの「分身」のような病理的な現象に近いことは、少年少女期にはたまにあることなのだ。しかも、それが成長して記憶となっていく過程において、脳は事実と幻想を溶解して、その人の成長に必要なものとして醸成していく。 

思い起こせば、僕の心の中にもある。そして、きっとあなたの心の中にもあるだろう。少年の頃、僕のそばにはいつも「白い少女」がいた。その少女は、どこから来たのか、どうやって去って行ったか分からない。けれど、気が付くと時々僕のそばにいた。きっと、風のように現れてきて、そして去って行ったのだ。それは、校庭だったり、路地だったり、公園だったりする。

―― なあーんだ、あんたここにいたの?

少女は道端で、僕を追いかけてきたのか、白い服とスカート、そして子供用の白いヒールを履いて、行き止まりの道でさっそうと細くて長い脚を開いてそう言った。 

さーっ、とひと吹きの風が巻いて、少女の肩の髪を揺らした。ふん、と笑みを浮かべて、彼女は消えて行った。時々、そんなふうに僕の前に現れては、消えた。 

これは、一部は現実だったし、一部はもしかしたら僕の記憶の中の出来事だったかもしれない。しかし、その鮮明さは今でも残っている。歩いていると、坐っていると、ふと気が付くと、そこに彼女がいつの間にそばにいた。そうして僕の少年時代は、その白い少女と過ごしたのだった。 

マーニーもまた、かつては存在していた。しかし、今は存在しない。しないのに、杏奈はマーニーと生き、そこにいた。 

ユング心理学を持ち出すまでもなく、これを深層意識としての映像として語るのは易しい。無意識は、現実と常に深くつながっているわけだ。かつては存在したが、今は存在しない少女(祖母)とどうして心の交流ができたのか。意識というものを、単に事実のみを認識するものと捉えるとわからなくなる。脳が、事実の順序(歴史)を超えて認識するものだと思うしかない。 

杏奈がひと夏を過ごして知ったマーニーとは、杏奈の意識が心の中に実在性をもってつくったものだということである。マーニーと生きた時間は、杏奈がマーニーという少女を求めていたからあるもので、その時の心の空洞を成長していく杏奈の意識が埋めていったのである。 

森、湖、湿地帯、屋敷、霧、雲、風、そして美しい少女――。幻想世界の背景はそろった。こうして、大人は、少年少女期の深層心理の中に、再び入っていく。

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 かぐや姫の物語 ~ 『竹取物語』に見る仏教思想

 


可愛い「カアチャン様」、僕は戦争に行ってきます

2015-08-02 10:57:23 | 芸能・映画・文化・スポーツ

前の東京オリンピックが開催される年(1964年)、「拝啓 カアチャン様」というドラマがありました。東京オリンピックに記憶がある人は、たいてい覚えていると思います。 

戦争が始まり、軍隊に入営した野暮ったい菊松2等兵は、上官の家で働く女の人を嫁にもらいます。これがとても気立てが良く、きれいで可愛い。「カアチャン様」とは、こんな野暮な夫でも優しくしてくれる嫁さんのことです。世渡りが下手でぶきっちょの菊松はいつもこの嫁さんに助けられています。菊松は、貧しくても一生この嫁さんを大切にしたいと思います。しかし、菊松2等兵もとうとう「カアチャン様」を置いて戦地に送り込まれ、戦闘生活が始まります。「カアチャン様」への想いを抱いて・・・。

 ドラマはわざと戦争をコメディっぽく描いていましたが、小学生の僕にはそれが笑えず、菊松のドジさ、「カアチャン様」の優しさにいつも哀切を感じ、父も涙していました。 

やがて戦争は終わり、日本へ帰った菊松は、荒れた東京の土の上で、あの可愛い「カアチャン様」を探します・・・。 

 

 野暮なあなたが 好きですと

 よくぞ申して 下された

 みんなカアチャン なればこそ

 敵は幾万 ありとても

 ああ 拝啓カアチャン 俺は行く

(主題歌「拝啓カアチャン様」歌・田端義夫) 

 

この歌をネットで何十年ぶりかに聞きました。あの頃は、まだ戦争がそこにありました。

そしてまた、東京オリンピックが決まり、戦争が話題になっています。

 


アニメ名監督の仕事ぶりと引き際 ~ 宮崎駿氏とジブリ建造物展&ジブリ美術館 

2015-01-05 00:43:29 | 芸能・映画・文化・スポーツ

昨年(2014年)11月10日、宮崎駿氏はアメリカのアカデミー賞授与式の壇上にいた。宮崎氏はすでに前年、『風立ちぬ』の公開をもって引退を表明している。その後の「監督業」を受賞後の記者会見で語っている。

 ■創造と実業のはざまで

―― 真に創造に費やせる時間は10年。

『風立ちぬ』で宮崎駿監督は、登場人物にこう語らせている。この言葉は、おそらく宮崎監督が自分自身に語った言葉であろう。宮崎氏はこのアニメ映画公開時に72歳。創造者としてはとうに頂点を過ぎている年齢だった。それでも監督の心には創造の炎の微かな残り火が灯っていたのだろう。その灯を消したくない思いがあったからこそ出たセリフだ。

宮崎駿は創造者(芸術家)であり、監督であり、実業家でもある。実業という面では、株式会社スタジオ・ジブリの創設者の一人として従業員・スタッフ300人の雇用と賃金を維持しなければならず、そのための売上(興行収入)を上げることが責務である。実質的な経営実務に関わる時間は多くはなかったろうが、常に監督として興行成績が枷になっていたことは否めない。

映画監督として納期と売上の数字を気にしながら、質の高い作品の提供が義務付けられていた。完成度の高い芸術性と娯楽性を実現することで、興行収益もおのずとついてきた。しかし、それにはいつも時間が足りなかった。芸術家としての側面と実業家としての側面において、宮崎氏は常に宿命的に追いつめられ、決して完璧な作品を出し切れずに、それが自身にとって大きな不満だったと思う。

「観客には気づかれなくても、自分ではあそこがダメだったというところがいくつもある」

と宮崎氏は記者会見で振り返っている。芸術性と興行のはざまにいて、「本当に創造できる時間」が、宮崎氏の内部から追いやられ、消えかかっていく。その創造の炎を絶やしたくないがために、宮崎氏は何度もこれまで「引退する」と「宣言」してきた。

しかし、興行の面でも責任を負う立場にあって、そう簡単に引退が許される状況はなく、宣言のたびに引き留められ、自らも踵を返したのも何ら不思議はない。それに、氏自身も芸術家の内に残された炎を灯し続けるには、ジブリという場所が必要だったのは言うまでもない。作品の質と上映スケジュールとのぎりぎりの際(きわ)に自分を置かざるを得ない苦悩がどれほどのものだったか想像に難くない。

 ■イマージネーションの重なりが作品の全体を創る

ここに、1枚のデッサン画がある。『となりのトトロ』のさつきとメイが父親とともに引っ越して来た村の民家である。部屋の畳が描いてある。畳に昼の陽が射している。光の当たる所と当らない所があり、光の当たる部分は畳が色褪せている。擦り切れた所、陽で焼けた所が細密に描かれている。この場面を映画で覚えている人がどれだけいるだろう。

映画ではわずか1秒も映らないかもしれない場面である。そこをここまで細部にわたって描く意味があるかと思われるだろう。しかし、描かなければならない。

「たとえ一瞬しか映らなくても、そこはやっぱり、そこまで描かなければならない。それは、そういうものなのだ」

現在開催中の「ジブリ立体建造物展」(東京江戸たてもの園)に展示されているこのデッサン画についての宮崎氏の言葉である。これを単に、気まじめすぎとか、こだわりすぎ、無駄なこと、と言うのはたやすい。なぜ、そこまでやるのか。

それは、簡単である。ビジネスに譬えればわかりやすい。作品は決算書である(味気ない比喩だが)。決算書は作成されるまで何百、何千という取引の会計処理(仕訳)がある。1つ1つの仕訳の勘定科目と数字を誤ると正確な決算書はできない(意図的な粉飾を除いては)。1円単位の数字と正しい科目名が積み重なって決算書という作品が出来上がる。決算書に現れない膨大な数の個々の科目と数字は、監査などを除けばほとんど表に出ない。

このことは、あらゆる仕事に言える。たとえ1秒しか映らないデッサン、膨大な数のボツになったデッサンは、作品が完成するための積み重ねの1つである。監督(創造者)は、作品全体を見ると同時に細部を見る。細部のすべてがイメージされていないと作品全体をイメージすることができない。1つだけ完成されていない空白のイメージがあると、そこの部分から瓦解して、イマージネーションの脆い砂は外に流れ出していく。1つの石でも欠けたら城はできない。

監督にとって、作品に現れるか現れないか、画面に映るか映らないかは重要ではない。作品を構成する一部となりうるかどうかが問題である。だから、そこがリアルティを持っていないと、全体のイメージが仕上がらないのだ。その1つ1つは、イメージを構成するための部分であるからだ。しかし、この細密な作業を自身の手が負うことによって、監督の引き際を決意させることになったのではないだろうか。それは宮崎氏の時間と労力を容赦なく奪っていったのではないか・・・・。

 ■「引退」後の監督業

宮崎氏は今、三鷹の森ジブリ美術館主として、当館を企画運営している。自らも短編のアニメを制作し、作品は1年に1回以上美術館で上映される(現在9本完成)。自分の気に入ったものを創り、自分の気に入った時に上映する。

「お金は関係ない。売れなくてもいいですから」

と、宮崎氏は言っている。

これって、現役なのか? 現役じゃないと宮崎氏は否定する。なぜなら、現役はもう少し仕事をするからだという。しかし、今回一緒に名誉賞を受賞した面々は、モーリン・オハラ(94歳)、ハリー・ベラフォンテ(88歳)、シドニー・ポワチェ(87歳)、そして宮崎駿(73歳)。受賞者の中で宮崎氏が一番若い。それに刺激を受けたのか「もう、リタイアだとか声を出さないで、やれることはやって行こうと思う」と言っている。

確かに、若い時にできた量の仕事が、今はさすがにできない。若い時の何分の1くらいの仕事量だろう。それは仕方ない。

「これからは、自分に何ができるのか、何ならやるに値するか、これは面白そうだ、っていうことが一致しないといけない」(記者会見で)

自分のペースで、子どもや大人たちのために、自分の好きなことをやる。あまり売上や締切に追いやられずに、それでもこの上なく人に必要とされる。若い時に身に付けた才能と技術で、それを涸らすことなく、世の中に還元する。

「年寄りは、もう何をやってもいいんだ」(同前)

宮崎氏本人は、リタイアメント・プランなどというものを意識してここまでやってきたわけではないだろう。とにかく、がむしゃらにやってきて数々の実績を残してきた。それがいくつもの評価と名誉につながった。

現役の映画監督は引退したとしても、「創造の灯」が灯っている限り、宮崎氏は引退後も悠々たる自由の意思で監督業を続けていくのだろう。

 

 【関連コラム】

■宮崎駿とジブリ建物の本物感 ~ リアリティは細部と全体の精密さが創り出す
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■『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間
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■『アナと雪の女王』 雪と氷の世界へ ~ 愛の訣別と氷解
http://blog.goo.ne.jp/toshiharu-goo/e/21c12bf5fb901897c15c6e7d92acfac9

■かぐや姫の物語 ~ 『竹取物語』に見る仏教思想
http://blog.goo.ne.jp/toshiharu-goo/e/c32e393515a3a2cee5d91ed6509a4153?fm=entry_awc

 

 

 


宮崎駿とジブリ建物の本物感 ~ リアリティは細部と全体の精密さが創り出す

2014-11-16 01:56:10 | 芸能・映画・文化・スポーツ

  油屋「千と千尋の神隠し」

 サツキとメイの家「となりのトトロ」

「ジブリの立体建造物展」(江戸東京たてもの園)より

 

■ 見えないものへのこだわり

 8月の夜、小金井市にある江戸東京たてもの園の中、「ジブリの立体建造物展」。「となりのトトロ」のサツキやメイたちが住んでいた家の精密な模型があった。これは四方からも上方からも角度を変えて部屋の中、奥まで透き通して見える、実によくできたものである。 

 それから「千と千尋の神隠し」の油屋の模型。これも細部まで精巧にできている。このたてもの園の中には、この油屋のモデルとなった昔ながらの銭湯の実物大の建物が残っていて、スタジオ・ジブリと東京たてもの園は以前からゆかりがあるのだ。

 さらに、これは建物の模型ではないが、「天空の城ラピュタ」のパネルがある。これは舞台となった飛行する「ラピュタ」の島全体を描いたものである。各場面が、この天空を飛行する島のどこで起きていたのか、その場所を拡大して描いている。 

 これらに言えることは、全体構造が細部まで完璧に出来上がっているということだ。全体が出来上がっているから細部が描ける。細部と全体がつながっているからこそ、そこに物語がリアリティをもって描ける。

 「映画では、わずか1秒も映らない場面でも隅々まで細密に描く、―― 例えば、民家の畳など、そこに陽が当たっていればきちんとそれを描く。それが必要だから、やっぱりそこまで描かなくちゃならないんだ」 宮崎駿は、そう言っている。

 そういえば、黒澤明監督も似たようなことをやっていたのを読んだことがある。時代劇で民家のタンスが映る場面がある。タンスの外見だけ、それも一瞬しか映画では映らない。なのに、実際にタンスの引き出しの中に住人が着る服を作らせて、すべての引出しに詰め込んだという。そうしないと、現実的な質感がなくて、黒澤監督は納得いかなったという。

 ■ 細部が全体をつくる

 完璧な全体があって、精巧な細部があって、そして場面があって、人物が動く。最初から人物や景色の細部だけがあるわけではない。そこには、緻密に積み上げられた大きな建造物がある。どこから見ても現実感をもっていて、破綻することのない全体の建造物であり、作品世界がある。

  映画の中のあの場面はここ、その場面はそっち、と現実的に指差すことができるリアリティをもっている。そして、作品の人物ひとりひとりには、詳細な履歴書ができている。主人公と家族、親せきはもちろん、近所のおじさん、おばさん、年寄り、友だちなど、どんな歴史をもった人物が、どのような関係にあり、どんな土地に何年住んでいるか、それらはみんな決まっている。わずか、数秒しか登場しない人物でもそうなのだ。

  見えない所、映らない所は描かない、のではなく、見えない所こそきちんと描かなければならない。虚構の作品とは、そういうものなのだ。手を抜いたところにリアリティは生まれない。小説でも、芸術でも、どんな仕事でも、やはりそれは同じなのだろう。 

 

<関連コラム>

『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間


『ゴッドファーザー』の頃 ~ 浪人と青春のはざまで

2014-06-22 12:01:57 | 芸能・映画・文化・スポーツ

■ 浪人時代と『ゴッドファーザー』

 時間はゆったりと流れる。この映画のストーリーがよく頭に入っていないと、その時間が退屈になる。しかし、その時間は詳細で濃密である。

 名作というのは、退屈な時間をどれだけゆっくり味わって楽しめるかだ。小説で言えば、あの長い長いプルーストの『失われた時を求めて』は退屈と言えばかなり退屈であろう。しかし、それだけじっくり楽しめる作品である。「くだらない作品をたくさん読むくらいなら、プルーストを読んで退屈している方がよほどましだ」(サムセット・モーム) 

 『ゴッドファーザー』の映画を観たのは高校を卒業して、地元(三島)で浪人をしていた頃だ。アルバイトしながら、大学受験しようかと迷っていた。高校卒業時に受験も就職もしなかった。「迷っていた」ということ自体、変に思われるかもしれない。友人たちはとっくに大学に入学したり、受験浪人したりしていたから。若い時代の無知というか、大学なんて行っても意味がないと思っていた。いや、そういうふうに思い込もうとしていた。高校3年の時は、それでも漠然と地元の国立大学を目指していたのだ。結局、家には僕が大学へ行くほどのお金もなかったし、国立大学ならそんなにかからないと思ったので、国立大を受けると言ったとたんに先生から「無謀だ」と鼻から笑われた。そんなものかと思い、それじゃあ私立大を受けようにもお金がないので、受験もせずにプラプラしていたのである。

 その頃、バイト代でマリオ・ブーツォの『ゴッドファーザー』を買った。なぜかというと、新聞やテレビでかなり宣伝していて話題になっていたから。あのマーロン・ブランド演じる「ゴッドファーザー」の肖像と、操り人形師の手を思わせる ‘The God Father ’ のタイトル文字の表紙に魅せられたのだ。実際に、映画は当時最高の興行収入を上げていたし、アカデミー賞では作品賞・主演男優賞・脚色賞を受賞した。本を買ったのは、この映画がまだ日本に来ていなくて、先に小説が売り出されていたからだ。

 あの分厚い本を最後まで読んだ記憶はあるが、僕にはよくわからないところもあった。何が印象に残っているかといえば、競走馬の首が切り落とされて馬主のベッドの中に血みどろになって転がっていたところだ。オーナーは、知らずに血みどろのサラブレッドの首と一晩寝ていたわけで、目覚めたときに発狂の声を上げる。小説で読んだ時は、度胆を抜かれた場面だが、その場面をのちに映画で観た時、あまりにリアルに再現されたので、またまた度肝を抜かれてしまった。あとは、マイケル(アル・パチーノ)が汚職警官に顔を殴られて鼻の骨を砕かれてしまい、普段でも鼻汁が止まらないので常にハンカチを持って鼻を押さえていたという描写が忠実に再現されているので、これも感心させられたのを覚えている。また、ソニー(ジェームズ・カーン)の暴力的な性格は、その死に方も含めて真に迫っていた。

■ 新聞奨学生と『ゴッドファーザー』

 その後、僕は無事に東京の私立大学に入ることができた。家には私立大学に入れるほどの金はなかったし、数ヵ月のバイト代では入学金・授業料などとても工面できなかった。どうしたかというと、高校時代の友人と話していた時、同級生の誰それが新聞奨学生として大学に入ったということを聞いた。奨学生というと、当時も勉学優秀な学生がもらうものと思っていたし、教育ローンなどもあったろうが、世間知らずにも自分にはそんなことなど思いもよらなかった。

 調べてみると、朝夕の新聞配達と月の集金を専売所に泊まり込みでやることで大学の入学金も授業料も免除になるという。原則、在学4年間続けることで、すべてチャラになる。朝晩の食事付きで部屋代はタダだし、おまけに給料までくれるという。これを使わない手はなかった。僕は早速、雑誌で調べていくつかの全国紙から日経新聞を選んだ。これは読者層が比較的収入の安定したまじめなサラリーマンが多く集金が楽(踏み倒しがないし、日曜・夜間はたいてい部屋にいる)だということと、1人が受け持つ配達部数が他紙に比べて少なく、折込チラシも多くないということだったからだ。考えてみれば、小学校、中学校の時も新聞配達していたし、こんなところでまた新聞配達で助けられるとは思わなかった。

 僕は何とか、受験直前3ヵ月くらいの勉強で私大文学部に合格することができた。それで、東京の杉並区(高円寺と阿佐ヶ谷が配達区域)の専売所に配属(?)されたわけである。そこの専売所2階の3畳間が僕の大学時代のねぐらとなったのだ。その時に持って行った本の中に『ゴッドファーザー』があったから、たぶん浪人中に読みかけだった残りをここで読んだのだと思う。ある日、ほかの大学に入った中学の同級生がこの部屋に遊びに来て、「貸してくれ」と言って本棚の『ゴッドファーザー』を持って行ってしまった。その本は、いまだに戻ってきていない。そういえば、僕もその友人の下宿に行って本を借りてきたまま返してないから同罪なのだが。確か、その本の題名が遠藤周作の『ただ今浪人』だった。「ゴッドファーザー」と引き換えに、僕の「浪人」時代を取り戻したわけだ。 

■ 『ゴッドファーザー』と俳優 

 このやたら長い映画は(小説も長いけど、映画はPartⅠからPartⅢまで全編10時間くらいある)、どのように感想を述べたらいいかわからない。すでに最初に上映されてから40年もたち、さまざまな批評がされた後で、僕が今さら何を言うかである。今度、全編のDVDを観なおした。というのも、当時はPartⅠしか観ていなかったのでPartⅡ、PartⅢがずっと気になっていたのだ。映画は、小説を読んでいた僕でもストーリーがわかりずらいところがあった。が、一つ一つの場面がドキュメンタリーのように現実感をもっていて迫力があり、重みがあることは事実だ。

 俳優としては、マーロン・ブランドは別格である。頬に綿を詰め込んで、しわがれた声を出し、老け役を演じて話題になった(アカデミー賞主演男優賞)。ロバート・デュバル(トム)もいい味を出していた(PartⅠ,Ⅱ)。しかし、アル・パチーノは最初から演技っぽいところを感じたし、存在感がどうなのかなと思った。PartⅡ,PartⅢと進むにしたがって、マイケルの存在の重要性は増し(遺志を継いでゴッドファーザーとなる)、それに伴いアル・パチーノの演技もそれらしくなり重くなっていったが、僕にはどうも最後まで役者としての存在感が今一つ感じられなかった。

 それより、ロバート・デ・ニーロ(若き日のドン・コルレオーネ)がいい。彼の演技は素晴らしかった。セリフは多くはなかったが、無言の演技がこの俳優は抜群である。特に元締めのボスを射殺するシーンは、秀逸極まった。実際にデ・ニーロは、この作品でアカデミー賞(助演男優賞)を受賞している。若き日につかんだこの1作のチャンスが彼の俳優人生を決定づけた。大物というのは、俳優に限らず、こういう人物を言うのだろう。人生は、そうそうチャンスはめぐってこない。いかに運を呼び込み、ものにするかだ。PartⅠからPartⅢまで主役級で出続けたアル・パチーノは、『ゴッドファーザー』のシリーズではとうとうアカデミー賞を受賞することはなかった(のちにほかの作品で主演男優賞を受賞)。

 作品はゆったりと進む中、濃密な時間が流れていく。おそらく今の映画ではもう、こうした創り方はできないだろう。「ゴッドファーザー 愛のテーマ」の曲が流れる中、ファミリーの王国は、繰り返さる抗争とともに瓦解する運命に向かう・・・・。

 


『塔の上のラプンツェル』 ~ 美少女の長い髪とユング的エロス

2014-05-25 01:01:16 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 『アナと雪の女王』が大ヒットしている(『アナと雪の女王』 雪と氷の世界へ ~ 愛の訣別と氷解)。このアニメ映画の少し前にディズニー長編アニメ50作目の『塔の上のラプンツェル』(原題: Tangled)が公開されている(2011年)。

 この作品の魅力は、何と言っても美少女ラプンツェルの長い髪だ。顔の表情も可愛いし、一瞬ごとに実物の人間の表情と同じように変化する目や口の動きが素晴らしい。この技術は、『アナと雪の女王』に引き継がれ、進化している。長い髪の少女の原型はグリム童話にあるが、髪の魅力を映像の中心に持ってきているのは、ディズニー(ピクサー)のロマンティシズムとリアリズムの結晶だと思う。

 20メートル以上もあると思われるラプンツェルの髪は、ひと筋ひと筋の流れや質感、輝きが現実以上に映し出されている。実物であれば、それほど長いと床や地面を引きずってしまい、埃まみれ、傷ついて枝毛だらけになってしまうだろうが、小荷物のように自分の髪を丸めて運んだり、タオルのように水を絞ったり、綱や毛布の代わりにしたりして、そんな恰好のコミカルさがこの映画の最大の魅力となっている。それに、ブロンドに輝く美しい髪そのものが、ストーリー以外のところで十分楽しませてくれる。

 女性の髪は、日本でも昔から「カミ=神」と言われるくらい神聖なものであったし、めったに切るものではなかった。といっても、毛髪はどんなに伸ばしっぱなしにしても、人の背丈より長くなると自然に抜け落ちるので、ラプンツェルのように異常なほど伸びることはない。20メートルもの髪の長さにしたのは、恋と冒険ファンタジーにしたてる重要なファクターとして必要だったからで、それだけに実物以上に描こうというアーティストの魂もあったのだろう。

 男が女の髪の美しさに魅力(一種のエロス)を感じるのは人間共通の潜在意識で、ユングの「元型」(アーキタイプ)とも言えるものだろう。美少女、長い髪、恋、魔法、魔女(悪魔)、王子と姫、こびとや妖精、城、森など、世界のどの人間もが持つ「集合的無意識」で、愛と夢のファンタジーに欠かせない重要なタームである。特に男にとって女の美しく長い髪は、ユングの「集合的無意識」として見ると、単なる美意識ではなく、セクシャルな意識を伴う。セクシャルなもの(エロス)は時にして、「魔力」を持つ。長い髪はそれだけ神秘で不思議な力を感じるものである。童話の世界にはそうした集合的無意識が隠されている。

  ラプンツェルの髪には魔力が宿っている。髪を切った途端に輝きを失い、不思議な力は失せてしまう。ラプンツェルの髪の魔力によって永遠の若さで生き永らえてきた母代りの魔女、彼女に「囚われ」の身となっていたと悟ったラプンツェルが「囚われ」から自由になるためには、自分の髪を切り落とさなければならない。呪縛の運命を断ち切ることが自由と愛を得る、その代償が長い髪を切ることなのだ。それゆえ、「恋人」の盗賊に肩から先の髪を切り落とされてしまう。ブロンドの髪はたちまち褐色に変わり、髪の魔力はなくなり、若い命から生命力を吸い取っていた魔女の命は萎み、息絶える。

 結局、魔女に命を奪われた恋人を蘇生させたのは髪の力ではなく、愛に目覚めたラプンツェルの涙であった。それは同時に髪の魔力から解き放たれた瞬間でもある(魔力から解き放たれる愛、このへんは、『アナと雪の女王』に共通するテーマ)。しかし、映画の魅力はこの時点で薄れてしまう。あとは、若い2人の結婚で幸福な終末を迎えることになる。ショートヘアのラプンツェルも可愛いらしく感じる人もいるだろうが、作品としての魅力はここで終わる。美と魔法と自由と冒険と愛、これらが「髪」を象徴として「絡み合った」(tangled)作品である。

  


『アナと雪の女王』 雪と氷の世界へ ~ 愛の訣別と氷解

2014-04-04 01:35:36 | 芸能・映画・文化・スポーツ

■ ディズニー作品とジブリ作品

 『アナと雪の女王』(原題'Frozen’)は、2013年度のアカデミー賞長編アニメーション賞と主題歌賞(主題曲'Let It Go')を受賞した。ディズニー作品らしく愛と夢と希望の感動を与えてくれるストーリーだ。子どもだけでなく、いや、むしろ大人が見た方が感動する作品といっていい。

 長編アニメーション賞に同時にノミネートされていた宮崎駿監督の『風立ちぬ』は賞を逃した。というより、この2作品を比較すると「ディズニーのほうが勝ち」と言わざるを得ない。(『風立ちぬ』については「『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間」に詳しく書いたのでご覧ください。)

 まずもって、映像が素晴らしい。宮崎監督も人間の表情や風景のディテールにこだわる人ですが、それ以上にこの作品は登場人物の表情が生き生きとしている。顔のつくり自体は目が顔の半分もあって人形のようだけれど、一刻一刻変わる表情や仕草、髪の動きまでまるで生きている人形、いや途中からは人間そのものに思えてきて、たっぷり感情移入できる。

 それはちょっとした目の動き、口もと、指先、体の動作にも言える。人間の表情や動作を何百万例もコンピュータに取り入れ、その「動き」をCGでアニメ化しているのだろう。こんなことは宮崎アニメでは、予算や技術の面からいってもとうてい無理な作業である。なにより宮崎監督自身がそういう手法を望んでいない。宮崎監督はあくまで手描きで地道にアニメ制作することにこだわってきた。もっとも、この方法では限界があることを監督自身が一番よくわかっている。そのために宮崎氏自身のアニメ作家寿命を縮めてきた感がある。長編アニメ1作に10年前後もかかってしまうとなると、本人自身も気力・体力の限界と闘わなければならないし(監督引退の大きな理由)、人を何十人も雇っている以上、興行次第でスタジオ・ジブリの経営も大きなリスクを負うことになる。

 『アナと雪の女王』は、誇張ではなく、このアニメで本場のミュージカルが楽しめた気がした。日本語版の吹替えもほとんど違和感がなかった。主役2人(松たか子、神田沙也加)以外はいわゆる知られているタレントではない声優・俳優陣でよかった。宮崎作品でいつも納得がいかなかったのが吹替えだった。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』あたりまでは実力派の声優が吹替えをやっていたので安心して観ていられたが、いつからか、テレビでよく出るタレントがやたら吹替え陣に加わってきた。それは、作品そのもののレベルを落としてしまった。一般に、テレビで知られているタレントの声には艶(つや)がない。タレントは声だけで演技しないから、台詞がかすれてぼそぼそし、声がスカスカなのだ。存在感がない。最新作の『風立ちぬ』も、主人公の声(タレントではないけれど)は失敗だったと思う。

 宮崎氏は、「普通の人間は声優のようには喋らない」と言ったそうで、そのため日常の自然な感じで喋れるタレントを使ってきたということらしい(鈴木プロデューサーの話)。しかし、それを言ったら舞台や映画、ドラマなどの配役の台詞については、実際に人間が日常で喋るようには喋らないし、小説の会話文だって、絶対にあんなふうな喋り方はしない。「あんなふう」とは、「日常の自然な感じ」という意味だ。喋るように会話文を書いたら、小説作品にならない。アニメにしても虚構(フィクション)なのだから、虚構の声をいかに日常的なものよりも本物らしく創り出すかがだいじなのだと思う。そのためには、虚構の声に命を懸けている声優(または俳優)を起用した方がよほどいい。

 ■苛酷な運命の受入れと決意を歌う名場面

 この作品は、ストーリーも映像も音楽も歌唱力すべて含めて、アカデミー賞受賞は当然だったと思う(念のため、僕は宮崎アニメのファンです)。ところで、僕はたった1つ、この作品(吹替版)でどうしても気にかかるところがあった。それは、姉のエルサが自分の魔法の力を抑えきれなくなって雪の山を1人で歩いていくシーンだ。 

 前半の大きな見どころの場面である。エルサは、魔法で人を傷つけてしまうことを恐れて、幼少から今日まで自分を抑えて生きてきた。女王となる戴冠式の日、追われるように城を出ると、これからは過去の自分を捨て、自分の魔法の力を信じて「ありのままに」(let it go)、自分らしく、自分の道を生きて行こうと決意する。何にもとらわれず、人々と絶縁し、雪と氷の王国を築いてたった独りでそこに住もうとする。

 この時のエルサの心情を歌ったシーンは圧巻で、本作品の名場面となっている(その楽曲が主題歌賞となった)。エルサは、今までの自分を解き放って自由に生きる決心をする。未来に向かって夢や希望を、映画を観る人にも与えてくれる場面のようにも思える。実際、ここの断片だけを抜き取ってみれば、さまざまな苦難を乗り越え、力強く前向きに進もうとするエルサがそこにいる。

 それだけ、この場面は強い。本当は、ここで共感を抱くところなのかもしれない。なのに、しっくりこない。なぜだろう。それは、エルサには苛酷で悲劇的な未来しかないからだ。夢などかけらもない。エルサは、そんな世界に飛び込もうとしている。よほど強い決意がないと踏み込めない。愛のない世界へ入るのだから。感動的な名場面であるが、すべてを跳ね返してしまう冷たさが残る。愛からの訣別のシーン。エルサの自由とは、孤独の自由なのだ。「これでいいの、かまわない」(let it go)という拒絶の意志で自分を奮い立たせるが、自分を殺す道でもあることは彼女自身がいちばんよく知っている。

 Let  It  Go.

 この名曲を歌う松たか子の澄んだ声はみごとだが、日本語訳で聴くと未来に希望が持てそうな歌に聴こえる。でも、それではエルサの今の状況に合わない。そこに違和感を感じて、僕は英語版で何回も聴いてみた。歌のニュアンスが違うのは翻訳だからしかたない。英語版で聴くと、あの場面で主題曲のシーンを持ってきたことが納得できる。英語版では、自分を永遠に閉ざしてしまう断固とした決意が感じとれる。それが哀しいほど心を揺さぶる。だからこそ、自分を呼び戻しに来た妹のアナをも拒絶する。そうでなければ、最終場面で本当の愛に目覚めたエルサの心が氷解する意味がなくなってしまう。ついでに言うと、さすが主題歌賞を取った英語版の歌を聴いてしまうと、日本語版では物足りなくなってしまう。(主題歌の英語版、日本語版は『アナと雪の女王』公式ホームページで聴くことができます。)

 ―― とまあ、ここまで考えなくても十分に子どもでも楽しめるアニメに変わりはないけれど。もう1つ言わせてもらえれば、原題はあまりに子どもに夢がない。‘Frozen’では、それこそ「凍えるよう」で冷たすぎるのでは? その点、日本語版タイトルは、まさに和製ディズニー(?)っぽくて、これは「日本語版の勝ち」というところか。


かぐや姫の物語 ~ 『竹取物語』に見る仏教思想

2013-12-30 00:40:08 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 『竹取物語』は、誰もが知っている物語である。学校の「古文」の授業でも読んだし、少年の頃の週刊漫画誌の特集でも宇宙人説として組み込まれていた。かぐや姫は宇宙人で、地球を偵察するために遣わされたのだと。最後にかぐや姫を迎えに来る乗り物は、じつは宇宙船(UFO)だったのだ、と。 

 高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』については、公開1週間で早くも絶賛の声が相次いだ。画面の余白を描かずスケッチのように白地を残す描画手法、筆描きによる人物の輪郭線の濃淡描写などは、確かに専門家の言うように斬新である。テレビ予告でも繰り返されている、かぐや姫が満開の桜の下で歓喜のあまり円舞する描写、月光のもと十二単を1枚1枚剥いで疾走していく場面は、これまでアニメでは見たことのない手法だ。 

 技術的には高畑監督自身が語っているように、現在のアニメ技術の極致、行き着くところまで来ているという言葉を信じていいかもしれない。それはそれとして、僕がこの作品を評価するとしたら、『竹取物語』をすっきりさせてくれたことである。高畑監督は、極楽浄土思想を持ってきたと僕は思う。月は、清浄澄明な極楽土であって、地球上の人間の魂は輪廻転生して、地球(地上)と月(天上)を循環する。地球は肉体と物質の制約を受ける世界で、月は純然たる魂の世界である。(ここから先は結末をある程度書いてしまいますが、映画の内容は『竹取物語』にほぼ忠実なので、ネタ晴らしにはならないと思います。)

 人間が肉体の死を迎えると、魂はいったん、この世である地球を離れ、天上界である月に還る。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道をめぐり、悟りを開くまで地球(地上界)と月(天上界)を往復する。ただし月に仮宿りする魂は、レベルの高い「天」以上であろう。かぐや姫は、のちに見るように地上界に未練を持つ魂であることから「人間」と「天」の中間の魂と思われる。「畜生」以下は月には行けず、地球の地下深く、地獄界や餓鬼界を経廻る。 

 清浄な魂を持ったかぐや姫であったが、まだ悟り切らず、前世である地球の人間界に未練を残していた。姫は月(天上)から地球(地上)を眺め、美しい山野風景の中でともに生き、笑い、泣き、遊び、走りまわった情感豊かな暮らしを懐かしむようになった。魂は、ひとたび地上の肉体を抜けると、その瞬間に前世の記憶を一切なくすのだが、前世の記憶が姫の魂の底にかすかに残っていたのだろう。 

 月の大王(阿弥陀仏と思われる)は、それを姫の「罪」として地球に堕とした。「天人」になりきれない「人間」を引きずった魂は、もう一度地上の世界で修行しなければならない。それが、かぐや姫への「罰」である。高畑監督は、ここまでは言いきっていない。でも、僕にはそのように理解できる。地上は、魂の修行の場である。自由への制限がある地球で、魂は「人間」という形をもって生き、やがて成長し天界へと昇る(還る)。姫は、かなた将来には衆生を救済する「菩薩」候補なので、父王(魂に父子関係があるならば)はあえてその修行を「契り」と課したのだ。

 幼少期のかぐや姫の生活は、確かに月から憧れていたように、笑い、泣き、食べ、歌い、走り、そして獣、虫、魚、鳥、草木、花とともに生きる。しかし、やがて「罰」がある。姫は美しく育ち、都へ住まわされる。御殿に引きこもった、退屈で閉塞した生活、言い寄る婿候補の貴族、そして帝まで。欲望と穢れの世界。あの頃の自然の暮らしは・・・。 

 「いやだ」――。帝に抱かれて、そう叫んだ。その言葉が、罰の解ける時だった。この世の不浄を悟って罰が解ける、それは嬉しいことのはずなのに、かぐや姫にとっては悲しい出来事の始まりである。この地球を去る時が来たのだ。地球を去る、それは地上の人間界での記憶を一切失うことである。 

 この世は不浄である。苦の世界である。煩悩があるから喜怒哀楽、四苦(生老病死)がある。そこから抜けたところに解脱(さとり)がある。仏教思想では、あらゆるものへの執着があるからこそ、それに捉われ、苦しみが伴う。かぐや姫は、その無常を悟ったのだ。悟ること、それが罪の償いとなったからこそ、月に還れる。ああ、この矛盾。地球で生きることが罰というなら、もっと罰を受けたい。翁や媼、帝への愛らしき芽生え、そして生きとし生きるものと、もっとこの地球で生きていたい。それがかぐや姫の矛盾となり、悲しみとなった。 

 高畑監督はおそらく、かぐや姫の美しさに象徴されるように、この世の生の深い歓びや哀しみにまだまだ捉われていたいのだろう。この作品をつくる意味がそこにあったように思う。作品の根本には「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)、この世の生きとし生けるものすべてに仏性が宿っているという法華思想に通ずるものがある。一見、浄土思想と違うともとれるが、この世そのままが仏土(浄土)になりうるという考えからすると、逆に、この地上で生きるものすべてを愛し、生を全うすることが生身の人間としての生きる意味なんだと。

 美しい、姫よ――、その感情さえ魂の捉われというなら、いくらでも捉われればいい。 

 天上に還るため羽衣を掛けられた瞬間、地上での記憶から解かれて「人間」の表情をなくし、「天人」となったかぐや姫。それでもかすかに地球を顧みる、その一瞬の眼が忘れられない。

 最終場面の「極楽来迎図」は、現代感覚からするといささか唐突に思われるかもしれない。しかし、『竹取物語』の時代背景として仏教思想が全盛だったことに照らせば、不思議はない。極楽往生(魂の昇天)は、人間の肉体の死をもってなされる。だからかぐや姫は、「月に還るくらいなら死んでもいい」と翁と媼に何度も漏らした。かぐや姫が肉体の死を遺さなかったのは、姫にとってこのたびの地上界は、いわば「追試」だったのだ。父王と交わした契りである「追試」だから、肉体の成長(再履修)も早かった。かぐや姫が天衣をかけられた瞬間、それこそ地上界での死であった。

 映画『かぐや姫の物語』を観た後、僕は口語訳で『竹取物語』を一気に読んでみた。そして、その思想の深さ、物語(小説)としての完成度に衝撃を受けている。『源氏物語』よりもはるかに短い物語ではあるが、今なお現代性を持っている。かぐや姫の昇天は魂の変遷の物語であり、現代においても宗教、超心理学のテーマとなっている。

 

 

 


映画『華麗なるギャッツビー』 ~ ‘America’の体現者、そして・・・

2013-11-24 18:14:02 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 レオナルド・ディカプリオは、不思議な俳優である。彼を一躍有名にした『タイタニック』でも、確かに何か存在感を持っていた。それは、おそらく‘America’っぽさだろう。20世紀アメリカを体現しているような、上昇志向で何ものをも怖れぬ若さと風貌、成功を信じて向かう行動力が主人公にはあった。

 それは、『華麗なるギャッツビ―』にもいえる。恋い焦がれたデイジーと再会する前の緊張する演技は必ずしもうまいとは言えない。しかし、それでもディカプリオはディカプリオである。それでもギャッツビーなのだ。 

 映画『華麗なるギャッツビー』は、ほぼ小説(‘The Great Gatsby’)を忠実になぞっている。文学作品の映画化は、とかく有名小説のタイトルだけを拝借して、監督の思い入れでつくっているものがある。原作に忠実であることが映画の成功とは思わない。が、原作に近いイメージ化、ストーリー化でありながらそれを意識させずに作品に入っていけるなら、それは原作とは別の存在として成功している作品にちがいない。

 タイトルの「華麗なる」は、やはり映画向きである。「グレート」では、なんだかマフィアっぽくなって観客が来ないだろう。もっとも、ギャッツビーが若くして巨万の富を築いたのは、証券か闇商品での「インサイダー」取引によるものと随所にほのめかしている。小説では、ギャッツビーの運や財産、ひたむきさ、華やかさ、才能、強さと脆さ、謎めいた本性、男として哀しいほどの美しさと優しさ、ビジネス上の冷酷さ、孤独、そして悲劇、こういうものすべてを‘Great’で現わしている。

 小説を読んだ時もそうだったが、この映画を観ても同じ想いがした。切ないのだ。むなしくなる。「高潔で純真な偉大なる」青年ギャッツビーに対して、彼が恋する相手は「そこまで入れ込むか」と思ってしまうていどの女だ。女優キャリー・マリガンは、個人的には好きな顔のタイプだ。身近にこんな女性がいたら、それこそぞっこん、夢中になってしまうだろう。でも、映画の中のデイジー(マリガン)は、ギャッツビーが全財産と「忘れてきた青春」を捧げるほどの女に仕立てられていない。 (小説版についてはこちら「グレート・ギャッツビー ~ 青春の華麗なる忘れ物」)

 しかし、原作者フィッツジェラルドがこの作品によって 20世紀前半の‘America’の寵児になった時、そこにはデイジーのモデルとなった妻ゼルダがいた。『華麗なるギャッツビー』の私生活の舞台が妻とともにあった。派手好き、華麗好き、パーティ好き、観劇・行楽・男好き、金あり大邸宅あり、放っておいても男が群がってくるフェロモンを放つ女。どうして男は、こういうタイプに弱いのだろう。しかし、ゼルダがいなければ、‘The Great Gatsby ’ は生まれなかった。

 ギャッツビー1世1代の恋は、いくつかの行き違いにより破滅へと向かう。単なる失恋が切ないのではない。想いが行き合わないで歯車がずれていき、そして恋する相手にも逃げ去られることを知らず、死の間際までデイジーを待つ歓びに浸っているギャッツビー、それがむなしいのだ。しかも恋人の罪をかぶったまま、莫大な青春の時間と遺産を背負ったまま・・・。まあ、よくある恋愛劇と言ってしまえばそれまでだが。 

 グレート・ギャッツビー。

 君は‘America’ を体現した。フィッツジェラルド、君も‘America’ を体現した。そして、ディカプリオ、君も‘America’っぽい体現者であるのか。 

 ジョン・F・ケネディ。

 ―― デカプリよ、折しも、どこかその風貌だけは似ている。(2013.11.22ケネディ大統領暗殺50年)