遠く榛名山系をのぞむ、
田んぼの中で、江戸後期の花形スターが、
最後の鑿を持った。明治年号まであと5年
爪のように磨いた鑿は、指先の動きのように自在に動き、
樫の木に喰い込む。
掘っ立て小屋で寝起きしたのは、1858年、
石原常八主信72歳(前回、雷電稲荷の彫り物師)
その子の、石原常八(恒蔵)主利49歳。
田んぼの中で、江戸後期の花形スターが、
最後の鑿を持った。明治年号まであと5年
爪のように磨いた鑿は、指先の動きのように自在に動き、
樫の木に喰い込む。
掘っ立て小屋で寝起きしたのは、1858年、
石原常八主信72歳(前回、雷電稲荷の彫り物師)
その子の、石原常八(恒蔵)主利49歳。
主利の長男、石原(高沢)改乃助28歳と、
一世を風靡した石原3代。
一世を風靡した石原3代。
北関東の彫り物師として、
関東の社寺に鑿裁きを残した爺さんの、
関東の社寺に鑿裁きを残した爺さんの、
常八主信は、榛名講の信仰が浸透する中、
信者が、寄金を出して神社建設を計画する。
そこで呼ばれたのが石原常八主信。
信者が、寄金を出して神社建設を計画する。
そこで呼ばれたのが石原常八主信。
高齢の主信は、63歳で常八を継がせた
長男の常八主利を棟梁にして図柄を描く。
長男の常八主利を棟梁にして図柄を描く。
けれど・・・
まもなく明治、群馬花輪の彫り物集団の彫り師への、
受注がほとんど無くなり、
彫師たちはどんな生活を強いられたか・・。
榛東村宿稲荷神社に鑿裁きを残した、
石原常八主利は、この作品を最後姿を消す。
長男の石原改乃助は高沢家の養子にし、
次男の歓次郎は、高松家に、
受注がほとんど無くなり、
彫師たちはどんな生活を強いられたか・・。
榛東村宿稲荷神社に鑿裁きを残した、
石原常八主利は、この作品を最後姿を消す。
長男の石原改乃助は高沢家の養子にし、
次男の歓次郎は、高松家に、
三男の幸助は、仲間だつた岸又八の養子にと、
常八主利本人の栄華とは裏腹に、時代の流れに飲まれて、
家系を自ら断ち切る。
常八主利本人の栄華とは裏腹に、時代の流れに飲まれて、
家系を自ら断ち切る。
そんな主利の心意気は、製作品にも見える。
榛名講・榛名神社の双竜門1855年に刻んだ、
小林(長谷川)源太郎の丸い形にした、
龍を宿稲荷にもオマージュとして刻み、
榛名神社まで行けない、
信者への心優しい心遣いをしている。
榛名講・榛名神社の双竜門1855年に刻んだ、
小林(長谷川)源太郎の丸い形にした、
龍を宿稲荷にもオマージュとして刻み、
榛名神社まで行けない、
信者への心優しい心遣いをしている。
そして、心を打たれるのは、
柱一本、一本、木鼻の獅子頭20個ばかり、
海老虹梁の龍、
海老虹梁の龍、
寄金をした人たちの名を刻む作業までを・・。
爺さん、石原常八主信は完成後5年には77歳で亡くなり、
棟梁の常八主利は、どこに行ったか・・
江戸神田町・・‼
棟梁の常八主利は、どこに行ったか・・
江戸神田町・・‼
江戸後期の花形スターへの悲劇は、
妬みもあって、
棟梁・主利の3男、(岸)幸作は28歳で、
不意に襲われ刃に命を落とす。
棟梁・主利の3男、(岸)幸作は28歳で、
不意に襲われ刃に命を落とす。
もし、
榛東村宿稲荷神社1863年落成に、
出むことがあったら
散歩に出かけることが、あるなら
ここの彫り物師スターは
散歩に出かけることが、あるなら
ここの彫り物師スターは
庶民たちが、金を出し合って
作りたかった神社の飾りを彫った
作りたかった神社の飾りを彫った
日々の生活にも、困窮しながら
後世、私たちに溜息を付かせ
指に豆を作り、血を流した
結晶、最後の技がここにある
想い
結晶、最後の技がここにある
想い
境内、木陰でお茶をするのも
紹介くださった
mamanjyon326youさんに感謝して
mamanjy
誤字訂正です⇒mamanjyun326you ごめんなさい