白瀬矗。幼少は鬼畜に似た奇行で周囲を驚かす。愛犬をかみ殺したり、千石船の船底に
穴を空けようとし失敗し、生死を彷徨い、近所を騒がせている。
12歳。寺小屋の先生、佐々木節斎の「北極」の話を聞いて、北極に憧れる。
5つの探検家としての戒めを書いた紙片には、
酒を飲まない
煙草を吸わない
茶を飲まない
湯を飲まない
寒中でも火にあたらない
好奇心に溢れ、これから成人になる、白瀬中尉にとって体が欲する欲望の芽が摘み取られたようなもの、けれど、白瀬中尉は戒めを実行し始めた。
もともと生家は浄蓮寺。戒律は日々背負っている。
4、5人の上級生から「校庭まで来い」を、「用があるならいまここで云え」と切り替えし、しぶしぶ、行くと、木刀で殴りかかってきた。不意の一撃は、空を切る。何しろ喧嘩なれ白瀬中尉、態を躱した瞬間、つんのめる相手の顔面を血だらけにしてしまう。
教員室から見ていた教頭がバタバタと仲裁に駆け付けたが、怒鳴られたのは喧嘩を売った、上級生たちではなく、血だらけにした、白瀬中尉である。
白瀬中尉は教頭に食って掛かる。「上級生が束なって、下級生を木刀を喧嘩するのは理屈に合わない」「奴らは教頭が来たら一目散に逃げた」「俺は悪くない」教頭は強情な白瀬中尉をもてあまし、校長室に連れて行く。
「下級生が上級生を怪我をさせてはいけない」この一言で学校が嫌いになった。
あくる日、昨日の出来事は何も無かった顔で教室の扉を開けていく。
図太い神経の持ち主である。かなりの意志強健でもある。
学校嫌いになり 浄蓮寺の長男として、寺を継ぐことなど、微塵も考えない白瀬中尉は、平田篤胤の高弟、医師で蘭学者の佐々木先生の教えは、読み書きから、そろばん、四行五経を習い、コロンブスやマゼランの探検など未知の世界を聞き、ますます探検家になる夢が膨らんでいく。
明治43年7月朝日新聞に、白瀬中尉は南極探検の乗組員募集の広告を出す。
前年、北極探検の夢は、ロバート・ピアリーが北極点踏破のニュースが流れたことで驚き、やがて失望する。失意の日々から出した結論、「北極の探検を断念」
煮えかえるような思いの日々から、南極探検に方向転換し、思いを馳せる。その思いは空転してしまう。
追い打ちをかけるように、アーネスト・シャクルトンが南極に到達してしまった。再び失望。がイギリスは翌年も南極へ挑むことを知り、「それでは俺が先陣をきる」と方向転換し、明治43年1月帝国議会に「南極探検に要する経費下付請願」を提出した。
最初は申請書もたらいまわし、「また、馬鹿げたことを」と相手にされず、焦燥の日々を送るが、国民の味方をつけよう、「国家事業として名誉なこと」と新聞社に記事にするよう依頼するが、相手にされない。
最後の手段として賛成者数人と、演説会を計画した。
この演説会が功をなし、国民を味方に付けたのである。やがて申請書は議会で受理され、7月5日大隈重信伯爵が会長になって「南極探検後援会」を設立した。
探検隊発表のこの日、神田錦旗館の周りは数千人が群れをなし、聴衆の中には会場の窓を破って入る者まで現れた。
8月下旬。
六郎は新調した袴に履き替え、鼻緒を挿げ替えた高歯姿で探検隊募集の面接会場に向かった。
大隈重信伯爵は六郎の母校、早稲田実業の創立者である。
一縷の望みを持ち、懐の中の汗で破れないように油紙に包んだ、朝日新聞の募集記事を何度も触りながら「探検家の一員」に採用されるよう祈った。
その頃節三は近々養子となって父となるだろう兄悌三と一緒に花輪村小枝指の児玉道場の玄関で児玉高慶を待っていた。
道場は明治26年児玉猪太郎が設立し、今は講道館で柔道、有信館本館で剣道の修業を積み終えた猛者、高慶が父の後を継いで館主となっている。
華奢だが背の高い、悌三は天井の一点を見ながらカイゼル髭を指で撫で、節三は端正な顔立ちが一層際立つような殺気立つ鋭い眼光で道場の奥の気配を追った。
東北小坂村は旧盆が過ぎると一気に気温が下がる。
秋は目の前、冬の到来はあっという間である。