春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

文治郎ンちの、猫?

2018-06-28 22:54:59 | 社寺

 

 

渋川市から「からっ風」街道、スピードを抑えてしまう、
榛名山の風景に、風が心地よかった。

 

 

 

 

 


彫し関口文治郎、関東の「左甚五郎」と言われる男、
中国24史を題材にし、彫の鋭さ、柔らかさを自在にする技に、
上州、武州、信濃の宮大工の棟梁はこぞって、文治郎を名指し、
最後の作、榛名神社の海老紅陵まで人気は変わらなかった。
24史は魅力のある彫刻とは思えないけど、
花輪町の彫刻軍団をまとめ、後世に彫刻で名を遺した文治郎の、
素顔。

手慣れた鑿の扱い、文治郎に鑿に変わる光物。
文治郎は「新当流免許皆伝」の使い手でもあった。
塚原卜伝から8代目。

最後の皆伝書はブラジルに渡ったとしていたが、
萩原家違いで、萩原静子氏宅から発見されたものに、
文治郎の名が記されていた。
山賊の刀の先の肉を平然と口にし、
若者たちの追っ手を畳を返しながら逃げ切ったなど、
武勇に飛んだ男でもあった。
これで、人間関口文治郎に興味を持った。

その文治郎が育った桐生(当時勢多郡)市,
渡良瀬渓谷沿いの花輪町に・・。

 

 

 

 生まれた家の不動沢で、滝に打たれ心身を清め、
在郷の彫師たちを育てることに力を注いだ文治郎。

 

 

 

 

 

 
ちょっかいだしても動じない。

 
初めて会うのに、肝っ玉が据わっている、
文治郎は、国宝文化遺産をいくつも彫った男だ・・。

「しッ、しッ、しッ」無言で威嚇したのは・・・ネコ!




 写真 2018.6.24 みどり市花輪町

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伊達男・文治郎、榛名山麓で煙管ばっかし!

2018-06-27 22:36:30 | 社寺

 

榛名山の麓、
箕郷の西明屋の氏子から神社の改装を依頼されたのは、
1783年黒保根、上田沢で正月を過ごしたばかり。
関口文治郎は次男松治郎を連れて、
西明屋の八幡宮に出向き仕事の打ち合わせをしている。

浅間山に噴火の煙がたち、噴火の焼砂が降り始めたのが7月7日。
箕郷村は農作物が全滅し、荒れ地になってしまった。
翌1784年は八幡宮の建立を中断し、
浅間山の噴火が収まり、落ち着きを取り戻した、
氏子たちは、八幡宮の建立に、15両1分を集め、
再度八幡宮改修に願う。
本殿がの出来上がったのは、1791年。1796年

文治郎60歳。66歳
次男松次郎は、脇障子、戸脇を担当し2両2朱、
文治郎率いる花輪彫刻の、
神梅の鏑木半次郎と花輪の前原与四郎は、
獅子8つ象2つで作料3分。
鏑木半治郎 作料金3分

目貫龍竜と珠輪を彫った水沼の萩原要右衛門に1両2分を、
そして、越後から呼んだ、木挽久右衛門は、
神社の正面、蟇股を彫った功績に、4両1分を渡した。
文治郎ここでは彫らず、棟梁風。
天下の名工と騒がれているのに・・・まったくゥ~!


このころから、文治郎は、彫刻棟梁としての集団をまとめる力は、
の集団より抜きんでていた。

誤記に横線をし、赤字は訂正箇所  訂正
toyo
 勢多郡東村誌、黒保根村誌、群馬県史に依存。


西明屋八幡宮、今は東向八幡宮。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 写真 2018.6.24 高崎市箕郷町

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山が燃える、文治郎、男盛り

2018-06-25 22:56:43 | 社寺

 

1979年黒保根、下田沢にささら舞いが伝わり、
小さい太鼓から山間の医光寺の境内響いていたころ、
その年10月、南の島桜島が大噴火し、島民の大半が焼け死んでいる。
関口文治郎がその話を聞いたのは、
1980年11月、桐生下田沢から10里離れた、箕郷村で、
不動寺の境内の仮小屋で空っ風、寒さをしのぎながら、
欄間に3つの24史彫っていた時。


関東、文治郎の噂は、左甚五郎の生まれ変わりと、
一際高い評判。
箕郷柏木沢の農民は、4丁離れた
「不動寺」の境内でひと目、
文治郎見たさに境内を埋める
ときもあった

文治郎49歳、弟子の千次、松治は、文治郎の子供。
弟子の才能は、文治郎22歳で、医光寺の24史を彫り上げた技には、
とてもかなわない、
が、男前ではあったろう。

11月14日、不動寺の24史を彫った後、
藤岡の「秋葉神社」で一仕事を終えた、

よく年、1781年、箕郷村の「赤城若御子神社」の、
本殿に彫刻の依頼を受ける。
それからさらに1年半後、1783年7月7日、
浅間山が大爆発するなど、知る由もなく・・。


その「赤城若御子神社」

 

 

 

 

 

 

 


磨けば、立派な神社であります。

 

 

 



 

 

 

写真 2018.6.24 高崎市

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人間、文治郎・桐生天満宮(序)

2018-06-23 23:28:07 | 社寺

 

群馬県黒保根,医光寺に中国24史を彫った関口文治郎は、
3年前、1752年寝食を共にし師匠石原吟八郎が、
病で亡くなり、あとを受け次いで、
彫り上げた、武州(埼玉県)妻沼の聖天堂・本殿・幣殿。
その出来は、多くの宮大工棟梁たちの眼に留っていた。

それから25年経ち、文治郎47歳、
このあたり、人間臭さがにプンプン、ここで気になり始めた。
彫り物集団の頭になり、
息子、仙次郎、松次郎は文治郎の弟子になって彫師の道。

宮城村の「金剛寺」を彫ってから4年。
弟子の彫りに目を光らせ育成していた1777年、

龍舞村(太田市)の宮大工大棟梁、町田弥七郎栄信は、息子栄清を、
文治郎の屋敷を訪問させた。
上田沢の医光寺は栄信が作り、
文治郎は医光寺の欄間に24史を彫っていたよしみ。
天満宮の彫刻を、文治郎にと。

文治郎、随行者8人と、大量の味噌を持って、
天満宮の敷地で自炊を始めた。
12年間。
幣殿と本殿、埋め尽くした精巧華麗は、
関東各地、桐生天神の名を轟かせたという。

文治郎ひっせいの大作。桐生天満宮です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



         写真 2018.6.17 桐生市

 

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関口文治郎の彫刻(序)

2018-06-21 23:59:49 | 社寺

群馬県桐生市黒保根下田沢の医光寺に、
中国24史の彫刻が、本堂の欄間飾られている。
師匠、石原吟八郎之が亡くなって独り立ちした、
関口文治郎の作。
昭和37年3月25日「商工会たより」に、役場職員松島晃史が、
欄間裏面に「宝暦6年、彫刻関口文治郎」と記録されていたのを発表したて判ったもの。む(宝暦6年=1753年)
幼少から彫刻の才能に一目置かれた、文治郎。
22歳の時に彫り終えた、透かし彫りに両面彩色。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この地藏さんの左を曲がり最上段に、
今年の5月、上田沢の観音堂から、関口文治郎の墓が、
末裔の地所に、移された。

 

写真 2018.6.17 桐生市

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