太田節三
「六郎君は、負けん気と人の隙を見抜く力は人一倍強い子でしたよ。早稲田実業に入ったといっていましたが、わしは君の剣道は筋がいいから続けるようにと、励ましたんですが、どうしていますかね」
悌三は首を傾げてしまった。
「わしは講道館の外に有信館で剣道、居合道、杖道を中山範士に教えを乞うたんですが、近々中山先生と三船先生がお見えになりますが、是非六郎君を中山先生に紹介しようかと、一案していたんです。」
小柄な「なお」は腿の上でこぶしをギュッと握り部屋の隅で児玉の思いを目を細めて聞いていた。
悌三は、「有難い」ことだ。思った。
同郷人とはいえ、中央の名だたる人物との交流の広さのみならず、皇太子にまで「秋田の児玉」と唸らせた、目の前の巨大な塊、8歳年下の児玉高慶の心の広さに感銘すら覚えた。
六郎のことは悌三こそが知りたい事であった。
節三は勉強は嫌い、好きなのは喧嘩。誇れる程勝つ。しかも単純な思考の持ち主。面倒なことには首を突っ込まない。何事にも「どうってことない」であっけらからんとしているが、六郎は学業もでき非常に繊細な神経を持っている。他人の痛みを放っておけない性格。寒さに震えるのを見ると、自分の着ているのを与える、空腹に動けないでいると有り金全てを食堂で使い果たす。そういう話は妹のミツから聞かされていた。
だが、帰省中に蔵の家から「名刀」を盗み質屋に入れる大胆さも持ち合わせいる。
「今度、帰った時児玉師範のお言葉は伝えておきます」
それが精一杯の返事であった。
次の日から節三は、児玉道場で喧嘩の戦いと武術の戦いの二刀流を熟す場を得た。
「安い俸給、すさまじい寒気、何か月続く暗闇、危険絶え間なく、生還おぼつかし、身体強壮にして身長五尺二寸(157.6センチ)以上、年齢25歳以上、40歳未満の者にして、堅忍不抜の精神を有し、かつ多量の飲酒をせず、歯力強健にして梅干しの種を砕きえる者」
秋田魁新報の白瀬矗が出した南極探検隊の隊員募集の記事を何度も見返し、呆然と立ち尽くしていた。
募集は終わったと告げられた。居合わせた、白瀬中尉には「君は16歳と若い、南極からは生きて帰れないかもしれない。過酷は想像を超えた物がある。君を巻き込む事は出来ない」とはっきり断られた。
だが、100メートルも歩かないうちに、白瀬中尉が住んでいる、数寄屋橋の印刷屋へ行ってみようと、決めていた。だが、何度訪問しても、白瀬中尉には会えなかった。
明治43年11月28日、芝浦埋め立てには、三宅雪嶺デザインの「南極旗」を手にした3万とも~5万とも言われる群衆が「開南丸」の壮行会か開かれ、ただちに出帆する予定ではあったが、荷揚げ作業に手間取り29日になった。その群衆の中には、白瀬中尉の夫人「やす」さん、長女の「ふみこ」さん、そして腰までのマントをはおり、学生帽の庇を深々と被った六郎も、少しづつ陸地からなれていく「開南丸」の船尾を群衆が岐路についてもまだじっと腕を組んだまま見送った。
あくる日16歳、六郎は「朝鮮から満州」に行こうと決め、決行。
その後5年間六郎の足跡は消えて仕舞った。
3、4ヶ月の間に児玉師範の眼に、節三の柔道は「研磨された原石が輝いていく宝石のようだ」と映っていた。紅く色を染めた葉は、跡形もなく、間もなく白銀の景色が花輪村小枝指にも、小坂村にも容赦なく襲ってくる。
太田節三 13歳
ルーシー・バニング・ロッシ32歳
佐藤千夜子 13歳 明治44年が間もなく始まる。