春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

籠城、無手勝流でvsコロナ。箱根の花!

2020-03-31 22:14:02 | Extra

老人がコロナに感染を避け、
ニュース、外に出ない要請を受けて、
自室に籠り、頬杖4日、
買い出し、外に出ればコロナ忘れているのに、
テレビを見てしまう家の中では、
流石、立ち上がると足元が ❛よたり ❜

江戸期の成人男性は、旅の1日におよそ10里。
平地、自然を眺めながら歩いて、
8~ 10時間で約40kmを歩いた。
皇女和宮さんが中山道、2万人?の用心を、
引き連れて下向した時でさえ、おおよそ20キロ。
八王子の河童、一日の歩行距離、150m。
大人になってもガキ大将、
覗き込んで小心者に変える戒めのラブレター👇


👆年々、肺機能が悪くなる診断。
👇その他はま~ぁま〜ぁと判断したのに、
結果報告には、なんと何項目もの指摘が・・・。
河童、首をうな垂れて、
ここでコロナに感染しては明日は無く・・と。
箱根の花の写真を眺めては、
サバの一夜干しをパク、パクリ。

明日の作戦は籠城、無手勝流で・・・
与太郎河童 vs コロナ。



👆ヘマトクリックは、肥満、多汗症ではなく、
水分摂取が少ない人に現れる症状なのだとか・・・。














写真 2020.3.21 箱根にて
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ハナニラの花沢川万葉の道、東海道。焼津市 ①

2020-03-29 23:56:36 | Extra

焼津辺・焼津から、阿部(静岡)の東海道、
奈良時代、僧侶から俗人になり、春日の朝廷の倉庫番をし、
春日倉首を与えられた貴族。
国に残した娘を思ってか、子の躍動に感動したのか、
ふと、よぎった歌。

昔の東海道が、この道と教えてくれた、万葉集の中の一句。




花沢川に沿った狭い路、
片側の石積みの上に長屋門風の古い板壁の民家。
江戸時代、1700年頃の意匠を堅持し、
昔、三十戸、今は二十八戸、
これからの二十八戸は、
花沢山・449m、高草山・501m、満観峰・470mの
ハイキング客の無事を祈っている。



































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自粛規制。

2020-03-27 21:59:07 | Extra

昨晩遅く帰宅し、
今日は一日テレビに噛り付いて、
大変な状況になったと、今後を気にしているところです。
定期健康診断で、
肺に影があり、再診を促されたときは、
有無を言わさない、ものでした。
唾を試験管?に入れ検査が終わるまで、
完全に隔離室で待ちます。
一切ドアからは出られず、
結核と判明した時点で、着替えの用意に、
自宅に戻ることはできませんでした。
幸いは、指定された病院は、
世界が注目する結核研究所が清瀬市の病院で、
約3か月間の隔離病棟での生活。
日に3度、3種類の薬を飲むまで、看護師が側から離れません。
面会は、菌が少なくなるまで謝絶です。
一時は結核を知らない医学生がいたくらい、
日本の結核は昔の事と、
言われていた菌が、日本に蔓延した数年前でした。

得体のしれないコロナの各国の惨状には、
戦慄が走ります。
どのような感染経路が判らないウィルス、
人と会わないことは効果があるとなれば、
外出の自粛は、今は一番いいことなのでしょう。
ウィルスに勝つ新薬が出るまで・・。
一年後?、二年後?・・?せめて半年であってほしいもの・・・と。


















写真・2020.3.25 岐阜にて


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自粛規制で、八王子に戻ります。

2020-03-26 08:04:42 | Extra

昨晩、多治見市のホテルに着いて驚きました。
長野県、奈良井宿から、美濃市を訪れ、
4ヶ所ばかり見学したのですが、
都内の、コロナが急増し自粛気勢が敷かれたことに、
オリンピック延期のニュースより衝撃を受けました。
私は肝臓数値がいつでも高く、
ウィルスC型肝炎とは知らず、生きてきました。
結核療養でウィルスC型肝炎の疑いを指摘され、
アメリカの新薬で治り、今は全くの正常な数値で、
生活をしているのですが、
ウィルスはいつまでも生き続けるということを、
体験しているだけに、
死に至るコロナが蔓延する状況がは、
やはり気がかりです。

今日は八王子に戻ることを念頭に、
行動することにします。

👇岐阜美濃市・大谷田神社楼門。


👇岐阜美濃市、長良川風景。





👇こぶしだそうです





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野焼きの原、箱根にピレネーの花

2020-03-23 22:30:56 | 散歩






猫が鳴こうが、逆立ちしようが、
牛が鳴こうが、星になろうが、
新聞紙棒の一撃があろうとも、
ボーっと生きてて、机に脚を上げた不動のスタイル、
仕事を終えた歓喜のエビスビール一本に、
イチゴの景色が消えたり見えたり。
野焼きが済んだ、箱根仙石原の湿地園、
広い湿地に、僅か咲いていました。
3月21日。




























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庶民が完成させた、歓喜院聖天堂・埼玉県

2020-03-21 09:22:42 | 社寺

摘み草時に終われる仕事、
土筆摘む親子の姿に、
あそこに行きたい、ここも、と、
思うだけになるのだろうか、後二日。

源頼朝が参拝し、
斎藤別当実盛公(さいとうべっとうさねもり)が、
ご本尊聖天さまを1179年、
お祀りしたのに創まりで、実盛公の次男斎藤六実長が、
出家して阿請房良応(あしょうぼうりょうおう)となり、
1197に歓喜院を開創いたしました。

👇中世には忍(おし)城主の庇護を受け、

行田市にある模擬の城 インターネットで借用。で



近世初頭には徳川家康によって再興された、
1670年の妻沼の大火で焼失した聖天堂。


1735年から、
熊谷の宮大工棟梁・林兵庫正清。孫の正信が手掛けた聖天堂。
惜しみない技術と、花鳥を主題にした、
彫刻師達のマンネリに、
斬新なモチーフを彫り込んだの聖天堂、
1760年以降北関東の彫刻師達は、
独自な発想を表現するようになりました。



神様が、洪水の災害で飢えに喘いでいた、
市民の心の中で身近な存在になった、
そんな歓喜院聖天堂、彫刻のモチーフが、👇。

👇唐子の相撲に、わが子が健やかに育てと、
祈りたくもなって・・・


👇丸めた雪を転がす遊び・・、
梅が咲いているから、雪解け頃に降った雪 ?


👇獅子舞の、
子供たちの健やかな成長の願いには、
唐草模様・牡丹が定番も、木瓜文や唐花文で、
芙蓉を施し派手さを表していて・・・・


👇女の子が、幼い子を盆踊りの輪の中に手を引いて、
男の子の、誘っている優しさが


👇凧揚げの歴史は、古代からで、
永遠と続いてきた遊びが・・・・


👇蛇行遊び、
鬼が、連なる子らの後ろの子を捕まえる遊び・・・


はっけよ~ぃ?・・・闘鶏の図柄に、牡丹を大きく彫って・・・。


👇二本足の竹馬は江戸時代からで、
竹に造り物を飾る古式の竹馬は遊ぶ子ら・・。


工事の費用を負担したのは、
幕府や大名、豪商ではなく、
妻沼を中心とした庶民たち。
度重なる大洪水などで中断して
大工棟梁、林正清は1753年に
彫刻棟梁、石原銀八郎は1759年に、
1960年の完成を見ることができなかった。











👇1851年、聖天堂の完成1760年から100年後。
聖天堂の宮大工林正清から5代目養子の正道が、
妻沼歓喜院聖天堂の門を完成させました。







👇千代桝・割烹




※聖天堂の彫刻は一部ですのでご了承くださいますよう!
色彩は原色なのですが、表見しきれず・・。

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わたらせの瀬音、涙の「鷲と猿」 妻沼聖天堂

2020-03-10 20:52:49 | 社寺

小雨に歩く人が、車を追い越していく。
高尾裏街道、景信山登山口までの細い道、
携帯を持たず、カメラも持たず、
白い梅、、向こうにピンクの梅が、と、
靄の舞いには、車を止め、
仕事の緊張が融け、たおやかな心地の朝。


花輪彫刻集団の礎を築いた石原吟八郎さんが、
弟子を連れ、
埼玉県熊谷市妻沼に、出向いたのは1749年。
12歳で彫刻仲間に驚きの腕を見せた、
弟子の関口文治郎さん、若干19歳。
吟八郎さんは文治郎さんを可愛がり、

技を教えた彫刻師です。

今の日光東照宮の将軍霊廟から130年後、
観賞用にと、庶民信仰社寺の装飾を施した、歓喜院。
日光東照宮の花鳥に変わり、

権威の象徴から、一歩踏み込んだ、
七福神や唐子の彫刻が評判になり、
工匠たちは民の遊楽、哀歓の象徴した、
歓喜院の彫刻をこ踊りして、真似をし、

技法を自分なりに磨いていきます。
が・・・
1780年頃から、将軍霊廟構築は禁じられ、

極彩色の社寺はまもなく、節約令で、
柱も梁も土台もすべて白木構造に変わります。

1760年25年の歳月で完成した歓喜院聖天堂、
11人の弟子を育て、、群馬県渡良瀬渓谷に、
彫刻集団を作った石原吟八郎さん、

歓喜院のお披露目を見ることなく、
1759年、病に伏し、群馬県
花輪村で、
わたらせ渓谷の瀬音を消します。

👇吟八郎さんが亡くなった後、

関口文治郎さんが彫り、
彫刻家の名を世間に轟かせた、
22歳のデビュー。
「鷲と猿の図」
1720年狩野探幽さんの弟子が描いた絵で、
すでに記録に残っていたといいます。


👇鷲が猿を襲っているのではなく、
川の流れに滑り落ちる猿を、鷲が救い上げている図。
観光に訪れた庶民の心を打つ図柄でしょうか・・!








👇本殿、反対側の羽目板2枚。














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世良田八坂神社、飛んでけぇ~と祈る。 

2020-03-07 20:22:01 | 社寺


喘息 ゴホンと咳をすれば、8個の黒目が、
突き刺さり、2つの尻が宙に浮く、打ち合わせの席。
日毎止まないニュースに、のほほん河童の、
ジョークも色あせ、

摘まんだ、たくあん、口元で一時停止!

1760年、
北関東の社寺彫刻を語るには、原点ともいえる、
煌びやかな色彩の歓喜院聖天堂👆が、

埼玉県熊谷市に、建立されました。
完成するまで25年。
大工棟梁は、熊谷市出身の林正清さん。
彫刻棟梁が石原銀八郎さん、で
花輪彫刻集団の礎を築いたボス。

歓喜院から2キロばかり、
利根川は度々氾濫し、家が流され、食料に飢え、
疫病が流行り、歓喜院は江戸の御開帳で建築費を賄いながら・・、
幾度も工事は中断することに。
歓喜院工事の中断で、
大工棟梁林正清さんは、
利根川から12キロばかりところの太田市世良田で、
疫病厄除けの祇園社・世良田八坂神社を請け負います。
1756年完成の本殿





















八坂神社の祭礼を祇園祭といい、
農業・疫病除けの神として広く信仰され、
7月の第4土・日曜日に開催される夏祭は、
「世良田祇園祭り」
屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、
夜空にこだまして絢爛幻想の世界を繰り広げます。






領主、新田の紋が・・。




コロナコロナ、飛んでけぇ~


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野木神社・梟の住む杜。

2020-03-03 11:20:48 | 社寺



何事にも不器用を自称する、河童、
ねじり鉢巻き状態の仕事が、まもなく終わる、と、
八王子の朱い朝陽に、ふたつ、

ふ~っと、深い吐息の今朝です。
仕事に関わってくださって、
有形無形の協力くださった皆さんの、顔が、
少し喘息気味と花粉症でゆがんだ、頭の上を、
くるくる、廻っています。

出産した女性が、乳の出が良くなるようにと願って、
白布に米ぬかを入れて乳房を模したものを、
境内のイチョウに奉納するという民間信仰がある
野木神社。
栃木県の下都賀郡野木町。
平安時代に遷座し、
1806年には焼失し、
古河藩主土井氏の崇敬を受け、
古河藩が鎮守・祈願所として1819年再建された、
梟が住む杜です。




江戸時代末期、各地の寺社に彫り物を施している、
石原常八主信さんは1819年、33歳で野木神社の社殿に、
鑿の冴えを施します。
彫物師が一社での準備は、2~5年で、
家族から離れて、生活をしますが、
この時主信には9歳の子供がいて、
石原常八主利と名乗りました。
後に、熊谷市の国宝聖天堂の、

貴惣門に彫刻を施し、
北群馬郡榛東村の宿稲荷神社では、
1863年、父が亡くなる2年前、
常八主信さんの最後の作を、親子で彫り上げています。

👇野木神社
























12月3日は冬季霊祭は、提灯もみ祭りで賑わいます。
参道に沿って町内ごとに
当地方特産のよしずで小屋を建て、
その中で甘酒や煮しめなどを食べたり






樹齢650年と言われているケヤキ。


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