☝生家裏の「舞鶴公園」から天童市を。
1897年(明治30)3月13日「佐藤千代」後の「佐藤千夜子」が生まれ、
14歳で上京するまで住んでいた山形盆地、天童村(市)の生家。
すぐ隣の土地には、天童教会の墓地があり、
当時は、写真のような立派なものではなく、
ひっそりとした墓地。
佐藤千夜子は生家が5分ばかりの天童教会の日曜学校に通って、
教会伝道師の紹介で、上京、普連士女学校へ入り、
この時期にオペラを見て、感動しのち東京音楽学校を受験する。
歌を通して、山田耕作に中山晋平を紹介され、
その後は、野口雨情が加わり親交を深めます。
佐藤さんは、当時中山晋平の曲を歌い各地を回り、
1925年ラジオが開設されると中山晋平の「青い芒」で
レコードを吹き込み、名が少しづつ知られるようになり、
1929年は「波浮の港」のレコードが大ヒット。
佐藤千夜子」の出すレコードはどんどん、大衆の間に広まり、
歌謡曲のジャンルを確立してしまいます。
大御所(?)と呼ばれるようになり
明治マンドリンの「古賀正男」を世に導き出すのですが、
一方「中山晋平」との叶わない、苦悩の「仲」に。
絶頂期、歌以外に揶揄する世間に見切りをつけ、
オペラの勉強を理由に、忽然とイタリアへと、
日本を離れていきます。1930年。
が、豪放磊落、切符の良さは、イタリアどころかアメリカで道草を。
サンフランシスコの金門橋で、独唱会を開き、
ロサンジェルスに移動し、西本願寺ホールで、
日本人会が開いた歓迎の調べの後、
曲者「萱島操」氏から、
アメリカ人の富豪の遺産を引き継いだ太田節三氏を紹介され、
多情な二人は数か月、ロサアンジェルスで過ごすことに。
夜ごと、繁華街に繰り出していた頃、日本では、
佐藤千夜子の消息が分からず、てんてこ舞い。
節三兄の書簡から、読売新聞の報道から、
道草の事実が判り、おや、おや・・・。
自由奔放な佐藤千夜子が痛めた「晋平の傷」が癒え始めたころ、
再び芽生えた「オペラ」の情熱が・・・、
今度は間違いなく、太田に百合の刺繍のハンカチを振り、
勇んでミラノへ出向きます。
8年後の帰国は、日本での佐藤千夜子さんが活躍する場はなく、
子もなく、1968年、12月13日まで、
太田節三も味わった、ひっそりとした人生。
今、生家に残る3万数点の遺品は、
昨年、8月から拝見することができず、
残念!
歌謡界の歴史に、とっても貴重な資料があるこの施設、
再開できないものか、そう願うのですが・・・・。
オペラ歌手、二期会で活躍している冨岡由里弥さんは、
佐藤千夜子さんの大姪、顔がそっくり!
由里弥氏が「母が言っている、事実と違う場面がある」と、
苦言を呈した、
1977年放映されたNHKの連続テレビ小説「いちばん星」は、
佐藤千夜子さんをモデルにしたものでした。
※冨岡由里弥さんgoo ブログでも活躍は拝見できます。
生家の裏山は今「舞鶴公園」となって、天童市の銘品、
将棋の駒が高台に置かれ、天童桜まつりとして「人間将棋」が
開かれる観光地になっています。
☟舞鶴公園の一部、手入れの行き届いた公園でした。
☟生家の近所から・・・・。
右に曲がると、舞鶴公園に。
※舞鶴公園から、気分を新たにし、
十和田湖、弘前へと向かいます(19日の夕)