FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間

2013-10-08 01:13:47 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 『風立ちぬ』は、宮崎駿監督が本当に描きたかったものに近い映画だったのだろう。

 『ナウシカ』から始まって『紅の豚』など、宮崎アニメには必ず飛行物(飛行シーン)が出てくる。それだけ、映画は立体次元となる。地上だけなら一次元である。地と海なら二次元である。これに空が加わることで三次元、そして夢や意識の時間が加わることで過去・未来を超えて四次元、数次元空間の世界へとつながっていく。次元が多くなるにしたがって、宗教的・哲学的となる。これが、子ども向けにはファンタジー、幻想的なものにもなる。 

 しかし、今回はファンタジーではない、現実の世界を描いている。戦争、大震災、貧困、失業、病、恐慌。戦争という過酷な現実の世界で夢を追う物語である。夢 ―、それが人を殺す戦闘機を造ることなのか、という疑問にはあえて答える必要はない。宮崎駿自身、このアニメは戦争を肯定するものでもない、かといって、本当は戦闘機ではなく民間機を造りたかったのに時代が許してくれなかった、などと言うつもりもない、と語っている。 

 ひたすら「美しい飛行機」を造りたかった、それに情熱を燃やした主人公を描きたかった。そんな物語である。宮崎監督自身が飛行機好きで、しかも戦闘機マニアだという。戦闘機は美しいという。だからといって、戦争讃美ではない。そういえば、僕が小学生の頃も、ゼロ戦ものの漫画が流行っていた。漫画誌に載っていたゼロ戦は美しかった。そのフォルムは、小学生の僕もまねて、よく描いたものだった。アメリカのグラマンやB29とかいうのはぶっくり太ったサメのように醜く、グロテスクだった。明らかにアメリカは敵国であり、美しく性能が良い日本のゼロ戦は、敗けるはずがなかったのだ・・・。ゼロ戦のパイロットは常に漫画のヒーローだった。まるで、野球のヒーロー、格闘技のヒーローと同じだったのだ。 

 この物語は、戦闘機づくりだけの話なら、映画として成立しない。それは宮崎監督自身わかっていたのでは、と思う。小説『風立ちぬ』(堀辰雄)のストーリーを縦糸に入れていることで、作品が成り立っている。では、なぜ『風立ちぬ』なのか。なぜ、堀辰雄なのか。そこが、いまだにわからない。菜穂子との出会い、恋愛、結婚、病気、死別だけのアニメをつくったとしても、宮崎駿なら十分、観賞に耐えうる作品として仕立て上げただろう。いや、これまでのジブリであれば、たとえば『魔女宅急』や『アリエッティ』みたいに、これを少年少女向けにつくったとして、アニメとしても、興行としても成功したと思う。 

 この機会に『風立ちぬ』を読んでみた。読んでみて、文章が美しい。文章が濃密である。これは、作中の妻の命が限られているという時間の緊迫感、切迫性からくるもので、文に無駄がない。無駄のなさが最後まで緊張感を引っ張る。また、雰囲気としてはプルースト的なものを感じさせる。宮崎駿自身、この小説を若い頃に読んだことがあるが、その時はよくわからなかったと言っている。それが年を経て、こうして映画の重要な織り糸になっているのは、監督自身の母(父の前妻)がやはり結核で亡くなっていること、自分自身の人生の残り時間が限られてきたことと無関係ではないのだろう。 

 「生きねば」―、これは、明らかに小説『風立ちぬ』のフレーズだ。「いざ、生きねやも」。この言葉は誰に向けられたのか。誰が発したものなのか。映画の主人公二郎には、この言葉はそれほど切実ではない。妻の死、敗戦。自らが開発した戦闘機ゼロ戦は、一機も戻らなかった。終結した戦争の残骸、街。 

 その中で、「生きねば」―。

 それは、納得のいく言葉である。しかし、僕には、違う人間に向けられたような気がする。それは、もちろん、病にあった菜穂子である(菜穂子とは堀辰雄の短命の妻がモデル)。

 ―「わたし、この頃、生きたくなったのよね」「あなたのためにも」。

 毎日毎日を死と向き合っていた菜穂子(小説では節子)と生涯病身で死んでいった堀辰雄その人の言葉である。映画では,残された二郎の言葉であるが、そしてもう一人、それは宮崎本人の言葉であると思う。 

 もっと自由に、もっと残り少ない人生を充実に、正直に。「創造に向けられる本当の時間は10年」という作中の言葉どおり、この時間を精一杯「生きねば」。これは、観る者の我々自身への言葉でもあるような気がする。戦闘機を扱っているから戦争賛美だ、喫煙シーンがやたら多いから喫煙推進派だとかいう人の言説に付き合うのは、あまりにかなしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


金魚と水・音と色彩 アートアクアリウム ~ ありきたりとアートの化学反応 

2013-08-03 01:29:02 | 芸能・映画・文化・スポーツ

  「華魚繚乱(かぎょりょうらん)」アートアクアリウム2013

 

 不思議といえば不思議、当たり前といえば当たり前。たかが金魚。一つのものに二つ、二つのものに三つと重なり、化学反応を起こす。それがアートになる。

 日本橋三越前で「アート・アクアリウム2013」をやっている。主役は金魚、だけど金魚は脇役。生きている金魚だが、多少は高価なところというか、買えない代物ではない。風物として、金魚鉢に入れておけば誰でも鑑賞できる。江戸の八っつあんでも、貧乏作家でも畳の上に置いておけば可愛がられる金魚ではある。

 ありきたりが、アートになる。光と音と色彩と、そして形(器)。そこにひらひらと泳ぐ金魚群。数秒ごとに水槽内の光が変わる。赤、青、緑など、LED光線が水と生き物を反射させる。光がなくなると、次の光の色彩が待ち遠しくなる。

 華が開く、水があふれる、繚乱となって。色の魚が咲き乱れる、華となって・・・。

 ひらひらと、ゆらゆらと、揺れる魚。そこに和風の音が流れていく。ゆったりと―。ああ、昔の人はただただ、水に入った金魚を一匹、二匹と、眺め愛でていたのだ。それが今、光と音と色彩の中にいて、愛でられる。 

 水。泉のように、川のように、湧いて、流れる色の光る水。その中にいる金魚。 

 四季ある日本の景色を襖絵にすることで、かように変わるのだろうか。何匹もの魚が泳いで揺れている。この「水中四季絵巻」の中で遊泳している。また、水槽に敷かれた着物の紋様となじんで、刻々、色が変わるのに、水の表層で泳いでいる金魚だけが何も変わらず、時という水の中を止まっている。泳いでいるのは金魚ではなく、音と時間、この魚はそこに揺れながら静止しているようだ。そこに揺れながら、止まっているのに、景色と時だけが背後に泳いでいく。 

 こう見ると、まるで金閣の鳳凰(三島由紀夫)のようだ。鳳凰は、金閣の上で停まっているが、決して静止しているのではない。時間が羽ばたいているのだ。鳳凰が飛んでいるのではなく、時空が羽ばたいていて流れていく。 

 生きている金魚というありきたりの素材に、何かの要素が加わることで新しいものが生まれる。創造というのは、きっと、そんな高邁なところにあるのではなく、案外、身近にあるものなのだろう。だが、そのありきたりの素材に、いかに新しいものを発見して創造し、融合させるか、それが存外難しい。

 芸術も同じ。新しい人生もきっとそう。そんなことを感じながら、観てきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


富士を見る、富士を聴く ~ 世界遺産

2013-07-07 18:31:53 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 富士山を「富士」というとき、それは「自分の」富士山という響きがある。作家や芸術家がよく使うが、普通の人が言うと、ちょっときざに聞こえる。しかし、生まれた時から眼の前に絵のように見えていた者には、やはり「富士」と言ってもいい。

 三島では、小さい頃から富士山はそこにあった。そこに見えて当たり前だった。泥にまみれ、汗だくで遊んで帰る夕方にも富士は眼の前に迎えてくれた。家並と家並で両側を挟む、さほど広くはない道の、その延長の先に富士がいた。2階屋根に上り、写生を描く時、家々の屋根と電柱と山と、そしてその上に富士がいた。

 自由写生では小学の頃の誰もが白い雪をかぶった富士山を描いた。小学、中学、高校と、校歌の中には必ず富士と湧水があった。(湖上の富士 花と音のシンフォニー「一竹辻が花」

 

御山(みやま)の恵み 野辺の幸

湧水の川 澄むところ

富士も明るく呼んでいる

(三島西小学校校歌)

 

富士の山 近くそそりて

湧く水の 清き水上

心澄む 丘の緑に

雲白く 映る静けき

(三島北中学校校歌)

 

 それなのに、富士山には登ったことがない。たいてい、同級生も登っていない。富士は見るもの。登るものではない。見るもの、書くもの、描くもの、撮るもの,謳うもの、そう思っていた。

 むろん、登るのはいい。ただ、登る富士山は、汚い。人が多い。山岳信仰と芸術の対象であった富士が、これでは悲しい。

 富士山は、日本のもの、世界のものである。100年も200年も前から。北斎の絵に影響を受け、描かれた富士に魅せられた海外の画家たち。外国の旅行者は、日本に来れば京都、奈良、そしてフジヤマ、Mt.Fujiを見る。いま世界遺産として世界のものになったと聞いてもピンとこない。富士は、とっくに富士だったのだ。

とはいえ、世界遺産は、それはそれでうれしい。遅すぎるくらいだったと思う。ゴミの問題、環境の問題があって、登録が遅れたときくが、日本で第1号であってもよかった。

 昔から日本一、世界のものであった富士山を、人があふれて汚れてほしくない。湖畔で見る富士も、これまた至極の美しさなのだ。日本に居ながらにして一度も富士山を見たことがない人たちが、これを機に、きっとたくさん訪れるだろう。それは喜ばしいことだ。

 だから―、美しい富士で、ずっといてほしい。

 


アンナ・カレーニナと理想の結婚

2013-04-14 23:50:10 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 2012年アカデミー賞の衣装デザイン部門を受賞した『アンナ・カレーニナ』。文学でも最高傑作の一つとされている同名小説は、これまで何回も映画化されてきました。その中でも最高の作品と言われていたのが、ヴィヴィアン・リー主演(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督・1948年)の作品です。今回映画化されたキーラ・ナイトレイ主演の『アンナ・カレーニナ』は、ヴィヴィアンのアンナと比べてどうか、それが興味深くて観に行きました。 

 文学作品の映画化というのは、とかく成功するとは限りません。映画化された作品を観て、「なんだ、この作家の最高傑作というのはこの程度か」と思わないでほしい、といつも願わないではいられません。そういう意味で、今回もやはり「トルストイってのは、この程度の小説しか書いてないのか」と思われるのではないかと、内心不安になりました。 

 映像的な面白さを求めるなら、「まあ、そこそこの・・・」と答えるしかありません。ミステリー的な要素を求められるなら、「少し退屈で、がっかりするかも」と言うかもしれません。原作を読んでいないと、ちょっとわかりにくいところもあります。恋愛小説(あるいは不倫小説)を求めるなら、「う~ん、この程度ならどこにでも」と言うでしょう。 

 確かに、衣装デザイン部門を受賞するくらいですから、衣装や映像は美しい。また、本物に似た舞台(劇場)のからくり構造を随所に入れた場面展開は、斬新かもしれません。ただ、この程度は最近の映画技術ではたやすいことです。逆に言うと、こうした技巧を入れないと、ヴィヴィアンのアンナには勝てないということなのでしょう。 

 キーラ・ナイトレイのアンナは、映画の最初、確かにヴロンスキーが一目惚れするほどの美しさで登場します。しかし、恋におち、そこから抜け出せなくなり、破滅へと向かうにしたがって、ただの女に堕ちていく。それを責めるわけにはいかない。ただ、ヴィヴィアン・リーのように「美しくも哀れな」女として堕ちて行かないと、映画の成功度は下がります。美しいだけの女優なら、外国の映画界では腐るほどいるでしょう。作品の中で「ただの綺麗な女」なのか、「堕ちてゆく美しい女」かで傑作かどうかの分かれ目となります。 

 ヴィヴィアン演ずる『アンナ・カレーニナ』は前にも観たことがありますが、今回の映画化を機に、もう1回DVDで観てみました。作品の作り方が丁寧で、女優(俳優)たちが、きちんと心で演じているのが分かります。つまり、顔ひとつで、眼の動きだけで演技ができるのです。

 たとえば、ヴロンスキーの競馬での落馬場面。キーラ版では、劇場場面から激しく落馬する映像を見せます。アンナは激しくヴロンスキーの名を叫び、悲鳴を上げます。現代版は、これで何ら評価は下がりません。一方、ヴィヴィアン版では、ヴロンスキーの落馬場面は見せません。双眼鏡で観戦するアンナの眼の表情だけで、悲痛な心の悲鳴を演じています。 

 これは、一つの例ですが、物語全体の良しあしを象徴しています。もっとも、現代映画は、内面の動きなどよりも表面的な現象を激しく見せないと、観客は納得しないのでしょう。そういうところが、映画では十分に文学作品を描ききれないところです。といっても、それは、最初から表現方法が違うのですから、仕方ありません。監督が感じたように、理解したように映像・音楽で表現したいのですから、映画作品として成功していればそれでいいのです。文学作品の映画化といっても、これは文学作品とは別物の独立した映画作品として観ればいいのです。 

 ついでに言うと、小説では、作者トルストイが本当に描きたかったのは、アンナ夫婦の結婚生活ではなく、もう一組の青年農場主リョービン夫婦の恋愛と結婚であることは明らかです。リョービンは、トルストイ自身をモデルとしていますが、理想の夫と妻として、リョービンとキティを描いています。もっとも、こちらの夫婦の物語では、なかなか作品としてなりにくいし、地味で退屈な物語となってしまうでしょう(私はこちらの夫婦の物語の方が穏やかな感動があって好きですが)。 

 アンナの物語だけ切り離しても、これはこれで面白い。だからアンナの方の物語が強調されて映像化されます。アンナの物語だけを書いただけでも、トルストイは傑作を残したことになります。しかし、『アンナ・カレーニナ』が文学史上、最高の傑作であると言われるのは、一つの作品の中でリョービン夫妻の物語をアンナ夫妻と同じ分量で書いたことです。この2組の対称的な夫婦の物語が絡み合っているからこそ、最高傑作であると言われるゆえんでしょう。

 

 


ライフ・オブ・パイ ~ トラとの共生あるいは恐怖と不安と希望

2013-03-10 23:41:38 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 この映画は素直に観ればよい。映像はリアルだし、美しい(苛烈で獰猛な自然の美しさ)。3Dが効果的に自然に使われていて違和感がない。『アバター』の映像も画期的だったけれど、海中と海面と空と宇宙現象に3D効果を用いたのはさすがで、今回のアカデミー賞(監督賞ほか3部門受賞)受賞は納得がいきます。

 映画を観る前は、ラストシーンが衝撃的だとか、哲学的な結末で人生観が変わるとか、いくつかのコメントがあったが、そんなに難しく考える映画ではありません。トラと227日間漂流する物語の中で、青年がどうやって生き抜いていく知恵と勇気を育んでいくか、その点を素直に鑑賞すれば、子どもでも、多少退屈なところがあるかもしれませんが、面白く観れるでしょう。

 では、何が哲学的なのか? 観終わった後、ずっと考えていました。痩せて生きながらえてきたトラが、最後にたどり着いた島の密林の奥を見据えたまま動かず、やがて宿命を悟ったようにそこに踏み入っていく。227日間ともに生きてきた青年の方を振り向くこともせず、新たな生物の苛酷な世界に戻っていく。ここで、227日間「共生」した者同士としての友情なり愛情を、猛獣と人間とのつながりの中で期待したくなる場面ですが、動物の世界はそんなに甘くありません。未知の密林の中で孤独に生きていくには、ちっぽけな人間の愛情など無用なのです。

 とすると、何が哲学的か? それは、トラそのものの存在です。後で分かったのですが、これは人生そのものなのです。つまり、諦めないとか、希望といったところで、それは孤立の中では生まれません。苦難(漂流)の中で、人が生きる希望を持つのは、あるいは希望を持つしかないのは、しつこく言えば希望にすがりたくなるのは、恐怖と不安からなのです。いくら希望を持てと言われたところで、うちひしがれてれている人間にそうそう希望は持てるものではありません。

 ただでさえ遭難しているのに、その救命ボートの中に猛獣がいたら、ひたすら救助を待っていても先に猛獣に食われてしまうだけです。眼の前の生存の恐怖、そこから知恵や勇気や希望が湧いてきます。もし、トラが居なかったら、青年は200日以上も生き延びられたかどうかわかりません。緊迫した緊張感と恐怖感、その中でこそ生きる知恵と希望が湧くこと。トラとの共生というのは、その象徴的意味を持つような気がします。そう考えると、この映画は哲学的というより、宗教的といえるかもしれません。

 最後のオチは、救助された青年パイが日本人の保険会社社員(どうも日本人っぽくないアジア人の役者でしたが)から、漂流生活について保険調査で尋ねられた時です。青年パイがトラとの漂流生活を話し終えると、「そんな荒唐無稽なことを話されても保険金が下りないので、実際にあったことを話してください」と諭されます。しかたなく、パイは、象徴的な部分を残して本当っぽい作り話をします。じつは、トラとの漂流生活は、一瞬、青年が生死の境を漂流していた間に起きた幻想ではなかったかと思わせます。

 まさかなあ、2時間以上も観てきた世界の中身が、青年の幻想(妄想?)だったなんて・・・。もちろん、映画そのものは現実ではなく、幻影にすぎないのですが、確かに、その時間を鑑賞することに費やしたことは事実なのです。人生も、ついさっきまでのことは幻想に過ぎないのかもしれません。こうして、哲学的思索の迷路にはまっていくのです。

 


松井秀喜 ~ メジャー年金疑惑を嗤(わら)う

2013-01-12 02:11:16 | 芸能・映画・文化・スポーツ

10、10、2504、2643、507、1649。これらの数字が何を意味するか ―。
すべて当てた人は相当なメジャーリーグ通、というより大の松井秀喜ファンでしょう。そう、昨年12月28日(日本時間)、メジャーリーグを引退した松井選手に関する数字です。一つでも当てられた人も、彼のファンの一人でしょう。

正解は、日本で10年、メジャーで10年、日米通算で2504試合出場、2643安打、507本塁打、1649打点。松井選手は昨シーズンを浪人で迎えましたが、あくまで現役続行を希望、5月1日にはレイズとマイナー契約を結び、5月30日にメジャー昇格しました。しかし、極度の不振で8月2日に自由契約となり、来シーズン(今年)プレーする球団もなく、メジャーでのプレー続行を断念しました。

それはともかく、ネットのあちらこちらで、松井選手が現役続行に固執していたのは、メジャーでの年金満額受給が目当てだと書かれています。書いている方もどこまで本気か面白半分か知りませんが、年金受給の中身については事実です。が、松井選手にとって満額受給かどうかはまったく意味がありません。

まず、メジャーでの年金について書かれていることをまとめてみます。メジャーでは10年在籍すれば、満額の年金を受け取る資格を取得できます。その額は60歳から生涯受給で、17万5,000ドル(現在のレートで約1,528万円)。メジャー年金は1年を172日のメジャー選手登録で計算され、その日数に満たない場合は按分で減額されます。昨シーズンの松井選手はメジャーで2カ月しかプレーできませんでしたが、10年間メジャーに在籍したことで、ほぼ満額の年金を手にすることができるようになったというわけです。

確かにそうですが、それが松井選手が現役にこだわった理由にはなりません。最後の1年間、メジャーリーグでの在籍が足りなかったとしても日割りで減額支給されるだけで、さほど年金額に影響するわけではないからです。メジャーリーグでは、5年未満であれば支給はゼロ、マイナーリーガーにはこの年金は適用されず、全く支給されません。選手登録5年以上で年金受給の有資格者となり、10年の選手登録があれば満額となります。選手登録が5年ならば満額の半額、9年ならば90/100が支給されます。

仮に松井選手が在籍9年でメジャーリーグを引退したとしても17万5,000ドルの90%、15万7,500ドル(約1,375万円)が受給されます。満額との差額は年153万円。60歳から20年間では3,060万円と、それなりの金額になりますが、この程度の差額はヤンキース時代の年俸約13億円、メジャーリーグ通算年俸約83億円(1ドル100円にならして)を考えれば、ほとんど無視できるものです。したがって、彼が現役続行にこだわっていたのは、単純に野球を愛していたからであって、それゆえ野球を続けたかったということだったのです(そんなのわかりきっているじゃないか、年金満額が目当てだなんて記事を誰が本気で読んでたの? ・・・などと言わないでください)。

松井選手の疑惑(?)が解けたところで、翻って日本プロ野球の年金制度をみてみましょう。日本プロ野球では、10年以上の選手登録が受給資格条件となり、15年以上在籍で満額となる年金制度でした(「でした」というのは、この制度は昨年廃止になってしまったとからです)。それまでは、10年選手で年間113万円強、15年以上で142万円(月11万円強)で55歳以降の支給です。日本の場合はメジャー(1軍)・マイナー(2軍)の差はありませんが、メジャーリーグでは球団側が掛金をすべて負担してくれるのに対して、日本では労使折半であり、仕組みも一般の国民年金制度と適格退職年金の併用に近いものとなっていました。ところが、平成24年3月に適格退職年金制度が廃止となり、それにつれて日本プロ野球の年金制度も廃止、その時点で10年以下の選手には一時金が支払われるのみでした。日本プロ野球では、年金財源を探り、新しい年金の枠組みが模索されています。

改めてメジャーリーグと比較すると、現役時代の年俸もさることながら、引退後の成功者への保障は格段の差があります。日本のプロ野球のスター選手であったとしても、引退後はかなり寂しい金額です。それよりもっと重要な問題は、現役中の資産管理です。近年は、年俸数億円も珍しくはありませんが、引退後の人生何十年にならせば、その金額は決して余裕があるとは言えません。相当額の所得税が差し引かれるという知識さえなく浪費し、翌年納税のために借金をする選手、高額収入により豪邸を購入したものの高額ローンを抱え続けるなど、引退後に生活破綻しかねない選手もいるようです。

確かに、プロ野球選手と一般サラリーマンでは年間所得額のケタが違いますし、現役期間の長さも異なります。しかし、現役時代の資産管理や運用、引退(退職)後の生活設計などの構図は、野球選手もサラリーマンも根本は変わるものではありません。たとえサラリーマンで高収入があるとしても、貯蓄できないくらいの消費やローン返済があったりすると、将来の生活は暗澹となります。特に私たち一般国民の年金制度も、今後さらに厳しくなることが予想されています。現役時代の資産管理の重要さが改めて問われる時代といえます。

最後の問いです。松井秀喜選手が、本当に現役を引退した理由は何だったでしょうか。それは引退会見を見た人なら誰でもわかるでしょう。「野球を愛していたから」は当然でしょうが、正解は彼自身が会見で言っている通り、「命がけで野球をすることができなくなった」からにほかありません。

 


『グスコーブドリの伝記』 ~ 台無しにされたタレント吹き替えアニメ

2012-07-24 00:51:41 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 ■宮崎アニメの唯一の欠陥

 いつからだろう。アニメ映画にやたらテレビタレントが吹き替えをするようになったのは。

 宮崎駿の名作アニメも『魔女の宅急便』頃までは、声優が吹き替えをしていたが、『もののけ姫』あたりからやたらタレントが吹き替えに入るようになった。『もののけ』では、森繁久弥や美輪明宏などのベテラン俳優はそれなりに吹き替えにも重厚さがあって許されるけれど、もののけ姫の石田ゆりなど、まったく違和感があった(タレントとしての好き嫌いは別として)。これ以外にも声が合わないタレントが何人かいた。 

 それ以来、ジブリの名作アニメにも人気男女タレントをやたら使うようになった。明らかに下手である。吹き替えはそれなりに訓練をしている声優に任せればいいのにと思う。宮崎駿監督は、アニメ映像や音楽には完璧を求める人だ。それは作品を見ればわかる。その完全主義者がなぜへたくそな、味も何もないテレビタレントを吹き替えに使うのか全く理解できない。

 考えられるのは一つ。おそらく制作資金の問題であろう。有名、人気タレントが吹き替えをやっているということで前宣伝をし、封切の舞台挨拶ではそれらタレントが勢ぞろいしてマスコミや観客を集める。制作資金のいくらかをスポンサー会社が負担する代わりに、集客宣伝は任せろ、人気タレントを吹き替えにして話題作りをし、客集め(金集め)すればいい・・・ということなんだろう。結局、アニメキャラクターに合わない「声」で作品が台無しにされてしまう。初期の『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』など、人気タレントなど使わないおかげで(つまりプロの声優のおかげで)、本当に名作として残っている。たぶん、宮崎さんも制作資金に苦労していたのかと思ったりするのだが・・・。

 ■名作アニメ『銀河鉄道の夜』

 ところで、ここからが本題である。今月公開された『グスコーブドリの伝記』は、そういう意味でひどい作品だった。少し、怒りを感じる。23~24年前に制作された同じ宮沢賢治原作の『銀河鉄道の夜』は、これはアニメ映画の最高傑作だと思っている。同年、宮崎駿の『ナウシカ』も発表されているから、内容や映画のタイプは違えども、このころ、アニメ映画の2大傑作が誕生しているのだ。

 今回の『ブドリの伝記』は『銀河鉄道の夜』当時の監督、アニメキャラクター原作者など多くのスタッフがかかわっているし、なにしろ宮沢賢治の名作だから、『銀河鉄道』と同じくらいにハイレベルの傑作を期待していた。しかし・・・。まず、「声」ですべて裏切られた。主人公はじめ主要登場人物はほとんど人気タレントが吹き替えをしていて、声に艶もなければ、演技もない。なぜ声優に任せないのだろう。タレントは顔や素振りや肉体の動き、それにセリフで演技をする。しかし、声優は声のみで演技している。声に全神経を注入して演技している。そこが違うのだ。「声」でまったく作品の質は落ちてしまう。

 また、絵の質も明らかに落ちている。キャラクター原作者は同じでも、実際にアニメを描いているのはスタッフであろうから、その質が『銀河鉄道』よりも劣っているし、最近のジブリ作品に比べても落ちている。音楽にしても『銀河鉄道』の時は細野晴臣が担当していたが、今回はだれかわからないが印象に残らないものだ。おまけに、最後には主題歌を小田和正の歌が唐突に流れてくる。小田和正の歌自体は悪くはないのだが、「おいおい、ここで歌うのかよ」という感じで、明らかに場違いであった。

 ■「復興受け」ねらいに

 東日本大震災が起きる前から制作準備に入っていたというから、「復興受け」をねらってつくられたものではないだろう。しかし、この作品内容からいって、被災地の人には大きな勇気づけになるだろうと観る前はかなり期待していた。作者の宮沢賢治は同じ東北岩手の出身で、彼自身生前に大地震や幾度かの冷害を経験し、自身も飢えで苦しみながら人々の助けになるため生涯を捧げた。愛する妹も病気で失っている。『ブドリの伝記』はそうした賢治の生きた背景をモチーフにし、最後は自分自身の命を犠牲にして人々を救う決意をし、火山の噴火にのまれていく。「復興受け」ねらいではないとはいえ、どうしても今回の大地震とダブってしまう。しかし、この作品が名作であれば、人々の勇気と慰めにつながるはずだったのだ。

 最後の自己犠牲の場面でさえ、意味の分からないものにされてしまった感じがする。あれでは、原作を読んでいる人でも「あれ?」と思うし、原作を読んでいない人はよけいに何だかわからないうちに「?」で終わってしまう。

 総じて、作品は『銀河鉄道の夜』にはるかに及ばない。その大きな原因の一つが、安易にタレントを吹き替えに連ね、チープな作品にしてしまっていることだ。『銀河鉄道の夜』の終章、名声優の常田富士夫のナレーションは賢治の『春と修羅』を朗読して終わる。ナレーションひとつとっても、比較にはならない。映像も音楽も丁寧につくっているのだとそれなりに言い訳するだろう。しかし、作品を安易につくっているのではないかという気がして、いくらかそういう手抜きが腹が立つのである。「復興受け」ねらいではないのに、結局「復興受け」ねらいの安っぽい作品になってしまった。


源氏物語と映像 ~ 映画『源氏物語 千年の謎』

2012-01-24 01:09:46 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

『源氏物語』は、何度か映像化されてきました。文字の世界は、読み取る人によってさまざまにイメージ化されます。その作者の感性によって映し方が違うのは当然です。

 

今、上映されている『源氏物語 千年の謎』もまた、そのイメージ化の一つです。この映画では、全巻のうち藤壺が出家する「賢木(さかき)」の巻までです。よく映像化されるのは、その次あたりの「須磨」「明石」の巻となっています。これを「須磨源氏」というらしいです。光源氏が政略により須磨に流され、明石の君と出会い、京への復帰の兆しが見え始めるところです。

 

この分でも、十分面白いのですが、ほんとうに『源氏物語』が面白くなるのはこの先からです。といっても、相当長いですから後半はなかなか映像化されません。光源氏の子の代の物語となる「宇治十帖」など、これはこれで、単独作品として十分楽しめるものです。

 

「桐壷」から「明石」までを第1部、「明石」の次から源氏が亡くなる「雲隠」までを第2部、そしてそのあとの「宇治十帖」を第3部と、『源氏物語』を3つに分けてみると読みやすいかもしれません。私は、この3部ともいずれ劣らず面白く、文学作品としてそれぞれに優れていると思いますので、映像化も、第1部から第3部に分けてやればいいと願っています。

 

個人的には特に、源氏死後の「宇治十帖」は、不思議な感覚の物語で、映像化されないのはもったいない気がします。『ハリー・ポッター』とか、『指輪物語』、もちろん『スター・ウォーズ』もそうですが、海外の巨匠は大型作品をシリーズ化しています。『源氏物語』も、これにならって誰か、映画監督が最終巻まで作品化しないでしょうか。日本人の監督でなくても、海外の監督にもお願いしたいくらいです。

 

ただ、今回の映画は作品としてあまり印象に残りません。これがかの世界最高峰の文学作品の映像化であると外国人に思われたくはありません。視覚的には当時を美しく再現していると思われ、宮廷や京の屋敷、衣装など幻想的な映像として鑑賞できるでしょう。しかし再三、六条御息所が嫉妬し生霊となって、源氏の妻葵の君や恋人の夕顔を呪い殺す映像は、なんともオカルト、スリラー、サスペンスものみたいで、滑稽味もあり、ちょっとうんざりもしました。怨霊は見えるか見ないかがいちばん怖ろしいものです。姿かたちが見えずとも霊の仕業と感じられるからこそ、人々に怖れられたのです。まあしかし、映画とするには、やはり生霊の姿を出さないと映像としては物足りないということなのでしょう。

 

光源氏は、たぐいまれな容姿の美しさと才能をもってこの世に生まれました。しかし、それは同時に女との深い業を背負って生まれてきたということです。源氏は、この世で十分、女と苦しむ「資格」のある生を授かってきたことになるわけです。その業は、天皇となった源氏の代で終わることなく、子の薫の君(「宇治十帖」)に受け継がれていくのです。源氏は、そうなることも自分の業であると自覚して受け入れています。さまざまな女を抱きながら「これが、自分の生き地獄なのだ」と。特に「第3部」などは、男と女、生と性の業を描く仏教色の強い文学作品となっています。

 

この壮大な物語は、やはり、全巻映画化されることはないのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『ブラック・スワン』 二重人格と分身 ~ ナタリー・ポートマン

2011-10-09 21:56:35 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

経済で「ブラック・スワン」といえば、突然起こりうるリスクの発現のようなことをいいます。たとえば、「100年に1度」のリーマン・ショックとか。ちょうど、何万羽の白鳥の中に、突然変異で現れた黒い白鳥のように。

 

映画『ブラック・スワン』は、文字通り「黒い白鳥」のこと。チャイコフスキー・バレー劇『白鳥の湖』における白鳥に対する黒鳥。この映画での『白鳥の湖』は、魔法で白鳥にされた恋人が元の姿に戻り王子の愛を得ようとするまでの物語です。白鳥が元の姿に戻るためには真実の愛を得なければならない。しかし、黒鳥が王子をたぶらかし王子の愛を奪い取ってしまい、絶望した恋人の白鳥は自ら命を絶つ。この白鳥と黒鳥は同じバレリーナが演じるのです。

 

その主役を射止めたバレリーナの心の葛藤を描くストーリーです。清純なバレリーナ・ニノ(ナタリー・ポートマン)は清らかで美しい白鳥を演じることはできても、官能的で男をたぶらかす黒鳥を、しかも白鳥との二役で演じる(踊る)ことがとてもできそうにないという絶望感と精神的な相克から人格が崩壊していきます。

 

今、「精神的な相克」(あるいは「超克」とも)などと難しい言葉で書きましたが、これは単に「プレッシャー」という言葉では表現しづらく、むしろ哲学的あるいは精神分析学的な用語で言った方がふさわしいからです。あるべき自分を追求して表現するためには、今ある自分を抹殺しなければならない。極端にいけば、これは自殺という形になります。映画の終盤でも、ニノは幻覚から相手を殺すつもりで自分を「殺して」しまいます。

 

今の自分を乗り越えるためには、それだけすさまじい精神的な闘いがあるのです。この闘いはしばしば肉体を傷つけることを伴います。そこから逃れるためには、闘わなければすむ。しかし闘わなければ、それはそれで自己の滅びを意味する。自分という他人と闘い勝つためにはその他人を殺さなければならない。それは自分を傷つけることと変わらない。自分の中の他人を殺してこそ、新しい自分が生まれる。

 

芸術や学問、スポーツでは、こうした壮絶な精神あるいは肉体との闘いが常にあるのでしょう。これが新しい自分を創造するということなのです。この映画では、そうした主人公の精神の移ろいがよく描写されています。ナタリー・ポートマンの清純な女性から官能的な女に変貌する(要するに一皮むける)演技も見ものです。

 

付け加えますと、この映画を日本では「サスペンス」と形容していることにどうも違和感があります。そんな形容はなくても、この映画は興業的に成功したでしょうし、ナタリー・ポートマンの演技も素晴らしく、アカデミー主演女優賞を取ったのもうなずけます。主人公の精神的な変貌の過程を実感できれば、いかにサスペンスという言葉が軽いかがわかります。

 

たびたび、主人公ニノは幻覚を見るようになります。しかも自分の分身を。これは精神分析学的には「ドッペルゲンガー」といわれるものです。小説ではドストエフスキーの『分身』という作品があります。自分とまったく同じ人間、同じ顔、同じ声、同じ背格好で、同じ町にいて、しかも同じ仕事をしている。自分と同じ人間をたびたび見かけ、その人間の正体を暴こうとするのですが、いかんせん、相手は自分自身ですから、どうにもこうにも・・・。こういう分身を見た者はやがて死を迎えるなどといわれたりしています。

 

単に比喩的な意味で、旧い自分を乗り越えるためにその自分を「殺す」ということにとらわれると、それこそ安っぽい「サスペンス」になります。実体験的にこの映画を少しでも感じることができれば、けっこう面白い映画です。

 

 


ヴィヴィアン・リー 悲劇の美貌 ~ アンナとスカーレット  

2011-09-02 00:09:20 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 映画『アンナ・カレーニナ』が来年、公開されるそうです。アンナ役にキーラ・ナイトレイ、夫カレーニン役にジュード・ロウ。『アンナ・カレーニナ』は、世界文学の名作中の名作です。トルストイの最高傑作は、誰もが知っている『戦争と平和』ですが、じつは『アンナ・カレーニナ』も「芸術として完璧な作品」と世界で賞賛されています。

 

トルストイの3大作品といえば、上記2作品に加え『復活』があります。どの作品もたびたび映画化されてきました。私は『戦争と平和』は完読しましたが、『アンナ・カレーニナ』は3分の2ほどでやめた記憶があります。トルストイの作品は、20代の頃はなかなか作品の中に入っていけませんでした。当時の私の関心は、人間存在の内部、特に心理・生理・思想面にありましたから、人物の内面にあまり入っていかない小説は退屈でした。だから、同じ19世紀のロシア作家でもドストエフスキーの作品に没頭していました。

 

それはともかく、文学作品の映画化というと、「観てから読むか」「読んでから観るか」というのがあります。私は、そんなことは、どちらでもいいと思っています。文学作品にしろ、映画作品にしろ、個別の独立した一つの作品としてみればいいのです。いくら文学史上の傑作といっても、映画になったら凡作というのはけっこうあります。逆に文学作品を離れて、独立した映画作品として傑作なものもあります。

 

以前からヴィヴィアン・リー主演の『アンナ・カレーニナ』のDVDを探していましたが、レンタルでありませんでした。このあいだ、書店で安く売っていたので買ってきて観ました。アンナ役には、ほかにグレタ・カルポ、ソフィー・マルソーのものもありますが、ヴィヴィアン・リーのものが定評はいちばんでした。

 

映画は1948年作のモノクロです。前に同時代の文芸映画『嵐が丘』を観ましたが、この頃の映画はほんとうに丁寧につくられています。セリフも饒舌に語らず、余韻を残して想像させます。ヴィヴィアンは、この上映の直前に、あの『風と共に去りぬ』の主役に抜擢されています。私は、今度『アンナ』を観ていて、どうしてもアンナと『風と共に』のスカーレット・オハラが同一人物に思えてなりませんでした。

 

当たり前じゃないか、演じているのは同じヴィヴィアン・リーという女優なのだ ― 、そう言われるかもしれません。そういう意味ではなく、演じられているアンナとスカーレットが人間として同じ女に見えてくるのです。同じ性格、勝ち気、それと同じくらい感情がもろい。愛を人一倍求めながら、愛を得られない。愛されようとしてかえって不幸の原因を自らつくり、愛を失っていく。他人を愛するより自分を愛することで、愛を失って悲劇になる。

 

ヴィヴィアン・リーは、そうした女を演じると、これほどぴったりくる女優はいない。もしやこういう女が彼女の地の本性かと思えるくらいです。これがすごい美貌(彼女のちょっとこわい美貌が個人的に好きになれないけれど)とくるから、映画では周りの男を恋に狂わせてしまうのです。それが自分自身の悲劇ともなるのだけれど。

 

『風と共に去りぬ』は小説では読んでいませんが、あの映画は小説作品を離れて映画史上の傑作だと思います。それで、今気が付きましたが、同じ女の性(さが)でも、アンナとスカーレットでは決定的に違うところがあります。アンナは愛を失って明日に絶望して投身自殺する。スカーレットは愛を失っても、「明日がある」と生きる望みをつなぐ。この最後の違いで、観た後の感慨がまるで違ってきます。帝政ロシアと開拓時代のアメリカ、そんな時代と国柄の背景の違いもあるのでしょうか。   

 

「観てから読むか」「読んでから観るか」。小説の傑作が映画の傑作とは限りません(その逆も)。順番はどちらにしても、観て読んで、読んで観て、両方できればこれほど贅沢なことはないのでしょう。

 

今度公開される『アンナ・カレーニナ』は、どうでしょうか。