FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

アンナ・カレーニナと理想の結婚

2013-04-14 23:50:10 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 2012年アカデミー賞の衣装デザイン部門を受賞した『アンナ・カレーニナ』。文学でも最高傑作の一つとされている同名小説は、これまで何回も映画化されてきました。その中でも最高の作品と言われていたのが、ヴィヴィアン・リー主演(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督・1948年)の作品です。今回映画化されたキーラ・ナイトレイ主演の『アンナ・カレーニナ』は、ヴィヴィアンのアンナと比べてどうか、それが興味深くて観に行きました。 

 文学作品の映画化というのは、とかく成功するとは限りません。映画化された作品を観て、「なんだ、この作家の最高傑作というのはこの程度か」と思わないでほしい、といつも願わないではいられません。そういう意味で、今回もやはり「トルストイってのは、この程度の小説しか書いてないのか」と思われるのではないかと、内心不安になりました。 

 映像的な面白さを求めるなら、「まあ、そこそこの・・・」と答えるしかありません。ミステリー的な要素を求められるなら、「少し退屈で、がっかりするかも」と言うかもしれません。原作を読んでいないと、ちょっとわかりにくいところもあります。恋愛小説(あるいは不倫小説)を求めるなら、「う~ん、この程度ならどこにでも」と言うでしょう。 

 確かに、衣装デザイン部門を受賞するくらいですから、衣装や映像は美しい。また、本物に似た舞台(劇場)のからくり構造を随所に入れた場面展開は、斬新かもしれません。ただ、この程度は最近の映画技術ではたやすいことです。逆に言うと、こうした技巧を入れないと、ヴィヴィアンのアンナには勝てないということなのでしょう。 

 キーラ・ナイトレイのアンナは、映画の最初、確かにヴロンスキーが一目惚れするほどの美しさで登場します。しかし、恋におち、そこから抜け出せなくなり、破滅へと向かうにしたがって、ただの女に堕ちていく。それを責めるわけにはいかない。ただ、ヴィヴィアン・リーのように「美しくも哀れな」女として堕ちて行かないと、映画の成功度は下がります。美しいだけの女優なら、外国の映画界では腐るほどいるでしょう。作品の中で「ただの綺麗な女」なのか、「堕ちてゆく美しい女」かで傑作かどうかの分かれ目となります。 

 ヴィヴィアン演ずる『アンナ・カレーニナ』は前にも観たことがありますが、今回の映画化を機に、もう1回DVDで観てみました。作品の作り方が丁寧で、女優(俳優)たちが、きちんと心で演じているのが分かります。つまり、顔ひとつで、眼の動きだけで演技ができるのです。

 たとえば、ヴロンスキーの競馬での落馬場面。キーラ版では、劇場場面から激しく落馬する映像を見せます。アンナは激しくヴロンスキーの名を叫び、悲鳴を上げます。現代版は、これで何ら評価は下がりません。一方、ヴィヴィアン版では、ヴロンスキーの落馬場面は見せません。双眼鏡で観戦するアンナの眼の表情だけで、悲痛な心の悲鳴を演じています。 

 これは、一つの例ですが、物語全体の良しあしを象徴しています。もっとも、現代映画は、内面の動きなどよりも表面的な現象を激しく見せないと、観客は納得しないのでしょう。そういうところが、映画では十分に文学作品を描ききれないところです。といっても、それは、最初から表現方法が違うのですから、仕方ありません。監督が感じたように、理解したように映像・音楽で表現したいのですから、映画作品として成功していればそれでいいのです。文学作品の映画化といっても、これは文学作品とは別物の独立した映画作品として観ればいいのです。 

 ついでに言うと、小説では、作者トルストイが本当に描きたかったのは、アンナ夫婦の結婚生活ではなく、もう一組の青年農場主リョービン夫婦の恋愛と結婚であることは明らかです。リョービンは、トルストイ自身をモデルとしていますが、理想の夫と妻として、リョービンとキティを描いています。もっとも、こちらの夫婦の物語では、なかなか作品としてなりにくいし、地味で退屈な物語となってしまうでしょう(私はこちらの夫婦の物語の方が穏やかな感動があって好きですが)。 

 アンナの物語だけ切り離しても、これはこれで面白い。だからアンナの方の物語が強調されて映像化されます。アンナの物語だけを書いただけでも、トルストイは傑作を残したことになります。しかし、『アンナ・カレーニナ』が文学史上、最高の傑作であると言われるのは、一つの作品の中でリョービン夫妻の物語をアンナ夫妻と同じ分量で書いたことです。この2組の対称的な夫婦の物語が絡み合っているからこそ、最高傑作であると言われるゆえんでしょう。