FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

バルザック『ゴリオ爺さん』 ~ 貧困と出世の経済的人間模様

2014-10-03 06:43:23 | 文学・絵画・芸術

 この作品を読んでいくうち、主人公のラスティニャックは、ジュリアン・ソレル(『赤と黒』)とダブってイメージが浮かんでくる。出世欲にとらわれた野心家であること、自信過剰、自意識が強く、自己を正当化する青年像である。

 青年ラスティニャックは、パリの社交界で自分の野心と女を武器に出世することを人生の目標としている。といっても、真から悪人ではなく、内心は優しい青年である。このへんはソレルに共通している。この青年がパリで、自分の人生で出世の頂点に立つのかどうか。

 ―― さあ、今度は俺とお前との勝負だ。

 パリの街に向かって叫ぶこの青年の言葉で小説は終わる。「お前」とは、もちろんパリの社交界である。 

 バルザックは膨大な作品を書き、その小説群を「人間喜劇」として集大成した。作品に出てきた人物は、彼の他の作品に何度も再登場する。ラスティニャックがパリで成功するかどうかは、バルザックの他の作品を読まなければわからない。このやり方は、後に出る作家フォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」に取り入れられている。 

 ゴリオ爺さんの存在は重い。いまは貧困層の下宿に住むゴリオは元事業家である。年老い、くたびれた姿は下宿人仲間にも蔑まれている。彼はパリの上流社交界に嫁がせた2人の娘に全財産を吸い取られ、いまも病の身体から絞り出すように金目のものを娘たちに与えようとしている。それがゴリオ爺さんの幸せなのだ。そこまで与え尽くし、極貧のうちに最期を遂げようとしても、娘2人は臨終に姿を見せない。野心家のラスティニャックもさすがに、この爺さんには優しく接する。 

 親であれば、子からどれだけ吸い取られても、自分が病になっても子に尽くしたいと思う。娘たちの生き方は良いとは言えないが、ゴリオにはそんなことはどうでもいいのだ。一種、神のごとく大きな存在か、あるいは大馬鹿の哀れな爺さんにしか見えない。ただ、親であれば財産がなくとも、いや財産があればよけいに、やはりゴリオ爺さんと同じ生き方をしていると思う。今でいえば、贈与とか相続の話と同じである。親にしてみれば、自分が愚かとか哀れであるとかいうことは関係ないのである。 

 そもそもバルザックを読む気になったのは、「人間喜劇」という壮大なテーマとともに、社会に渦巻く人間模様がどのように描かれているかに興味があった。そして、特別富裕でもない若者が、どのように世界にのし上がっていくか。その欲望と悲哀とは。富と貧困は。今の経済小説といわれるものを読むよりは、バルザックの小説を1つでも読んでみると、人間の経済生活が少しでもわかるというものだ。 

 経済といっても、この21世紀ほどに19世紀当時は複雑な社会ではなかったにしろ、人間の本質はそうそう変わらない。いまバルザックを読むことは、そういう意味で面白く、意味のあることかもしれない。


三島由紀夫『豊饒の海』 ~ 最近の脳科学と唯識思想

2014-09-28 23:51:18 | 文学・絵画・芸術

 三島由紀夫の代表作は、今でも『仮面の告白』と『金閣寺』(三島由紀夫と金閣寺~永遠なる「美の鳥」鳳凰)だと思っている。それに加えて『春の海』(『豊饒の海』4部作の第1部)。 

 『豊饒の海』第4部『天人五衰』における最終場面で、僕はこれまで大きな勘違いをしてきたのではないかと思うようになった。あのような終わり方で、それまでの現実(虚構内での事実)を簡単にすべてを否定してしまったことについて、三島由紀夫への落胆というか、なかば怒りのようなものを感じたことがある。 

 それは1回目に読んだ時も、2回目に読んだ時も変わらなかった。本多繁邦は、最後の最後で青年時代に夭逝した親友、松枝清顕の恋人であった綾倉聡子(今は寺の門跡)に会いに行く。そして、かつての恋人、松枝清顕を知っているかと問う。門跡となっている聡子は、松枝という人は知らないと答える。事実からすれば、それはありえない。なぜなら、清顕と聡子は、大恋愛をしたのち、その恋愛が破れて令嬢聡子は若くして仏門に入ったのだから。 

 事実としては、確かに2人の関係はあったのだ。そこから輪廻転生の長い物語が始まっていくのだから。しかし、最終に来て、読者の期待は裏切られる。聡子の口からは、いや記憶からは、そのような事実がないということになる。これは仏教でいう「空」(唯識)の思想を思わせる。「色即是空」「空即是色」。この世の現実界はすべて実体がなく、実体がないことがこの世の現実である。門跡はその思想を現すため、あえて過去の事実を否定したのか、あるいは本当に実体のない出来事だったのか、それを作者、三島由紀夫が書きたかったのか。 

 いずれにしても、ここまで長い小説を読んできて、「それはない」と思ったものである。いくら虚構とはいえ、虚構内での事実を積み上げてきたことが最後になって「これまでのことはなしよ」と言われても、なかなか納得がいくものではない。これは小説作法にも反する。どうも割り切れなさを感じたものである。 

 ところが、それもありうると思った。人間の意識というものは記憶自体を自己に都合よく、あたかも事実としてあったように、あるいは事実をなかったように作り変えてしまうという脳の働きがわかってきた。それを考えると、聡子が何十年も門跡として生きていくうちに、自分が生きる道にふさわしくない事実に関する記憶は常に作り変えられて来たということである。

 人間には「記憶違い」ということがよくある。誤った事実を正しい事実として記憶してしまう。最近の脳科学の面からすれば、「空」の思想を持ち出すまでもなく、存在していた事実は存在していなかった事実として記憶されることがある。もちろん、三島が書きたかったのは、そんな脳科学の話なんかではなく、この世の「空」と美意識を書きたかったのだ。 

 いま在る事象は、時間とともに転変変異し、実体を失くし過去への忘却として消滅していく。この世に実体はない。無いということが実体なのである。そのあるかないかの実体の中に美が存在する。・・・・と、書くと、何のことかさっぱりわからなくなるが、ストーリー自体は、さすが三島由紀夫の筆になると、1つの傑作として面白く読める。しかし、輪廻転生物語を現代に持ってきたところで、どうも、作品全体が軽くなってしまったような気がしてならない。もっとも、輪廻思想が作品全体の原動力だから、致し方ない。 

 本当は、三島由紀夫はもっともっと、深い芸術性と思想をこの作品にこめたかったのだと思う。しかし、死が、間近に迫った死の決行が、やはりそれを許さなかった。死を前にして書き急いだ感がぬぐえない。それが残念でならない。脱稿した原稿を編集者に渡した直後、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺した。この最後の作品と同様、三島自身もあるかなきかの美意識としてその存在を完結しようとしたのだ。

 

 


トルストイ 『復活』 ~ 悲運の美女とわが悔悛の日々

2014-09-03 01:57:01 | 文学・絵画・芸術

 君は若い日に一度でも、悲運の境遇にある美しい女性を、自分の手で救ってやろうと思い抱いたことはなかったろうか。

 僕にはある。まるで、それが自分の使命であると感じ、そうすることで自分の正義なり思想が完結するとして、それでもう死んでもいいと思ったりした。自分がその女の救世主であるかと幻想したのだ。実際は人のために死んだりなんかできず、ただその女性と愛し合って一緒に生きていくことさえできればなあ、なんて考えていただけなのだ。しかもそんな悲運の美しき女性ですら、まだ見ぬ、自分がつくりだした幻影にすぎなかった。

 仮にそういう女性が現れたりしても、その悲惨な現実に押しつぶされ、何もできない自分がいただろう。

 トルストイは、『復活』一作を書いただけでも偉大な作家として名を残しただろう。トルストイといえば『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』の大作がある。『戦争と平和』は、就職前になんとか読み終えたが、長すぎて退屈したのを覚えている。『アンナ・カレーニナ』は3年ほど前に読んで、その面白さがやっとわかった。

 その点、『復活』はすぐに入り込めた。僕は自分が青年侯爵ネフリュードフとなり、悲運の美女カチューシャをずっと思い続け、やっと会えたという気がした。といっても、ネフリュードフのように、叔父夫婦の家にいた下女を誘惑して孕ませたということはない。でも不思議なことに、男はこういう話が出てくると、何か一つ駒の位置が違っただけで自分もそれを犯してしまったかもしれないという現実的な錯覚に陥る。

 カチューシャ(マースロワ)は、青年ネフリュードフの子を身ごもって女中として働けなくなり、ネフリュードフの叔父の家を追い出されて娼婦となる。数年後、身を持ち崩したカチューシャは事件に巻き込まれ殺人罪の宣告を受け、シベリア流刑となる。その裁判の陪審員席には、若き日にカチューシャ本人を一時は恋し誘惑したネフリュードフがいた。しかも彼自身が同席した裁判の判決は、手違いにより無罪の彼女を有罪と誤審したのだ。ネフリュードフは無実の罪を晴らし、カチューシャを救うことに生涯をかけると誓う――。こういう舞台がそろってしまうと、青白き文学青年でかつて恋愛に焦がれていた僕なんぞは、この歳ですっかりまいって、のめり込んでしまうのだ。

 それは、男のロマンティシズムである。しかし、女はリアリズムの中で生きている。だから、単なる純愛主義で彼女を救うなどというのは、女にとってこれほどうっとうしいものはない。女には、そんな男の性根がわかるのだ。

 カチューシャにとって、自分が生きる現実の世界はそんなに簡単に変えることはできない。ぎりぎりの現実の世界を生きている。ネフリュードフは生涯をかけて償いをする覚悟だが、それは彼自身を根本的に変えてしまうことになる。

 じつはこの物語自体、作者が実話を聞いて書いたものであるが、トルストイ自身が若き日にこの小説と同じ罪の体験をしたという告白がある。僕ら(読者)がこの小説に共感を覚えるのは、だれもが犯しやすい罪と、のちの人生にその被害者の運命を見た時の悔恨からくる贖罪感だと思う。

 このカチューシャの物語を通して、トルストイは当時の社会に対する批判をも描いている。それがカチューシャの不幸を現実感をもって浮き彫りにしている。カチューシャだけではない。低い階層と貧困というそれだけのために、同じ過ちであっても普通の階層の人より大きな罪として背負わされ、不幸の底に堕ちていく。僕らはそれが、今生きている現実の中で起きていて他人事でないような思いがしてくる。

 カチューシャは、ネフリュードフを今も愛していた。しかし、彼の申し出(罪人とされた彼女と結婚すること)を受け入れることはできない。彼の一生を台無しにしてしまう。それゆえ、彼への思いを断ち切って流刑地に向かう。結局ネフリュードフは、自分が彼女にとって必要でない存在と悟り、その事実を受け入れることで世の人々の苦しみに眼を向け始める。聖書マタイ伝に眼を開かれ、新しい行動に一生を捧げようと思う。「復活」とは、魂の救済のための新しい出発である。

 青春期にこれを読んでいたら、ネフリュードフとカチューシャの悲恋の物語として心に残っていたかもしれない。しかし今の僕の年齢で読むと、カチューシャの運命もそうだが、彼女を取り巻く、貧困ゆえに罪を犯さざるを得なかった善良な心を持つ人間たちの悲劇が身に沁みてくる。

 今の日本でも、ひとたび貧困に堕ちてしまうと、不運の中で一生を生きていきかねない。本当にそれで魂は救われるのだろうか。 


『ボヴァリー夫人』 ~ 平凡と不倫、エマの愛

2014-07-25 19:48:57 | 文学・絵画・芸術

 「彼女はあらっぽく服をぬぎ、コルセットの細紐をひきぬいた。紐はすべりおりる毒蛇(どくじゃ)のように彼女の腰のまわりにシュッシュッと鳴った。素足のまま爪先で、戸がちゃんとしまっているかをも一度見に行って、そして、着ているものを一気にみんな脱ぎすてた ―― 青ざめて、ものもいわず、真剣な顔で彼女は、わなわなと身ぶるいしながら、相手の胸にとびついた。

 しかし、冷汗にしとどになったその額に、よくわからぬ言葉につぶやく唇に、狂おしくなった瞳のうちに、その腕の必死の抱擁のなかに、極端な、正体のつかめぬ、暗いなにものかがあった。」(フローベール『ボヴァリー夫人』新潮文庫 生島遼一訳) 

 この文章が150年も前に書かれたものであることに、まず驚かされる。現代作家の小説の一場面だと言われても信じてしまう。それくらい、描写がみずみずしい。

 『ボヴァリー夫人』は、今さら言うまでもなくフローベールの代表作である。この19世紀の作品は、リアリズム小説の先駆けと言われ、当時、作家の模範的文体とされた。日本の近代・現代作家の小説を読んでいる時も、まるで眼の前で現実(あるいは映画の場面)を見ているように描写している作品がある。よくまあ、見てもいないものをここまで細かく書けるものだと感心させられることがある。多少なりとも、フローベールの影響なのだろう。

 小説の内容は、医師の妻、エマ・ボヴァリーの不倫である。アンナ(『アンナ・カレーニナ』)にしても不倫の愛である。エマもアンナも、平凡で退屈な夫に飽き足らず、若い男との恋愛に熱を上げ、最後は破滅(自殺)する。この時代は、今のように恋愛をしてから結婚するということはなかったようで、自分の心、肉体を燃え上がらせる経験なくして結婚生活に入ってしまったのだろう。結婚生活という枠の中に、女の情熱を閉じ込めておくことができなかった。

 エマは、それでも平凡な家庭生活を維持してきた。そこへ第三者である若い男が現れる。このとき、経験したことのない恋愛感情が生まれ、これが自分が求めていた本当の愛だとエマは思い込んでしまう。だが、こうした愛はしょせん、もろく崩れる。幻影である。大恋愛の果てに残ったものは、互いの幻滅。夫と同じ退屈な男が眼の前にいる。エマは、また違う男のもとに通い、肉体関係を重ねる。しかし、エマはすでにこの男にも捨てられていることに気づかない(気づいた時が破滅の時である)。

 平凡で退屈であることは、エマやアンナからすれば「悪」なのである。華やかで情熱的で、波乱があって、毎日が心ときめく生き方 ――。しかし、どうしてそんな毎日が送れるというのか。読者は、エマやアンナの生き方を見て、なんて馬鹿な女だと思うかもしれない。「平凡」だって、それは幸せの一つだ、と。

 文学は、何も倫理・道徳めいたことを書くものではない。小説は説教書や教養書ではない。生の真実(ありのまま)を描き出すものである。エマはこの上ない美女だがつまらない女、不倫、愛人、贅沢、借財、破滅、そして自ら死を選ぶ。そういう女の生き方を、真実に迫って描くのが小説家(芸術家)である。「馬鹿な女だ」とエマのことを本気で思わせ、しかもその魅力に夢中にさせたなら、作家の勝ちなのである。

 ところで、女の肉体に潜む性については、男には本当は分かるはずがないのだが、男である作者フローベールは、女の本性を知りつくしていたのだろうか。この疑問の前には、世界文学史に残る傑作を残した、というのが答えである。もっとも、これまで文学の評価をするのは大半が男だったから、本当の女が描かれているのかは、女にしかわからないかもしれない。とはいえ、男から見た女が真に描かれているかという見方からすれば、つまり、これが女の本性かと男が納得すれば、それはそれでいいのだろう。

  『ボヴァリー夫人』は『アンナ・カレーニナ』とともに、19世紀小説の傑作と言われている。男女の愛というものは、どうして読者をひきつけてやまないのか。きっと誰もが今の結婚生活に満ち足りない大恋愛をやり残してきているのだろうか。もし、それをやってしまったら、それこそ主人公の愛のように悲劇を巻き起こしてしまうので、ぐっと踏みとどまるかわりに、こういう作品を読んで架空の恋愛を楽しんでいるのだろうか。

―― いいえ、単に私たちは、いつだって恋愛が好き、それだけなのよ。

 なんだか、そういう女たちの声が聞こえてくるような気もする。


風薫る乙女 ~ 桜の咲く並木の下で

2014-07-13 01:01:38 | 文学・絵画・芸術

 薫風(くんぷう)に 

 髪なびかせて 

 君が行く ――

 

 桜の咲く頃、並木のある街道沿いの小径(こみち)を

 自転車に乗って

 薫る風に髪をなびかせ

 少女がすれ違って行った。

 その時、さーっ、と動いた風が僕の膚に触れ

 かすめて行った。 

 僕は思わず自転車のスピードをゆるめて振り返り

 行き去る乙女の姿を追った。

 桜は、少女の後ろ姿を

 満開に飾っていた。

 

 たった、これだけのことだけど、その瞬間が、青春のある時期(女子中学生のみずみずしさ、女子高大生の華やぐ頃など)を一瞬に思い出させることがありませんか。何気なくしている時、特別なある香りや風をすっと運んでくる。それは、具体的な思い出とは限らない。それでいて具体的な思い出を誘い出す、その時その時の特別な感覚としかいいようがない。

 香りと言っても、実際に何か決まった香りではない。脳が覚えている、あるいは記憶が化学反応しているのか、その独特な香りが頭の中(というより心)で融合し出すイメージについてくるものなのだ。

 それは、もう一度取り戻そうとしてもすぐに立ち消えてしまう、儚い夢のようなもの。だけど、確実に誰の心の中にも醸し出されてくるものだと思う。そして1年、2年の後もあれば、20年、30年の時を経て浄化されてくるものであるのかもしれない。


「武蔵野夫人」はなぜ死を選んだか ~ 武蔵野「はけ」という所 

2014-07-02 10:04:07 | 文学・絵画・芸術

 ずっと前から、「武蔵野」という響きが好きだったし、気になっていた。武蔵野というのは、だいたいどのあたりを言うのか。それで、国木田独歩の『武蔵野』という小編を読んでみた。名品で格調がある。けれど、武蔵野がどのあたりか。東は吉祥寺・三鷹、南は調布・府中から北へ狭山まで広がる一帯、あるいはもっと広い地域を武蔵野台というらしいが、よくわからない。

 大岡昇平の『武蔵野夫人』では、小金井、国分寺あたりが小説の舞台となっている。そのある一帯を「はけ」(峡)というらしい。だいたい僕の生活圏と重なっていて興味がわき、読んでみた。僕がよく行った所も、どうやら「はけ」の一地域らしい。

 小説自体は、簡単に言えば姦通(古い表現)小説である。戦後の人妻と復員兵の幼馴染みの従姉弟同士が不倫する話だ。スタンダールの19世紀心理小説にならって、日本の小説でもその方法を試みたというが、あんまり人物と人物の内部にわたって心理を説明(分析)されるのも、途中からうっとうしくなる感じもした。とは言っても、リアリズム小説のように、こと細かく外部描写されるのだって読む気がしなくなるという人もいるかもしれない。

 そういえば、プルーストやサルトル、野間宏など、1人の人物の内部に入って意識の流れや、内的独白をしていく手法もかなりしつこいものだ。ただし、20世紀小説の場合は、人物の1人の中に入ると、その人物の内部から他の人物(外部)を見るという、サルトルの言う小説における「相対性理論」が守られており、それがたいして苦痛にはならないのだ。

 ところで主人公である人妻、道子はなぜ自殺したのか。夫も他人(知り合い)の妻と姦通していることを彼女は知っている。この小説の時代、姦通罪が廃止されたことをいいことに夫は、「結婚したからといってそれに縛られる必要はない、妻以外に好きな女ができたら妻を捨てて好きになった女と結婚すればいい」という考えである。それで知り合いの妻とセックスを重ねるが、いざ自分の妻道子が従弟の復員兵とできていると知ると動揺するようなスタンダールかぶれ(スタンダリアン)の学者なのだ。

 道子は道子で、年下の従弟、勉を愛してしまうが、古風で自制の強い道子は最後の最後のところで勉にセックス(姦通)させない。道子はそれを大切な「誓い」として、2人が一緒になるまで(すなわち死ぬまで)とっておこうと勉と誓い合う。一方で道子は、子のいない夫との生活を維持しようと思う。しかし、このような恋愛が続きようがないのを勉は分かっている。道子を大切に思うがゆえに勉は恋愛に苦しみ、道子の自殺を知った時、自分の性が狂いだす予感を抱いて小説は終わる。

 道子が自殺したのは、たとえ夫と別れて男と結ばれても、自分が育った「はけ」を離れなければならないからである。「はけ」というのは、小説の最初に詳しく書かれているが、これこそ「武蔵野」の特徴であって、中でも小金井、国分寺を中心として続く「崖線」(ガケ、クボミ)のことで、「国分寺崖線」と呼ばれている。

 国分寺には、殿ヶ谷戸庭園や「お鷹の道」と呼ばれる所がある。僕も近辺に住んでいるが、確かにこのあたりは崖が多いし、坂が多い。地形で見ても、野川という河川に沿って、ガクッと直角に崖が落ちている。しかも、迷路になっている。特に国分寺辺りは、碁盤目のように区画されていない。車で狭い坂をくねくね下っては行き止まり、突き当たると、バックではもう坂を戻れないところにはまる。歩いていても、「はけ」の上と下では、確かに格段の高さの違いがある。ただ、崖はあからさまではなく、崖沿いに線路が続いていたりする。「はけ」にはまた、庭園があり、寺や塔、神社があり、植物群があるので崖を感じない。

 このような独特な地域に父の代まで所有してきた土地と屋敷は、道子には生そのものだった。夫と別れて勉と一緒になろうにも、土地の権利を夫に抵当に入れられ、この「はけ」の家を捨てなければならない。それは勉と一緒に住むこととは「イコール」ではないのを知っている。だから道子は、勉との「誓い」(運命)を大事に抱いたまま、「はけ」の家で死ぬことを決意する。

 「はけ」はまた、澄んだ湧水の出る所である。崖の層の重なる所に雨水が貯まり、下層に浸透していくうちに浄化されて名水となる。崖と水、緑の翳りと小路、そして土地特有の家に生きる貞淑な女――。女にとって恋愛は「土地と家」から離されるべきものではないのだ。一方で、愛のない夫との生活においても土地と家に縛られて生きる。その葛藤が道子を死に追いやった。

 不倫とは、エマ(『ボヴァリー夫人』)にしろ、アンナ(『アンナ・カレーニナ』)にしろ、そして道子にしても、結末は同じように悲劇だが、その悲劇のありようがみな違う。


夢野久作 『ドグラ・マグラ』 ~ 潜在意識の遺伝と死美女の犯し

2014-05-11 07:12:14 | 文学・絵画・芸術

 ●「奇書」のいわれ

 『ドグラ・マグラ』は、「一度読んだだけでは理解できない」、「一度でも読んだ者は精神に異常をきたす」と言われている奇書である。なるほどこのように言われると、ちょっと手が出ない。特に精神が落ち込んでいる時に読み始めると、本当にうつ状態か錯乱状態になるんじゃないかと思うと尻込みしてしまう。

 かく言う僕も、これを真に受けてできるだけ精神状態が正常か上向きの時に読もうと思っていた。もっとも、こんなのは編集者が本のPRのために書いた文なので、まったく当らないとわかっていたけど。というより、僕のように作品に興味あるのに尻込みして(?)本を買わない人が増えたんじゃ、PRが逆効果になってしまっているんじゃないかと思う。

 読んでみてわかる通り、僕は精神に異常をきたしていない(と思う)し、この程度の奇書は純文学と言われている中にもある。読者の理解力が足りないのか、著者の書き方が悪いのか(たぶん両方だと思う)、純文学的「名作」の中にも1回2回読んだだけでは理解不能、退屈で本を投げつけてわめきたくなるほど精神がおかしくなるようなものはいくらでもある・・・。

 「ドグラ・マグラ」とはよく言ったもので、その意味は「こんがらがっている」とか「堂々めぐり」ということらしい。話の最初と最後がつながっていて、円環状にぐるぐる廻り巡って終わりがない。とぐろを巻いた蛇が自分の尻尾を噛んでぐるぐる廻り続けているようなものだ。だいたい「ドグラ・マグラ」という音(おん)自体が、おどろおどろしく響く。

 テーマの1つが「夢」や「深層心理」にあるので、話そのものが現実のことではないように惑わされる(もちろん小説の中で起きている現実という意味で)。それが作者の狙いでもある。夢の中で起きた殺人だとか、夢遊中に潜在意識が勝手に犯した事件であるとか、そう言ってしまえばそれまでの話なのだ。あるいはまた、人間の心理が1000年もかけて遺伝して、その犯罪体質が人を殺したという、これまた荒唐無稽な話で、これはもう1回や2回読んだだけでは到底理解できないし、たとえ読み通したとしても確かに精神がおかしくなる代物である。

 この小説は、探偵小説、推理小説、ミステリー小説などに分類され、日本の3大奇書と言われているそうだ。あとの2つは『虚無への供物』(中井英夫)、『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)で、僕は『虚無への供物』は面白くて一気に読み通したことがある。こういう読み方ができる作品はめったになく、読者としては幸せでもある。『ドグラ・マグラ』はそこまでいかなくても、それなりに楽しく読み終えた。『虚無の供物』にしろ、『ドグラ・マグラ』にしろ、そもそも推理小説や何かなどというカテゴリーに入れるのがおかしい。これは純文学といえば純文学、大衆文学とかミステリーといえばそうと言える。 

●心理・生理遺伝と死美女

 『ドグラ・マグラ』の作中に、謎の絵巻物が出てくる。これこそ1000年もかけて「心理遺伝」して、青年主人公を狂わせて殺人に追いやったもととなる重大な「証拠物件」である。(作中では「心理遺伝」とあるが、性的なものの遺伝も考えると「心理・生理遺伝」がより正しいと思う。)その絵の描写に「死美人六変化(へんげ)」がある。死美女腐敗図というもので、仏教ではよく無常観を現すものとしてとりあげられる。浄土宗の『往生要集』(源信)という本にも事細かな描写がある。

 どれほどの絶世の美女であっても、人は必ず死に、その死体は最後には腐って骨だけになり、その骨さえもカラスにつつかれ、スカスカの枯木みたいになってしまう。そこまでが6段階で描かれている。死んだばかりの美女は、まだ生きているままに美しく、女の香りを漂わせていて、その死に顔に思わず頬ずりしてしまいたくなる。2段階目からは、美女の顔かたちが少しずつ崩れていき、異臭を放ち、髪が抜け始め、眼球はとろけて流れ出し、口は大きく裂けてただれた唇の間から歯がむき出しになる。髪や皮膚は脂っぽくべとべとになり、最後には腐った肉の塊りと骨になる。その段階を1段階ずつ細かに描写してあるのだ。この絵巻物を見た男は発狂して、1000年の遺伝の餌食となり殺人鬼となる。

 この小説の異常っぽいところは、1000年前にこれを描いた絵師が、美女の死体にある種、性欲を感じるところである。美女が刻々、醜く腐敗していく過程を凝視し、克明に描きつつ性的快感を味わう。それが心理・生理遺伝して、1000年後の青年が美しき許嫁(いいなずけ)を絞殺してしまう。そしてわが愛する死美女の肉体が腐乱していくのをじっと見つめ恍惚としている・・・。

 ここまで書くと、「なあんだ、やっぱり。こんな小説を読んでいるようじゃ、とうとうお前も頭がおかしくなったんじゃあないのか」と言われそうだ・・・。ただ、何度も言うようだが、この程度の「奇書」ぶりなら純文学の「傑作」にいくらでも見られる。そういう意味では、『ドグラ・マグラ』も純文学的名作に数えられそうだ。文体の百科展覧、精神病理学的解析、遺伝学的解釈、精神病概論、殺人心理及び殺人生理、深層心理学的解明、夢判断、法医学的解釈など、様々なテーマが複雑に絡んだ、ちょっと一筋縄ではいかない大胆な実験小説といえる。ある意味、学問的考察が必要ともいえる作品なのだ。

・・・・そういうわけで、しばらくしてもう1回読もうか、とは思っている(精神はいまだ侵されておらず・・・)。

 


漱石 『こころ』 ~ 新聞小説の味わい

2014-05-04 02:40:29 | 文学・絵画・芸術

 新聞小説というものは、これまで新聞を購読して何十年来(?)、読んだことがありませんでした。小説というのは、一冊の本というページの塊りの中にある文字をある程度まとめて読んでいくものだと思っていたからです。

 一気に何十ページ、気が乗れば100ページ、200ページくらいの文庫本ならぶっ続けで読んでしまいたいという欲求がいつもあります。残念ながら、そういうふうにして読み通せる作品はめったにありません。たいがいは名作とか好評と言われているものを、数ページ読んでは残りのページ数を気にかけつつ、読み始めたからには最後まで読まずには気が済まさないという意地みたいなもので読むのが常でした。

 それが、先月から朝日新聞に100年ぶりに、なんと夏目漱石の『こころ』が再連載されたのです。なんで今さら、と思いますが、いろいろ新聞社の思惑があるのかもしれません。100年前の同じ日付の新聞に連載を再現すること自体に意味があるようです。まだ10回くらいしか載っていませんが、新聞小説など目もくれなかった自分が、今では毎日楽しみながら読んでいる次第です。

 新聞連載はその日の分量しか文字が載っていませんから、それでかえって一語一語かみしめながら、じっくりと読む楽しみが出てきます。これほど落ち着いた読み方ができるのも、すでに一度読んだ小説であることと、夏目漱石という国民作家が書いた、近代小説の名作ということがあるのでしょう。本だと、後ろに未読のページがたっぷりあると、早く読了感を味わいたくて先へ先へと、つい粗っぽく読み進んでいってしまいます。文章を味わうとか読み返すなど、よほど気に入った作品でないとしません。

 『こころ』を読んだのは、30代前半の頃だったと思います。読むこと自体に苦労はなかったのですが、「先生」の生き方(死に方?)の理由がいまひとつ納得いかなかったように覚えています。細かいストーリーは覚えていませんが、あれから長い年月がたち、すっかりいい歳になった(?)自分が、一日の限られた小説の文章をじっくり味わいながら、あの時わからなかった人物の生き方の意味を読み返しています。

 考えてみると、僕が漱石の作品で理解しながら読めたのは『坊ちゃん』くらいかもしれません。中学入学したての時、こんなに面白い小説があるのかと一気に読んだ記憶があります。『坊ちゃん』は、読む楽しさと同時に書く楽しさを教えてくれました。あの時は痛快に感じましたが、中年になって読んでみると、あんなに活気があったように思えた「坊ちゃん」が、なんだか元気のない青年に思えてきました。疲れた「坊ちゃん」がそこにいました(「元気がなくなった『坊ちゃん』 ― 漱石ふたたび、みたび」)。純粋に読めば楽しい小説ですが、いろいろ世間の波をかぶっている時に読むと、ちょっと切ないところがところどころありました。そういえば、漱石自身もかなり神経を病んでいた時期が長かったのを思い出しました。

 良い作品は、読む年齢によって読み方も変わるのでしょう。『こころ』もまた、今の年齢になると一文ずつが、じわりじわりと僕の内に浸み込んできます。それにしても、100年前の小説、文章の力はまだまだ衰えているとは思えません。小説の言葉は、あなどれないものです。




 


ガルシア・マルケス ~ 『百年の孤独』 次に来る小説は?

2014-04-25 00:36:41 | 文学・絵画・芸術

コロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケス氏が亡くなりました。じつは、このブログの記念すべき(?)第1回のコラムがマルケス氏の『百年の孤独』についてでした(「小説とライフプランニング『百年の孤独』」)。

20世紀小説は、ジョイス『ユリシーズ』、プルースト『失われた時を求めて』によって頂点を極めたと言われ、その後の小説は、いかにこの2人の偉業作品を毀し変容させていくかが生き延びる道だとされました。

考えてみれば、同じようなことが19世紀小説でも言われました。トルストイ、ドストエフスキーらによって小説は完成したと言われ、その後の小説はいかにこれらの小説を破壊させながら発展させていくかということでした。そこに現れたのがジョイス、プルーストだったのです。

もう、小説の方法も出つくした、あとは衰退をたどるのが小説の運命と言われた20世紀も後半、突如として仰天すべき小説が出現したのです。それがマルケス氏の『百年の孤独』です。作家や評論家が驚いたこのラテンアメリカ文学は、マジック・リアリズムと言われ、民族的伝承と記憶と現実と呪術的な超時間的感覚で書かれたまったく新しい小説でした。  

おそらく、20世紀前半にジョイス、プルーストが出現した時のような「事件」だったのでしょう。日本の作家たちが「すごい、すごい」「読んでみたか」などいろいろ書いているのを読んで、ついに僕も読んだのでした。

決して、読みやすい小説ではありません。ほいほい話が進んで、作品の中にのめり込んで、あっという間に読み終えてしまったという代物ではありません。そんなこと言ったら、『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』だって、決して読みやすいとは言えません。まあ、退屈なところもけっこうあって、その退屈さをゆっくり上等に楽しめる贅沢な小説と言えるでしょうか。僕としては、あの長大な2作品を死ぬまでにもう1回読んでみたいと思っていますが・・・・。

話を戻すと、『百年の孤独』は確かにこれまでにない小説です。僕自身、古今東西の小説を読み漁ったというわけではありませんが、この作品の異様さがわかります。異様さと言っても、ミステリーや奇書ではありません。その作風です。だいたい、小説の中の時間が、いったいどれくらい経っているのか進んでいるのか、まったく分からなくなってしまう。

それが1日の出来事なのか、100年、200年の長さの時間なのか。物語の中での実際の時間が短いのか、長いのか。20世紀小説も意識の時間を巧みに描いたものですが、どうもその時間感覚とは違うらしい。なにやら、1人の一生よりとてつも長い時間が作品の中で流れているのですが、それが1人の中で起こっているという錯覚に陥る。そこに伝承と記憶の意識と土地の「場」が絡んでいるようなわけです。 

この作品は、新しい世紀の小説宝庫となり、小説は蘇生し、さまざまなラテンアメリカ小説が呼び起こされました。小説の可能性がこれでまた拡がったわけです。アニメ、コミック、ゲームなど優れている作品がおびただしく出てきており、小説は衰退していくのではないかと危惧されてきました。存在価値がなくなればそのまま絶滅するのも仕方ないかと思いますが、どっこい、まだまだ「言葉の魔力」というのは、そう簡単に衰えるわけではないとも思って(願って)います。

『百年の孤独』の次に、何が来るか。


『ティファニーで朝食を』 ~ 本当は「やがて哀しき」ストーリー

2014-01-12 10:02:44 | 文学・絵画・芸術

 『ティファニーで朝食を』といえば、今ではオードリー・ヘップバーンの映画を思い出す人が多いと思う。黒いぴっちりとしたドレスに1メートル近くもある(ちょっと大げさか)細長いキセルを吸っているヘップバーンの姿が印象的だ。じつは映画雑誌などでは知っていたが、今回観るまで、映画もビデオも観ていなかった。

 数ヵ月前に、NHK教育番組「ハリウッド白熱教室」の講義をたまたまつけて、面白くて毎週見てしまった。南カリフォルニア大学キャスパー教授のハリウッド映画講義が抜群に面白かった。なにしろ教授自身が俳優になったみたいに身振り手振りし、まるでシェイクスピア劇の役者がセリフを喋るように派手なパフォーマンスで講義するのだ。出席している学生(社会人もいる)も前に引っ張り出され、役者まがいのことを演じる。毎回古今いくつかの名作名場面を映して解説してくれる。映画手法、登場人物の心理、映像や照明・音響効果など。その中に、『ティファニーで朝食を』の一場面があった。その解説が印象に残っていたので、いつかDVDを借りてこようと思っていた。

 場面は、主人公ホリーと語り手「僕」が、気分転換にニューヨークの店(今でいうLoftのような店)に入って、ちょっとしたものを万引きしてしまうというところ。小説でわずか1行の文章は、映画では名場面になっている。そこの映画手法について詳しく解説してくれるのだ。たとえば、人物の配置、音響効果、カメラワーク、俳優の表情など。

 それはさておき、『ティファニー』を今さら読む気になったのは、その映画講義のせいもあったけれど、フィッツジェラルド、サリンジャーと、20世紀半ばのアメリカ作家を続けて読んだので、その関連で同時代のカポーティを読むことにした(前2作と同様、訳者は村上春樹ということもあって)。『ティファニーで朝食を』はトルーマン・カポーティの代表作である。今では原作よりも、ヘップバーン主演の映画の方が有名になってしまっているけれど。

 小説は洒脱な文章、人物設定のうまさ、構成の巧みさもあって、思いもかけず二度続けて読んでしまった。この時代のアメリカ文学は、『グレート・ギャッツビー』にしろ『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にしろ、作品の中に軽く入っていける文章が特徴で(というか、村上春樹の訳文の特徴か)、ミステリーやサスペンス、推理小説でもないのに、ついつい話の中に引きこまれていってしまう。大きなどんでん返しがあるわけではないが、最後まで読んでいくと、「やがて哀しき」結末へと終結していくようだ。

 ホリー・ゴライトリーは、奔放で、オープンなセックス感覚を思わせる女優の卵(じつは高級娼婦に近い)である。彼女の周りにはいつも男はもちろん、女どうしでも群がってくる。なにしろ狭い高級アパート(?)で、毎週パーティをやっている。人を惹きつける魅力があるのだ。上階に住む売れない駆け出し作家の「僕」もそのうちの一人となって振り回され、この女に惹かれていく。

 このような女は哀調が似合うのかもしれない。映画では、名曲「ムーン・リバー」をヘップバーンがひとり歌うシーンが象徴的だ。しかし、やがて幸福になるというよりは、その本性のせいか何か事に巻き込まれ、どこか行方が分からなくなってしまう。幸福に暮らしていそうなのだが、そうではないらしいところが彼女であって、気になってしまう。

 映画にするなら、マリリン・モンローのほうが合っていたかもしれない。事実、最初はモンローの主演が決定していたらしいが、キャンセルしてヘップバーンになったという。映画化に当たって、ヘップバーンが主役になるということに作者のカポーティは不快だったという。自由奔放で本物のまやかしっぽい主人公ホリーの魅力にイメージが合わないと気付いていたようだ。ヘップバーンにはどうしても『ローマの休日』の可憐な王女様のイメージが付きまとっている。結局、モンロー用に書いたシナリオはすべて書き換えられ、ヘップバーン用のシナリオが用意された。映画『ティファニー』そのものは、ヘップバーンの魅力を引き出していて、小説とは別物のロマンスとして観る分にはいい。結末も、小説とはかなり違うものとなっている。

 ところで、「ティファニー」はニューヨークの有名宝石店。ホリーが消息を絶って数年後、ちょっと有名になった作家「僕」は、彼女がアフリカで幸福に暮らしているようだという噂話を聞いても信じない。だって、ホリーが少しばかりのエゴを連れ立って落ち着いていられるのは、そして自分自身でいられるのは、あの「ティファニー」で朝食をとっている時だろうから。多分それは、これまで一度だって実現しなかったろうけれど。