東吾は、兄、北町与力の神林通之進から、白萩屋敷に、
香箱を届けるように頼まれた。
兄嫁から褐色の結城紬に仕立て下ろしの袴、紋付の単羽織を着せられ、
香箱の包と兄の書状を小脇に抱え、
のどかな顔で八丁堀を出た。
屋敷は小柴垣で、石神井川からの小さ名流れに、
小橋を渡して枝折戸をくぐるようになっている。
茅葺き屋根の田舎風ではあるが、普請は凝っていて檜の良材が、
ふんだんに使われている。
女主人の奥の部屋の方で、花を活けていた。女主人の横顔が見える。
藤色の着物に白っぽい被布を着ている。
まるで萩の花の精がそこに座っているような清楚であでやかな印象であった。
手紙を読み終えた女主人は、香箱の包を開いた。
蒔絵の香箱になかには、上等そうな香の包がいくつも入っている。
東吾は、仏間に入って、焼香をすますと、東吾の横から女主人が礼をのべた。
何気なくそっちへ顔を向けて、東吾は動揺を危く、返礼でごま化した。
美しい女主人の顔には、むごたらしいばかりに火傷の痕が残っている。
酒と肴が運ばれて来た。
酌は女中がした。
「最前、いけて居られた花は、珍しいものでしたが・・・」
盃を手にして、広縁の壺をみた。
「野の花でございます。吾亦紅と松虫草・・・・」
「吾も亦、紅なりと書きますの」
素朴な花だけに、名が良かった。
通之進が庭に視線を向けた。そこには桔梗が咲いている。
東吾は兄が仕出しの後、兄嫁の香苗が、どことなく沈んでいるのに気がついた。
「青江様の根岸の御別宅は、萩が見事なのでしょう、
白萩屋敷と呼ばれているとか・・・」
「兄上はよく白萩屋敷へお出かけになっていたのですか」
「春と秋のお彼岸の頃、お供物をお届けがてら・・・」
「義姉上も・・・」
「いいえ、いつも一人です」
十日ばかり、日がたち、
白萩屋敷の女主人が病んでいるという。
通之進は、手文庫から、一冊の本を出した。
「伊勢の御、という歌人の歌集だ。お気晴らしにと持って行ってくれ」
白萩屋敷の女主人は歌を詠むのかと思った。
日が暮れて間もなく、東吾は息を呑んだ。
白萩屋敷の萩が満開だった故である。
垣の内は、どこも白い花が重たげに枝を埋め、
花の下には花が散りこぼれていた。
夜気の中に花の香りがかすかに漂ってきて、東吾は陶然となった。
衣ずれの音がして、女主人が入ってきた。
城縮緬に墨絵で萩の花群が描かれている。
帯はなく、鴇色のしごきを前に結んだだけであった。
「私を病人扱いになさいませんように」
「歌をたしなまれていたのですか」
「私が通之進様にお手ほどき申し上げたものです」
「お見せいたしましょうか、通之進様のお歌・・・・」
香月は東吾を見つめたまま、内懐へ手を差し入れて、紅い布に包んだ、
二つ折りの短冊を取り出した。
長い歳月を経たものだということは短冊でも、墨の色でもよくわかった。
花に似し君想わるる 月の夜に
萩の小道を一人し歩めば
通之進
「私が青江に嫁ぎます折、通之進様が下さったものです」
「通之進様は早くお母様をおなくし遊ばしたせいか、
私のことを母とも姉とも慕うて下さったように思います。
私はあの方が好きでございました」
「お恥ずかしいことですけど、
私一生に一度でも通之進様と枕をともにしたいと願いました。
あのお方は私より七つ年下で・・・私の気持ちは片思いと承知もして居りました。
どうしても嫁がなければならなくなった時、
私、一番、都市の離れたお方を選びました。
夫となる人が一日も早く死んでもらいたい。独りになれば、又、通之進様に
お目にかかれるかもしれないと・・・・」
唇が僅かに笑った。
「しかし、あなたは火の中へ青江殿を助けに行かれたのではありませんか」
「いいえ」
香月の髪が揺れた。
「あれは、この短冊を取りに戻りましたの」
香月は東吾の手から短冊を取り戻した。
「これは、私の命ですもの・・・・」
文字の一つ一つを心に刻むように見て、短冊を東吾に返した。
「あなたの手で焼いていただきましょう。
私が死んだあと、誰の眼に触れてもいけません。東吾様以外のどなたにも
渡したくございませんから・・・」
香月の死を東吾が聞いたのは月が変わってからであった。
香月の命を縮めたのは、あの夜の出来事だと思う。
夜が明けるまで、東吾を求めてやまなかった香月が、最後にあげた声は、
通之進の名を呼ぶものであった。
通之進は、妻の香苗が実家に行って留守に、
東吾を連れて、白萩屋敷へ向かった。
小柴垣の向こうは無人になっていた。
東吾は別棟の黒い屋根を見た。あの屋根の下で、身代わりの恋に燃え尽きた。
萩はもう散りきって、庭は荒れかけていた。
「東吾」
兄が呼んだ。
「私は少年の頃、香月殿が好きであった、母のように、姉のように、
香月殿をしたっていたと思う」
通之進の足元で、落葉が風に吹かれていた。
「香月殿も同じお気持ちだったかもしれませんね」
東吾は、兄の恋歌をもやしことも、その夜のことも、香月の火傷の理由も、
兄には生涯告げるまいと思っていた。
風が萩の枝をゆさゆさと揺らしている。
※白萩屋敷の月から。