FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

歌麿ダイナミズムの世界 ~ 美の中の美人 

2013-07-24 00:09:52 | 文学・絵画・芸術

 

喜多川歌麿『柿もぎ』

 喜多川歌麿『江の島鮑採り』

 

師宣や春信は もちろんいい。しかし、歌麿は別格だった。

麿の作品が眼の前に出てきてから、ぱっと世界が変わった気がした――。

 

東京三菱1号館美術館で、第1期(6/22~7/15)、2期(7/17~8/11)、3期(8/13~9/8)と分けて「浮世絵 Floating World」が開催されています。

第1期では、菱川師宣、鈴木春信、勝川春章、東洲斎写楽と、美人画中心です。むろん、喜多川歌麿の美人画、錦絵もあります。北斎、広重などは第2期なので、こちらも楽しみですが、やはり、歌麿はすごいと思いました。海外のコレクターが、歌麿に限らず、大量の浮世絵を当時持ち去ったということは、残念でなりません。もっとも、それによりモネ、マネ、ドガ、ゴッホ、セザンヌ、ルノワールなど西洋の印象派画家にも影響を与え、日本の浮世絵が国際的に知られたのですから、良しとするしかありません。

歌麿の筆の線は、その線が零点何ミリずれていても、まったく別物、評価が違ってしまうのではないかというほど、繊細の極致で描かれています。浮世絵は線の芸術であると言えるでしょう。ダ・ヴィンチがあえて線を排除し、陰影によって『モナ・リザ』を描いた革新的な描法に劣らず、線で描き切った歌麿ら浮世絵師もまた、革新的だったのです。

歌麿といえば美人画、遊女や町娘などを描きました。『ビードロを吹く女』が有名ですが、今回は当作品は展示されていませんでした。ほかの作品でも、間近で見るとそれぞれに見とれる素晴らしさです。歌麿が描く美人は、すらりとした八頭身、今でいうモデルなみの美人が登場します。頭の大きさは、昔も今も変わらないので、絵を見て推測すると175~185センチくらいの長身ですらりとした女が描かれています(『青楼十二時 続 丑の刻』など)。

これは、歌麿自身の好みなのか、いや、歌麿の美人画は超人気殺到だったと言われてますから、やはり町人男たちの好みだったのでしょう。あの時代、そうそうタレント小雪のような長身美人がいたわけではないでしょうから、スタイルなどは理想で描いていたと思われます。すらりとした細面の色白娘が好みとは、昔から男が好む美人タイプは変わらないということでしょうか。

今回、美人画に劣らず歌麿のすごさに驚いたのは、浮世絵のダイナミズムです。生活感と動きのある作品が、いくつもありました。たとえば、『柿もぎ』。一人一人の女は美人画そのままですが、日常生活の動きがあるのです。歌麿の作品には男女が交わる肉体的動きのある錦絵もありますが、そういった動きとは違います。木の枝に付けた紐を引っ張り枝を揺する娘たち、背伸びして柿をもぐ娘、木に登った若い男から柿を手渡しで受けたり、しゃがんで籠に枝ごと柿を入れる、はたまた肩車のように抱きかかえられて柿の枝にしがみついてもごうとする娘、それらを見物して楽しむかのようにたたずむ女2人。

いわば、一瞬の時間をパノラマ的に描かれたものでした。ほかに蚕(かいこ)の手工業所の作業風景(『女織蚕手業草』)や上半身裸の若い海女たちがアワビ採りをしている絵(『江の島鮑採り』)など、一見、かなり生活臭さがあります。ところが、ちっとも地味ではなく映画の一幕を見ているようで、それぞれの人物が生き生きとエロティックなほど、まさに動き出しそうな、いや、先ほどからずっと動き続けているような錯覚にとらわれます。

歌麿に対する新しい発見でした。歌麿は、町民の美人だけでなく、そうした生活の中の美人、いや生活全体の中から美をパノラマ的に、瞬時の動きの中で見出そうとした絵師だったのではないでしょうか。美人は、ただただ、その象徴だったのでしょう。

 

 


人工乳房再建 ~ アンジェリーナ、君もか?  

2013-07-17 00:56:34 | シニア&ライフプラン・資産設計

 ―― 医者は、手術室から出てきて、部屋の隅で待機していた私たちの前にある小さな白いテーブルのところに来た。たった今肉屋で買ってきた、黒い血まじりのレバ肉のような塊が入ったビニール袋を、気遣うように置いた。

 「これがそうです」

 それが、切り取られた妻の乳房だった。 

 

  アメリカの女優アンジェリーナ・ジョリーが、乳がん予防のため乳腺切除の手術を受けたことを公表した。母親もがん体質で、がん発生の高リスクを排除するためとか。どちらかというと肉体派女優のアンジェリーナだが、その誇る肉体、特に男性が魅力を感じるシンボルの乳房を切除するというのは、勇気のいったことだと思う。というより、女優生命にもかかわるのではないか、と心配してしまう。 

 もっとも、ハリウッドのトップ女優であるから、高額でも精巧・高度な手術で人工乳房の再建に踏み切れたのだと思う。アンジーの手術成功で、乳がん予防だけでなく、美容アップ(より形よく、より大きく)のために人工乳房を手に入れたいと思う女優が現れても不思議はない。もともと、豊かで魅力ある乳房を持っていたアンジーが単に美容目的でないのは本人の公表どおり明らかなのだが、皮肉にもそれが美容整形として流行るようであれば、ちょっと複雑ではある。 

 じつはアンジェリーナの乳房再建が話題になったことと偶然にも時を同じくして7月から、人工乳房による乳房再建手術に対して公的医療保険が適用されるようになった。これまで乳房再建というと、「自家再建」(患者自身の腹部の脂肪などを切除して移植して行う乳房再建)しか保険適用が認められず、人工乳房は保険適用外だった。ざっと、人工乳房だと100万円はかかる。これを自由診療で支払うのは、患者にはちょっと躊躇があった。(もっとも、民間保険では保険対象になるものもある。) 

 念のため言っておくと、アンジェリーナのようにがん発見後による摘出ではなく、がん予防のための摘出による人工再建は公的保険が適用されない。アンジーのように、これからも肉体的魅力が求められる女優は、相当高額な手術費用がいっただろうが、一般人はそうはいかない。 

 日本で人工乳房を入れるとなると、そこそこは掛かったが、これも保険適用になり患者の負担は相当減る。治療費の3割、しかも高額療養費が利用できるので実際は8~9万円ですむ。しかも今回、保険適用が認められたアメリカの医薬品メーカーは、これまで冷たくて違和感があると言われた人工乳房の質感を高め、形状や材質にまでこだわった新型の人工乳房を承認申請中だという。そうなると、一命をとりとめた女性が次に悩む乳房の問題は、費用の面でも質の面でも、だいぶ前向きにとらえることができそうだ。 

 乳房というのは、患者である女性だけの問題ではない。夫がいれば、乳房を失った妻が不憫だし、小さな子がいれば、母親の体の形が変わってしまうのはその子にとってもショックだろう(幼い子にそういうことまで告げるかということは別として)。 

―― 私の妻もまた、3年前に左の胸を落とした。幸い、早期のため今のところ術後の大きな問題はなさそうだ。しかし、これですべて安心というわけではなく、これからいつどうなるかはわからない。 

 手術の前、医者から、切り落とした乳房の後に「つくる」ことができると言われた。一つは体の一部を移植して、もう一つはシリコンを入れて。最初は「自家」にしようかと承諾したが、やはり腹や臀部の脂肪が「そこ」にくるというのは、本人はなかなか納得いかないようだった。シリコンなら形よくできると言われたが、その時はまだ保険適用ではなく高額だし、なにより自分の体ではない異物が常に「そこ」にあるというのが、どうしてもなじめそうになかった。 

 結局、再建は切除後にいつでもできるということで、切除と再建を同時の手術でやるというのは見送ったのだ。で、妻は今も「未再建」のままだ。 

 確かに、美容のために顔や胸に異物を入れる整形はあるが、乳房再建は美容ではなく治療である。義手や義肢と同じで、喪われたものを人工的に復元するものである。もっとも、治療として必要な人工物が、質感も良くなり、しかも美容感覚で気軽に再建できるようになると、女性患者にはこれからもっと明るい未来が見えてくるような気がする。


富士を見る、富士を聴く ~ 世界遺産

2013-07-07 18:31:53 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 富士山を「富士」というとき、それは「自分の」富士山という響きがある。作家や芸術家がよく使うが、普通の人が言うと、ちょっときざに聞こえる。しかし、生まれた時から眼の前に絵のように見えていた者には、やはり「富士」と言ってもいい。

 三島では、小さい頃から富士山はそこにあった。そこに見えて当たり前だった。泥にまみれ、汗だくで遊んで帰る夕方にも富士は眼の前に迎えてくれた。家並と家並で両側を挟む、さほど広くはない道の、その延長の先に富士がいた。2階屋根に上り、写生を描く時、家々の屋根と電柱と山と、そしてその上に富士がいた。

 自由写生では小学の頃の誰もが白い雪をかぶった富士山を描いた。小学、中学、高校と、校歌の中には必ず富士と湧水があった。(湖上の富士 花と音のシンフォニー「一竹辻が花」

 

御山(みやま)の恵み 野辺の幸

湧水の川 澄むところ

富士も明るく呼んでいる

(三島西小学校校歌)

 

富士の山 近くそそりて

湧く水の 清き水上

心澄む 丘の緑に

雲白く 映る静けき

(三島北中学校校歌)

 

 それなのに、富士山には登ったことがない。たいてい、同級生も登っていない。富士は見るもの。登るものではない。見るもの、書くもの、描くもの、撮るもの,謳うもの、そう思っていた。

 むろん、登るのはいい。ただ、登る富士山は、汚い。人が多い。山岳信仰と芸術の対象であった富士が、これでは悲しい。

 富士山は、日本のもの、世界のものである。100年も200年も前から。北斎の絵に影響を受け、描かれた富士に魅せられた海外の画家たち。外国の旅行者は、日本に来れば京都、奈良、そしてフジヤマ、Mt.Fujiを見る。いま世界遺産として世界のものになったと聞いてもピンとこない。富士は、とっくに富士だったのだ。

とはいえ、世界遺産は、それはそれでうれしい。遅すぎるくらいだったと思う。ゴミの問題、環境の問題があって、登録が遅れたときくが、日本で第1号であってもよかった。

 昔から日本一、世界のものであった富士山を、人があふれて汚れてほしくない。湖畔で見る富士も、これまた至極の美しさなのだ。日本に居ながらにして一度も富士山を見たことがない人たちが、これを機に、きっとたくさん訪れるだろう。それは喜ばしいことだ。

 だから―、美しい富士で、ずっといてほしい。